第一ペテロ3:15b「復活を説明できますか」

2022年4月17日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ペテロの手紙 第一』3章15節後半より


3:15b あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。



「復活なんて信じてる奴らは頭が悪い」?

 「盛岡みなみ教会に赴任するんです」という話をすると、いろんな人から「大塚先生の後任かあ。あの人の後は大変だねえ」と、ニコニコしながら言われました。ただ、以前の私は、大塚先生のことをよく知らなかったので、「みんな大変って言うけど、どういうところが大変なんだろう?」と思っていました。

 それから大塚先生と知り合っていく中でも、いわゆる「普通の牧師」とは違って豪快な人だということは分かってきましたが、繊細な配慮をしてくださる方でもあったので、この先生が残した教会を任されることは、光栄なことではあっても、特別に大変なことだとは思いませんでした。

 ただ、先週の日曜日の午後、教会のKさんと、説教についてお話をしていた時に、「ノア先生、すごく良い説教なんですけど、ただ一つだけ、言わせてもらってもいいですか」と言われまして、(えっ、何を言われるんだろう…)と恐る恐る「何ですか?」と聞きましたら、Kさんが一言、「やっぱり、どこかで一度くらい、笑いどころがあるといいですね~」と。それを聞いて私は、「ああ、大塚先生の後任が大変っていうのは、こういうことか…」と、納得がいきました。

 生粋の関西人だった大塚先生とは違って、私は新潟育ちでどちらかと言えば東北の、おしとやかな人間ですので、説教で毎回笑いを取れるようなタイプではありません。Kさんをガッカリさせる日もたくさんあるかと思います。

 ただもちろん、大塚先生と私で、全く変わらないこと、全く違わないこともあります。それは、神様を本気で愛している、ということ。また、聖書と本気で向き合っている、ということ。そして、今日のイースターの日に私たちがお祝いしている出来事、つまり、「イエス・キリストは死を打ち破ってよみがえられた」という出来事を、心の底から信じているということです。

 先日、とあるクリスチャンの男の子についての話を聞きました。その男の子は、小さな頃から教会で育ち、素直な信仰を持っている子なので、大学に進学してからも、自分がクリスチャンだということを、周りの人にも素直に話していたそうなんです。

 ところが、「ある授業の時に、僕がクリスチャンだって話したら、教授がバカにしてきた」と言うんですね。どうやらその教授は、普段はまあまあ優しい人らしいんですが、キリスト教の話となると、途端に見下したような態度を取るようで、特に〈キリストの復活〉については、あからさまにバカにしてくるそうなんです。「復活なんてことを本気で信じてる奴らは頭が悪い」とまで。「悔しかったけど、何も言い返せなかった」と、その男の子は落ち込んでいました。「復活なんて信じてる奴らは頭が悪い」とバカにしてくるその教授に対して、何も反論できなかった。

 使徒ペテロは次のように語りました。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」この手紙の中でペテロが語る「希望」とは「復活」のことです。この手紙の1章3節や1章21節にも書かれているように、この手紙の中で「希望」という言葉が使われる時、それは必ず「復活」のことを指しています。〈イエスを復活させた神は、イエスを信じる人々を復活させることができる。〉これが「希望」なのです。つまり、このペテロの言葉は、次のように言い換えることができます。「復活について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できるように用意をしていなさい。」

 みなさんは、復活について説明し、弁明するための準備ができているでしょうか。もちろん、「聖書に書かれているんだから、復活は本当にあったんだ。だって、聖書に書かれていることは、全部本当のことなんだから!」という弁明も、一応アリかもしれません。でも、そのような説明では、少なくともあの教授を納得させることはできないでしょう。「聖書に書かれているんだから本当なんだ」というのは、クリスチャンではない人からすれば、あまり説得力のない弁明です。

 また、「復活は信仰によって信じるものだから、頭で考える必要なんてない」という弁明も、一応アリかもしれません。たしかに、最終的に復活を信じられるかどうかは、それぞれの信仰の決断によるでしょう。しかし、「頭で考える必要はない」というのは果たして、「説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」という御言葉に従う態度なのでしょうか。私たちはむしろ、信仰だけではなく理性も働かせて、復活の事実を説明できるようになりたいと思います。「復活なんて信じてる奴らは頭が悪い」と、言わせっぱなしにしたくはありません。

 ですから今日は、イエス・キリストの復活は本当にあったのか、イエス・キリストの復活は、歴史上の事実、つまり史実なのか、ということについて、お話をしたいと思います。今日は特に、復活を否定する人々の3つの主張について見ていきます。復活を否定する人々の3つの主張です。

 第一の主張は、〈イエスは実は死んでいなかった〉という主張です。〈イエスは実は死んでいなかった。死んだように見えただけで、実際は麻酔薬などによって眠ったまま墓に入れられ、墓の中で目覚めた〉というものです。第二の主張は、〈イエスの弟子たちは、幻覚を見ていたのだ〉という主張です。〈イエスの弟子たちは、幻覚を見ていたのだ。「愛するイエス様が死んでしまった」という悲しみがあまりにも強すぎて、幻覚を見ていたのだ〉というものです。そして第三の主張は、〈イエスの復活は、弟子たちの作り話だ〉という主張です。〈弟子たちは、イエスが復活したという作り話を作って、それを世界中に広めたのだ〉というものです。

 もちろん、イエス様の復活を否定する主張は他にもありますが、この3つが最も代表的なものでしょう。〈①イエスは実は死んでいなかった〉〈②弟子たちは幻覚を見ていた〉〈③復活は弟子たちの作り話だった〉。果たして、本当にそうなのでしょうか?


復活を否定する主張①「イエスは実は死んでいなかった」

 まずは、〈①イエスは実は死んでいなかった〉という第一の主張について考えてみましょう。〈死んだように見えただけで、実際は麻酔薬などによって眠ったまま墓に入れられ、墓の中で目覚めた〉と。

 しかし、このような主張には無理があります。なぜなら、イエスの十字架刑を担当した二千年前のローマ兵には、〈死刑囚を確実に殺す能力〉と〈殺せなければ自分が殺されるという責任〉があったからです。当時のローマの兵士たちは、「戦争のプロ」であり、「殺人のプロ」でした。彼らにとっては、死刑囚が本当に死んでいるかどうかを確認することは簡単でしたし、もしも死刑囚が死んでいなかったら、死刑を担当していたローマ兵が死刑になってしまうのですから、確実に殺さなければならなかったのです。〈イエスは実は死んでいなかった〉という主張は、当時のローマ帝国の死刑制度をよく理解していない人の主張だと言えるでしょう。


復活を否定する主張②「弟子たちは幻覚を見ていた」

 続いて、第二の主張を考えてみましょう。〈②弟子たちは幻覚を見ていたに違いない。「愛するイエス様が死んでしまった」という悲しみがあまりにも強すぎて、幻覚を見ていたのだ〉という主張です。たしかに、愛する人を失った時、人間というのは、ときどき幻覚を見るものです。このこと自体は、現代の心理学でも認められています。「死んでしまったあの人に会いたい」「いや、実はどこかで生きているに違いない」という思いが強くなりすぎて、脳が幻覚を作るのです。

 しかし、何十人もの人々が同じ幻覚を同時に見る、という現象は、現代の心理学でも認められていません。つまり、イエス様の何十人もの弟子たちが、復活したイエス様の幻覚を見、しかもその内容が矛盾しない、とは考えにくいのです。もちろん、「偶然、同じような幻覚を見たのだ」と考えることもできますが、少なくとも心理学的にはそのような可能性は低い、ということです。

 さらに、愛する人の死を経験した人は幻覚を見る、という現象は、今から二千年前の人々にも知られていましたが、二千年前の人々は、そのような幻覚を見たときは必ず、「死んだはずの◯◯さんの幽霊を見た」とか、「死んだはずの◯◯の魂が目の前に現れた」という表現を使っていました。しかし、イエス様の弟子たちは、「イエス様の幽霊を見た」とか、「イエス様の魂が目の前に現れた」とは言いませんでした。イエス様の弟子たちは、「イエス様は肉や骨を持っていた」「イエス様と一緒に食事をした」と言っていたのです。このことは少なくとも、弟子たちが見ていたものが、単なる「幻覚」とは同じではなかったということを意味しています。このように考えると、〈弟子たちは幻覚を見ていたに違いない〉という主張は、現代の心理学の観点から見ても、二千年前の常識という観点から見ても、あまり説得力のある主張だとは言えません。


復活を否定する主張③「復活は弟子たちの作り話だった」

 それでは、復活を否定する人々の、3つ目の主張を見ていきましょう。〈イエスの復活は、弟子たちが創作した作り話だろう。弟子たちは、自分たちにとって都合の良い作り話を作って、それを世界中に広めたのだ〉というものです。おそらく、復活を否定する様々な主張の中で、この主張が最も人気のあるものだと思います。「復活なんてあり得ない。そんなのは作り話だ」というのは、二千年前から言われ続けてきた主張ですし、今でも多くの人々が、「そんなのは作り話だろう」と思い続けています。おそらく、あの男の子をバカにした大学の教授も、こんなふうに思っているのでしょう。しかし、〈復活は弟子たちの作り話だ〉というこの主張は、最も人気のある主張であるにもかかわらず、実は、最も説得力のない主張なのです。

 なぜ、〈復活は作り話だ〉という主張には、説得力がないのでしょうか。まず第一に、もし復活が弟子たちの作り話だとしたら、復活の第一発見者を女性たちに設定するはずがありません。二千年前の世界では、女性たちの身分は低いものと見做されていました。女性は裁判の証人になることはできないとか、女性の証言は認められない、という時代でした。ですから、もしも弟子たちが作り話を作ったとすれば、十二弟子のリーダーだったペテロとかヨハネとかヤコブとか、そういう男性たちを第一発見者として設定したはずです。しかし、初代キリスト教会の人々はみんな揃って、「復活したイエス様を最初に目撃したのは、十二弟子たちではなく、女性たちだった」と話していたのです。このことは、〈復活は作り話だ〉という主張への明確な反論となります。

 第二の反論は、〈弟子たちの殉教〉です。もしも、イエス様の復活が弟子たちの作り話だったとすれば、自分たちで作った作り話のために、死に至るまで働き続けるというのは、少なくともあまりあり得なさそうな話です。もちろん、たとえば過激派イスラム教の自爆テロリストのように、「自爆テロを成功させて殉教すれば、天国で金持ちになれるぞ」というような作り話を聞かされ、騙されて自爆テロに至ってしまうようなケースもあります。しかし、そうやって自爆テロを実行するのは、作り話を作った指導者たちではなく、作り話を聞かされて騙されてしまった若者たちなのです。それに対して、ぺテロたちの場合は、全く違います。ペテロたちによって騙された若者たちが、ではなく、ペテロのような指導者たち自身が、復活を宣べ伝えるために、迫害を耐え忍んで働き続け、最後には殉教していったのです。もちろん、彼らの場合は、自分の幸せや自爆テロのためではなく、全世界に平和をもたらすために働いていたわけですが。〈弟子たちの殉教〉という事実。これが、〈復活は作り話だ〉という主張に対する第二の反論です。

 さらに、第三の反論があります。これは、少し意外かもしれません。〈復活は作り話だ〉という主張に対する第三の反論。それは、今まさに私たちがしていることです。つまり、〈日曜日の礼拝〉です。私たちがキリスト教会が、日曜日に礼拝をしているという事実、これこそ、復活が作り話ではありえないことの証拠なのです。どういうことでしょうか。

 実は、旧約聖書に書かれているのですが、もともとは礼拝の日というのは、日曜日ではなく、土曜日でした。土曜日こそが聖なる日であり、礼拝する日である、というのが、旧約聖書の最も重要な命令でした。「この聖なる日を汚す者は、殺されなければならない」とさえ書かれているほど、土曜日に礼拝をすることは、絶対に変えることができない決まりでした。もちろん、イエス様の最初の弟子たちは全員、旧約聖書を大切にするユダヤ人でしたから、土曜日を聖なる日とすること、土曜日を礼拝の日とすることを、命と同じくらい大切にしていました。ユダヤ人たちにとって、土曜日を礼拝の日とすることは、この世界の何よりも重要な掟だったのです。

 ところが、なぜでしょうか。なぜイエス様の弟子たちは、「週の初めの日」、つまり日曜日を、礼拝の日として守り始めたのでしょうか。当時のユダヤ人にとって、日曜日を礼拝の日として定めるなんてことは、あまりにも非常識なことでした。何千年間も守り続けてきた聖なる日を変えてしまうなんていうことは、当時のユダヤ人社会の中では、とんでもない危険行為だったんです。

 しかし、それにもかかわらず弟子たちは、「週の初めの日」、つまり日曜日に教会に集まり、礼拝を捧げ始めたのです。なぜでしょうか。なぜ日曜日なのでしょうか。このことを最もよく説明する方法は、〈イエス様が復活したのが日曜日だった〉という事実を認めることです。イエス様の復活は、旧約聖書の最も聖なる掟を覆してしまうほどに、衝撃的な出来事だったのです。


「復活を説明できますか」

 復活なんて普通はあり得ないと、私も思います。死んだ人が復活するなんて、普通はあり得ないですよ。しかし、もしも復活がなかったとしたら、もしもイエス・キリストが復活していなかったのだとしたら、説明がつかないようなことがあまりにも多すぎる、とも思っています。

 復活なんて、普通はあり得ない。しかし、もし復活がなかったとしたら、なぜ第一発見者が女性たちだと言われているのか。もし復活がなかったとしたら、なぜ弟子たちは死に至るまで働いたのか。そして、もし復活がなかったとしたら、なぜキリスト教会の礼拝の日は、最も聖なる日とされていた土曜日ではなく、日曜日となったのか。これらの疑問は、イエス様が二千年前のあの日曜日に本当に復活したから、という、普通に考えればあり得ないことを認めた時に初めて、もっとも自然に理解することができると思うのです。

 ただ、「それでも復活なんて、やっぱり信じられない」という方も多いと思います。イエス様の復活の史実性について、どれだけ理屈で「説明」ができたとしても、「証明」ができるわけではありません。ですから、最終的には、理屈ではなく、信仰が必要になります。その信仰というのは、〈死者を復活させることのできる神がいる〉という信仰です。この信仰がなければ、どんなに頭で考えたとしても、復活なんてあり得ないこと、信じられないと思います。

 しかし、もしもこの信仰を持つことができたならば、〈死者を復活させることのできる神がいる〉という希望を持つことができたならば、あなたの人生は少しずつ変わっていくのだということも、知っていていただきたいのです。「証明」はできませんが、「説明」はできます。だから、怪しいテレビ番組のようなセリフになってしまいますが、「信じるかどうかはあなた次第」なのです。ただ、私がぜひお伝えしておきたいのは、よく考えもしないまま、よく話も聞かないままで、「復活なんてあり得ない」と切り捨ててしまってはもったいない、ということです。

 また、復活をすでに信じておられる皆さんにお願いがあります。どうか、準備をしておいてください。復活という私たちの希望について、「自分が信じられればそれでいい」とか、「他の人に説明するなんて無理だ」と、諦めないでいただきたいのです。「復活を説明できますか」と訊ねてくださる方がおられるかもしれません。「本当にそんなことがあり得るんですか」と訊いてくださる方がおられるかもしれません。「そんなことができる神様が本当にいるのですか」と、絶望の中から、涙ながらに問いかけてくださる方がおられるかもしれません。「人生がもうメチャメチャで、何の希望もないようなこの私にも、もう一度命を与えることができる、そんな神様が本当にいるのですか」と。そんなときに、「いや、私にはよくわかりません」とか、「私は信じてるけど、上手く説明できないからまた今度」とは、決して言わないでいただきたいのです。

 この世界の多くの人々は、「復活なんてあり得ない」と、最初から話も聞かずにバカにします。しかしおそらく、それと同じくらいに多くの人々は、心のどこかで、「復活があってほしい。もしもそんなことがあるのなら、説明してほしい」と、心のどこかで願っているはずなのです。だから、私は今日、みなさんにお願いします。いや、神様がみなさんに命じておられます。「あなたがたの抱いている希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」お祈りをします。


祈り

 死者に命を与え、ボロボロの世界に希望を与えてくださる、私たちの父なる神様。私たちは、「頭が悪い」と言われようとも、「そんなのはあり得ない」と言われようとも、復活という希望を、心の底から信じています。よく考えもせずに信じているのではありません。頭をしっかり動かした上で、「イエス・キリストは死者の中から復活した」という聖書の証言に納得しているのです。そして、それゆえに私たちは、この世界がどんなにボロボロになったとしても、私たちの人生がどんなにボロボロになったとしても、新しく生まれ変わることができる、もう一度やり直せると、心から信じているのです。ですから、どうか神様、この素晴らしい希望を、「もうダメだ。もう終わりだ」と絶望している人々に、届けさせてください。周りの方々に説明してあげるための準備を、今日のこのイースターの日から、少しずつ始めさせてください。完璧にはできないかもしれないけれど、上手には説明できないかもしれないけれど、それでも、諦めてしまうことがないように、勇気と忍耐を与えてください。復活の主の御名によってお祈りいたします。アーメン。