第一ペテロ3:8-9「何のために召されて」

2022年4月24日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ペテロの手紙 第一』3章8-9節


3:8 最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。
9 悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。



「キリスト教も結局、自己中心なんじゃないの?」

 今月のみことばは、第一ペテロ3章15節でした。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」この箇所は先週の説教の聖書箇所でもありましたが、先週だけではなく、今月の説教すべてのテーマでもありました。キリスト教に対する疑問や批判に対して、「弁明できる用意」をするというのが、この4月の目標でした。

 4月3日の説教では、「この世界にはいろんな宗教があるのに、なぜイエス様だけを礼拝するの?」という、一人の中学生の質問を取り上げました。そしてそこでは、「私のために死んでくれたのは、イエス様だけだからだよ」という、宣教師の答えをご紹介しました。

 また、4月10日の説教では、「信じるだけで良いなんて、そんな都合の良い話でいいのか?」という、私の祖父の疑問を取り上げました。そしてそれに対しては、「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです」という、使徒パウロの言葉をご紹介しました。

 そして先週のイースター、4月17日の説教では、「復活なんて本気で信じてる奴らは頭が悪い」という大学教授からの批判について、イエス様の復活が歴史上の事実だということを、様々な証拠を確認しながら説明しました。

 このように今月の説教では、キリスト教に対する様々な疑問や批判について、できる限りの「弁明」をしてきました。もちろん、私の力不足で、不十分な点や、分かりにくい点もあったかと思いますが、ある程度は納得のいく「弁明」や「説明」ができたのではないかとも思っています。

 そして今日は、今月の最後の説教として、キリスト教に対するもう一つの批判を取り上げたいと思います。キリスト教に対して昔から言われ続けてきた批判であり、私も実際に言われたことのある批判です。それは、「選ばれた人しか救われないなんて、キリスト教も結局、自己中心的な宗教なんじゃないの?」というものです。「選ばれた人しか救われないなんて、キリスト教も結局、自己中心的な宗教なんじゃないの?」

 たしかに、キリスト教では、「私たちクリスチャンは、神様から選ばれたのだ」と教えています。「神様が私たちを選んでくださったから、私たちは救われたのだ」と。キリスト教がそのように教えていることは事実です。また、「自分たちが救われればそれで良い」という自己中心的な考えを、クリスチャン自身が持ってしまうことがあるのも事実です。ですから、このような批判が生まれることは、仕方のないことだとも言えます。

 しかし、キリスト教が教えている「選び」とは、聖書が教えている「選び」とは、本当に自己中心的な教えなのでしょうか? キリスト教は本当に、「選ばれた自分たちが救われれば良い」とか、「選ばれた自分たちが幸せならそれで良い」というような、自分勝手な教えなのでしょうか? 「選び」ということについて、聖書はどのように教えているのでしょうか?


アブラハムの 「選び」:全世界の祝福のために

 まずは、創世記の18章17節から19節をお読みします。


18:17主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
18アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。
19わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」

 この聖書箇所では、アブラハムの「選び」について語られています。19節には、「わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ」と書かれています。

 つまり、なぜ神様はアブラハムを選んだのか。それは、単にアブラハムを幸せにしたいとか、アブラハムを救いたいとか、そういう単純なことではありませんでした。なぜ神様はアブラハムを選んだのか。それは、アブラハムとその子孫に、「正義と公正」を行わせるためであり、それによって、「地のすべての国民は彼によって祝福される」という約束を成就するためでした。このように、アブラハムの「選び」は、単にアブラハムのためだけではなく、むしろ、〈アブラハムとその子孫が「正義と公正」を行うことによって、全世界の人々が祝福されるため〉だったんです。

 では、アブラハムの子孫とは誰でしょうか。ユダヤ教の人々は、「私たちユダヤ人こそがアブラハムの子孫だ」と言います。イスラム教の人々も、「私たちアラブ人こそがアブラハムの子孫だ」と言います。たしかに、血の繋がりという意味では、ユダヤ人やアラブ人たちは、アブラハムの子孫と言えるかもしれません。しかし、キリスト教では、本当のアブラハムの子孫とは、血の繋がりによってではなく、信仰の繋がりによって決まるのだ、と教えています。ガラテヤ人への手紙、3章28節と29節をお読みします。新約聖書の379頁。ガラテヤ人への手紙、3章28節と29節。


3:28ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

 私たちクリスチャンは、アブラハムの子孫として神様から選ばれました。しかし、私たちが選ばれたのは、単に私たちが祝福されるため、というよりも、私たちの周りの人々が祝福されるため、なのです。私たちは、「正義と公正」を行うことによって、アブラハムへの約束、つまり、「すべての国民は彼によって祝福される」という約束を成就するために、その子孫として選ばれたのです。


キリストの 「選び」:いのちを与えるために

 さて、「選び」について考えるために、もう一つ確認しておきたい聖書箇所があります。ルカの福音書23章33節から35節です。


23:33「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
35民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」

 ここで注目したいのは、35節の議員たちの言葉です。「もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」たしかに、普通に考えれば、「選ばれた者」なら、こんな苦しい目に遭うはずがない、と思うでしょう。「選ばれた者」なら、どうして十字架なんかに架けられているのか。「選ばれた者」なら、どうして自分を救おうとしないのか。

 しかし、彼らは完全に間違っていました。彼らは「選び」の意味を誤解していたんです。彼らは、十字架にかかるために選ばれる、というイエス様の「選び」を理解できなかったんです。人々にいのちを与えるために、自らが十字架にかかるという「選び」。全世界に祝福を広げるために、自分自身のいのちを捧げるという「選び」。真のアブラハムの子孫として、神に選ばれたキリストとして、ご自分の使命を必死に果たそうとしておられるイエス様。それなのに、その「選び」を理解しようともせず、「選ばれた者なら、自分を救ったらよい」と、的外れなことを言い続ける人々。

 しかしイエス様は、そんな愚かな人々のためにさえ、「父よ、彼らをお赦しください」と祈るんですね。これが「選ばれた者」の祈りなんです。これが、真のアブラハムの子孫の祈りなのです。「選び」ということについて考えるとき、イエス様のこのお姿を無視するわけにはいきません。


私たちの 「選び」:祝福を受け継ぐために

 第一ペテロ3章8節と9節を改めてお読みします。


3:8最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。
9悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

 私たちは何のために選ばれたのでしょうか? 私たちは何のために召されたのでしょうか? それは、「一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚であ」り、「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福」するためです。「正義と公正」を行うことによって、アブラハムの子孫として、全世界に祝福を広げるためです。これが、私たちが「受け継ぐ」祝福です。

 私たちがアブラハムから受け継ぐ祝福、私たちがキリストを通して受け継ぐ「祝福」とは、自分たちのためだけの祝福なのでしょうか。そうではないはずです。私たちが信仰によって受け継ぐ「祝福」とは、自分たちのためだけの祝福ではなく、〈全世界を祝福するという祝福〉なのです。

 もちろん、私たちクリスチャンは、やたらめったら誰も彼も祝福すればいい、というわけではありません。また時には、祝福すべきではないものを祝福してしまうこともあります。たとえば、ロシア正教会のトップで、キリル総主教という人がいますが、彼はプーチン大統領のやり方に賛同し、ロシア軍によるウクライナ侵攻を「祝福」しています。もちろん、キリル総主教にも彼なりの言い分はあるようですが、少なくとも私からすれば、ウクライナ侵攻を祝福するというのは、「正義と公正」を行うというクリスチャンの使命から大きく外れていると言わざるを得ません。

 また、キリル総主教のこのような振る舞いに怒りを覚えているのは、私だけではありません。全世界に存在するロシア正教会では、これまでは礼拝式の中で、キリル総主教を祝福するための祈りの時間があったらしいのですが、ロシアの軍事侵攻についてキリル総主教が賛同を表明してからは、多くのロシア正教会では、この祝福の祈りを中止することにしているそうです。いくら総主教といえど、侵略戦争を正当化するような人を祝福するわけにはいかない、ということです。正しい判断だと思います。私たちの使命は「正義と公正」を行い、それによって全世界に祝福を広げることだからです。何でもかんでも祝福するわけにはいきません。祝福すべきでないことは祝福しない、ということも、私たちキリスト教会の大切な使命だと思います。

 しかし、ややこしい話ですが、私たちは、祝福すべきではない人々を祝福しない、という一方で、自分が祝福したくないと思うような人のことを祝福するようにと召されているのです。理由もなく自分を侮辱してくるような人、理不尽な攻撃をしてくる人、なかなか仲良くできない人。「こんな人のことは祝福したくない」と思うような人が、私たちの周りには必ずいます。しかし、そういう人のことも、いや、そういう人のことこそ、祝福する。これが、私たちが「受け継ぐ」祝福なのです。

 何でもかんでも祝福すればいいってわけじゃありません。祝福すべきではないこともあります。しかし、どんなに祝福したくなくても、どんなに怒りが込み上げてきても、むしろ呪いたくなるような人だとしても、祝福すべきときには、心から祝福する。それは決して、簡単なことではありません。気力も体力も必要なことです。「そんなの無理だよ」と思うこともあるかもしれません。でも、もしも神様が私たちをそのような使命へと召してくださったなら、それを成し遂げるための力も、神様が与えてくださるはずです。「自分の力では無理だ」と思ったときこそ、私たちは、「選ばれた自分の力」ではなく、「選んでくださった神様の力」に、目を向けたいと思います。


そんなことない? いや、そうかもしれない…?

 「何のために召されて」という今日の説教題を見て、「アンパンマンのマーチ」を思い出した方がいれば、大正解です。「何のために生まれて、何をして生きるのか。答えられないなんて、そんなのはいやだ!」そうです、答えられないなんて、そんなのはいやなんです。何のために召されて、何のために選ばれて、何をして生きるのか。何のために召されて、クリスチャンになったのか。答えられないなんて、そんなのはいやなんです。「選ばれた人しか救われないなんて、キリスト教も結局、自己中心的な宗教なんじゃないの?」そう聞かれて、答えられないなんて、いやなんです。

 ただ、口で答えるだけ、口で弁明するだけ、というのも、不十分です。先日の水曜チャペルで、「復活について弁明するよりもまず先に、私自身が神様と一緒に生きる姿を見てもらいたい」と感想を分かち合ってくださった方がいました。本当にそのとおりだな、と思いました。人々は、私たちが話すことよりもまず先に、私たちが行っていることを見ているはずだからです。

 そう考えると、「キリスト教も結局、自己中心的な宗教なんじゃないの?」という問いかけへの答えは、実は一つではないのかもしれません。なぜなら、この問いかけへの答えは、私たちの生き方によって変わってくるからです。「キリスト教も結局、自己中心的な宗教なんじゃないの?」その問いかけへの答えが、「そんなことないよ」となるのか、それとも、「そうかもしれないね」となってしまうのか。それは、私たちクリスチャンの生き方に懸かっているからです。

 ですから私たちは改めて、今日の聖書のみことばに耳を傾け、「何のために召されて、何をして生きるのか」、このことについて、しっかりと心に刻んでおきたいと思います。「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」お祈りをします。


祈り

 父なる神様。私たちは、あなたに選ばれ、あなたに召されて、救われました。アブラハムの子孫として、キリストに倣う者として、全世界の祝福のために選ばれました。それにふさわしい歩みができているのかどうか、不安になることもありますけれども、それでも、選んでくださったあなたが力を与えてくださるということ、このことを信じつつ、自らの使命を謙虚に果たさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。