マタイ20:20-23「この杯が飲めますか」

2022年4月10日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マタイの福音書』20章20-23節より


20:20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
21イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
22イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」



「そんな都合のいい話でいいのか」

 先週の金曜日、新潟の病院に入院している母方の祖父と、オンラインビデオ通話をしました。祖父はもうかなりの歳で、ご飯を食べたりしゃべったりすることはできなくなっているんですが、それでも、家族の言葉に反応して、頷いたり笑ったりしてくれました。病院の都合もあり、家族全員でのグループ通話とはいきませんでしたが、母と長男も一緒の四人でのビデオ通話で、久しぶりに祖父の顔が見れた、幸いなひとときでした。

 「おじいちゃん、今ね、岩手県の盛岡にいるんだよ。盛岡の教会で働くことになったんだよ。きれいな山がたくさんあって、おいしいごはんもたくさんあって、すごくいいところなんだよ。」そんな報告をすると、祖父は少しだけ微笑んで、頷いてくれました。祖父は青森県の出身なので、岩手の風景にも馴染みがあったのかもしれません。今から一年前の4月18日にイエス様を信じて、87歳で洗礼を受けた祖父の、優しい笑顔でした。

 もともと祖父は、無宗教や無神論を貫いてきた人でした。キリスト教会の悪い歴史、十字軍による侵略戦争のような教会の汚い歴史についてもよく知っていたので、キリスト教に対していつも批判的な立場を取っていました。それで、詳しい流れは覚えていないんですが、たしかその日は、私と祖父で、「救い」について話していたんです。「おじいちゃん、イエス様を信じれば、救っていただけるんだよ」みたいな話をしていたんです。すると、まだイエス様を信じていなかった頃の祖父が一言、こんなことを言ったんですね。「そんな都合のいい話でいいのか?」

 私はその言葉を聞いて、「なるほど」と思いました。「なるほど、キリスト教を信じない人、聖書を信じない人は、こういうふうに考えているんだなぁ」と思ったんです。もちろん、みんながみんなそういう風に考えたりするわけじゃないと思います。しかし、「そんな都合のいい話でいいのか?」という祖父の言葉は、多くの人の声を代表しているような、そんな気がしたんです。

 神様を信じれば祝福していただける。イエス様を信じれば救っていただける。それはもちろん、間違いじゃないはず。でも、それだけ、なんだろうか。キリスト教っていうのは本当に、そんなに単純なものなんだろうか。キリスト教って結局は「都合のいい話」なんだろうか。


「杯を飲むことができますか」

 少なくとも、ゼベダイの息子たちとその母が信じていたのは、「都合のいい話」だったようです。20節と21節に書かれているように、彼らが信じていたのは、「イエス様についていけば、一人はイエス様の右に、一人は左に座らせてもらえて、他の誰よりも素晴らしい祝福がもらえるんだ」みたいな、そういうなんとも「都合のいい話」でした。

 しかし、イエス様は答えます。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。」弟子たちはドキッとしました。「自分が何を求めているのか、分かっていない。」

 イエス様の右と左に座ること。弟子たちにとってはそれは、「イエス様が王様になったときに幸せになれるポジション、権力を手に入れられるポジション」というような意味でした。まるでご利益宗教。とっても都合のいい、自分の幸せのためだけの信仰、だと言えます。

 しかしイエス様にとっては、「右と左に座る」というのは、そんなにお気楽なことじゃなかったんですね。イエス様の「右と左に座る」ということ、それは「十字架にかかる」ということです。イエス様がお座りになった「王座」は十字架であり、イエス様の「右と左」に立てられたのも、十字架でした。

 だからイエス様は続けて、次のように語りました。22節の後半、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」弟子たちは、「杯」の意味もよくわかっていなかったんでしょう。「できます」と答えました。

 しかし、イエス様の「杯」とは、本当は、どのようなものだったのでしょうか。このことは、イエス様が十字架にかかる直前、「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる祈りの中で明らかになります。少し長いですが、マタイの26章36節から41節をお読みします。


26:36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
39それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」


 いつも朗らかで明るく、どんなときも力強かったあのイエス様をして、「悲しみのあまり死ぬほどです」とまで言わしめるもの、それがこの「杯」でした。人類の罪を、神様の裁きを、たった一人で引き受けること、サタンや権力者たちの悪質な暴力に対して、何の武器も持たず、裸にされ、十字架で無慈悲に痛めつけられ、殺されること。想像もつかないほど恐ろしい「杯」です。

 しかし、弟子たちは眠っていました。イエス様が今まさに「杯」を飲もうとしておられるのに、「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われていたのに、イエス様をひとりぼっちにして、眠り込んでいたんです。そればかりか弟子たちは、いざ兵士たちがイエス様を捕まえに来ると、イエス様を見捨てて逃げ去ってしまいました。「できます、飲めます」と答えたはずの弟子たちは、「杯」の恐ろしさに気付いたとき、逃げ出してしまったんです。見事な裏切り、大失敗です。


「みな、この杯から飲みなさい」

 でも、きっとイエス様は、そんなこともお見通しだったと思うんです。弟子たちの弱さも罪も、最初からご存知だったんだと思うんです。マタイの20章に戻って、23節のみことばをもう一度読んでみると、そのことがよくわかります。


20:23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」


 「できます、飲めます」という軽々しい約束が、いとも簡単に破られてしまうこと、そのことも全てご存知だったイエス様は、それでも、「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります」と、将来を見据えた御言葉を与えてくださっていました。「あなたがたは、わたしを見捨てて逃げ去るだろう。わたしの父が定めない限りは、あなたがたが『杯』を飲むことはできない。しかし、いつの日か必ず、あなたがたもわたしと共に十字架にかかり、杯を飲むことになる。飲むことができるようになる。」裏切りを見据えたイエス様の、憐れみと慈しみに満ちたお言葉です。

 そしてさらにイエス様は、大失敗を犯すことになる弟子たちのために、もう一つの希望を与えておられました。それは、この福音書の中でもう一度だけ、「杯」という言葉が出て来る場面です。最後の晩餐、つまり、聖餐式が定められた夕食です。マタイ26章の27節と28節をお読みします。


26:27また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。


 「みな、この杯から飲みなさい。」この御言葉は、「杯」から逃げ去ることになる弟子たちへの、イエス様の深いご配慮でした。「杯」から逃げ出してしまうような弟子たちのために、「杯を飲み続ける」という儀式が備えられたんです。「苦しみの杯」を受け取ることに失敗し、「飲めます」という約束に失敗し、「もう自分には杯を飲む資格なんてない」と絶望する弟子たちのために、「みな、この杯から飲みなさい」という御言葉を、予め与えてくださったんです。


「恵みの杯」とは何か?

 もしかするとみなさんの中には、「いや、聖餐式の杯というのは恵みの杯であって、苦しみの杯じゃないはずだ。」そう思われる方がいらっしゃるかもしれません。以前は私もそのように考えていました。聖餐式の杯を飲むとき、「イエス様が私のために十字架にかかってくださった」という「恵み」を、ありがたく受け取っていました。もちろんそれも、間違いではありません。

 しかし、そもそも「恵み」とは何なのか、ということを考えてみると、聖餐式の「杯」というものがどういう「杯」なのかも見えて来るはずです。使徒パウロが次のように語っていたことを、私たちは見落としがちかもしれません。ピリピ人への手紙、1章29節をお読みいたします。


1:29あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。


 「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、……キリストのために苦しむことでもあるのです。」もちろん、私たちを罪から救い出してくださるのは、イエス様の十字架だけです。イエス様の十字架だけが、唯一の赦しです。でも、十字架にかかるのは、イエス様だけではありません。苦しみを受けるのは、イエス様だけではないんです。「みな、この杯から飲みなさい。」これが、イエス様の血による新しい「契約」です。「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」これこそ、私たちが聖餐式で分かち合う「恵みの杯」です。

 パウロの言葉を、もう一つご紹介したいと思います。コロサイ人への手紙、1章24節です。


1:24今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。


 パウロが「教会のために」苦しんだのは、「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たすため、でした。「キリストの苦しみの欠けたところ」と言っても、「イエス様の十字架が不十分だった」とか「不完全だった」というわけではありません。もちろん、イエス様の十字架は完全です。十分です。しかしパウロは、それでも「キリストの苦しみの欠けたところ」があるのだ、と言うんです。その苦しみとは、「キリストと共に苦しむ」ということであり、「キリストのからだである教会と共に苦しむ」ということでした。これがパウロにとっての「杯」でした。イエス様のために、教会のために、パウロは「杯」を飲み続けたんです。


教会のために、教会と共に

 キリストと共に苦しみ、教会と共に苦しむ。このことについて、ぜひご紹介したい説教者の言葉があります。宗教改革者マルティン・ルターの言葉です。今から五百年前、聖餐式に関する説教の中で、ルターは次のように語りました。

この[聖餐式の]交わりは、キリストならびにその聖徒たちの霊的な宝が、ことごとく共有されること、さらにまた、いっさいの悩みも罪も共有することになるということである。

マルティン・ルター「キリストの聖なる真のからだの尊いサクラメントについて、及び兄弟団についての説教」(徳善義和ほか訳『ルター著作選集』教文館、2012年)99頁。一部表現を変更・省略して引用。


 ルターのこの説教を読んだとき、私は衝撃を受けました。聖餐式に参加する人々は、「霊的な宝」を共有するだけではなく、「いっさいの悩みも罪も」共有することになる、と言うのです。それまでの自分は、聖餐式というのは「祝福」とか「赦し」とか、そういう嬉しいものを受け取る儀式だと思い込んでいたからです。そういう喜ばしいことだけを教会の人々と共有するのが聖餐式なんだと、信じて疑わなかったからです。ですからまさか、同じ杯を飲む人々と「いっさいの悩みも罪も」分かち合うなんてことは、全く考えたこともありませんでした。

 みなさんはいかがでしょうか。聖餐式のあの「杯」には、「祝福」や「赦し」だけではなく、「悩み」や「苦しみ」も含まれている、そんなふうに考えたことはあったでしょうか。あの杯を口にするとき、教会の「いっさいの悩みも罪も分かち合う」、そんな覚悟を持っていたでしょうか。少なくとも私は、自分のことだけで精一杯だった気がします。「他の人の苦しみを引き受けるなんて、そんなのはイエス様だけでやってくれ、勘弁してくれ」という感じです。

 ただ、「もし本当に、そんなふうにあの『杯』が飲めたなら、どれだけ素晴らしいだろうか」とも思うんですね。祝福や赦しだけではなく、悩みや苦しみも共に味わう。もしも、そんなふうにして、互いのために「杯」を飲むことができたなら、そんな教会として歩めたなら、どれほどの幸いだろうか、そんなふうにも思うんです。ルターはさらに、次のようにも語っています。

それゆえに、この聖餐において、量り知れない神の恩恵とあわれみとが私たちに与えられて、私たちはいっさいの苦悩やいっさいの攻撃を教会に、特に、キリストにゆだねることができるのである。「私は罪人である、私は罪におちた、あれやこれやの不幸に見舞われた。だがよい、私は聖餐に行こう。私が死ぬことになっても、ひとりで死ぬのではなく、私が悩み苦しんでも、彼らが私と共に悩んでくれる。私のいっさいの災いは、キリストと聖徒たちとに共有のものとなってしまっている」と。

前掲書、102-3頁。一部表現を変更・省略して引用。


 いかがでしょうか。「私が死ぬことになっても、ひとりで死ぬのではなく、私が悩み苦しんでも、彼らが私と共に悩んでくれる。」これが、「杯」を共に飲む共同体の姿です。私の祖父も、一年前の4月、この共同体の一員となりました。「私が死ぬことになっても、ひとりで死ぬのではなく……」この幸いを、祖父は今、病院のベッドの上で噛み締めているのだと思います。

 聖餐式に再び与るとき、私たちはこの喜びを覚えていたいと思います。感染症対策のために、聖餐式が以前のようには行えていない今だからこそ、あの「杯」の意味をもう一度、心に留め直したいと思います。そして、聖餐式が再び執り行われるその日まで、「いっさいの悩みも苦しみも」分かち合う教会として、イエス様の「杯」にふさわしい共同体として、ご一緒に歩んでいきたいと願います。


祈り

 「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」父なる神様。イエス様が十字架にかかってくれたから、自分は十字架にかからなくていい。イエス様が苦しんでくれたから、自分は苦しまなくていい。そんな「都合のいい話」を信じていたいような思いが、私たちの内にあるのかもしれません。喜びや祝福だけを分かち合い、悩みや苦しみは隠しておく。そういう教会のほうが居心地が良いと思ってしまう、そんな心があるのかもしれません。私たちは「自分が何を求めているのか分かっていない」のかもしれません。しかし、あなたがお許しになるならば、私たちは再び、聖餐の恵みに与りたいと願います。もう一度私たちに、あの「杯」をお与えください。イエス様がお飲みになった「苦しみの杯」を、「恵み」としてお与えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。