マルコ1:2-8「悔い改めのバプテスマ」

2022年5月8日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章2-8節


1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。

「見よ。わたしは、わたしの使いを
あなたの前に遣わす。
彼はあなたの道を備える。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を用意せよ。
主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」



祖父の洗礼と葬儀

 週報のコラムにも書きましたが、先週の水曜日の朝に、母方の祖父が亡くなりまして、葬儀のために私も新潟に行ってきました。「おじいちゃんの葬儀の司式はノアがやってね」と母から頼まれてしまったので、人生で初めての葬儀のご奉仕でした。緊張しましたが、何とかやり遂げたと思います。お祈りに覚えてくださった皆さん、本当にありがとうございました。

 先月の説教でも一度触れたのですが、もともと無神論者だった祖父は、昨年の4月18 日に洗礼を受けました。頭にピチャピチャお水をかけるタイプの洗礼式で、洗礼式の司式は母がしました。左の写真が一年前の洗礼式で、真ん中が初めての聖餐式、そして右側が、先週の木曜日に納骨したお墓の写真です。 

 さて、こうしてみなさんに洗礼式の写真をお見せしたのは、今日の聖書箇所のテーマがまさに「洗礼」だからです。「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人物の登場です。


「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」


1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 「バプテスマ」というのは、「洗礼」のことです。「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」とは何でしょうか。「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」と聞くと、「バプテスマという儀式によって罪が赦されるのだ」と思ってしまうかもしれません。しかし実際は、「バプテスマ」という儀式によって罪が赦されるのではありません。罪が赦されるのは、「バプテスマ」によってではなく、「悔い改め」によってです。ですから大切なのは、単なる「バプテスマ」ではなく、「悔い改めのバプテスマ」なんです。ペテロも次のように語っています。ペテロの手紙第一、3章21節の後半から22節までをお読みします。


3:21 ……バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
22 イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。

 ペテロがここで言っているように、バプテスマという儀式によって自動的に罪が赦されるのではなく、むしろ、神に対する「誓約」によって、悔い改めの「誓約」によって、罪が赦されるのです。大切なのは、〈イエス・キリストに服従する〉ということです。「悔い改め」とは、〈イエス・キリスト以外の王様に従っていた人生を止めて、イエス・キリストだけに従うこと〉です。「これからはイエス様だけに従います」と誓うこと。それが、「悔い改めのバプテスマ」なんです。

 私たちはもしかすると、水の中にザブンと沈められるとか、頭に水をかけられるとか、そういう儀式の方に目が向きがちかもしれません。もちろんそれも大切です。

 しかし、洗礼という儀式そのものよりももっと大切なのは、むしろ、洗礼を受ける時の「誓約」です。それぞれの教団によって誓約の言葉は違いますし、もしかしたら、誓約なしでいきなりザブンと洗礼をする場合もあるかもしれませんが、たとえば、私たちの教会が所属している日本同盟基督教団では、洗礼式のときには、このような誓約を行います。


 一 ◯◯兄弟/姉妹、あなたは天地の造り主、
   生けるまことの神のみを信じますか。(信じます)

 二 あなたは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって
   救われていることを確信しますか。(確信します)

 三 あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、
   ふさわしく生きることを願いますか。(願います)

 この誓約こそ、「悔い改め」のしるしなんです。「悔い改め」とは、〈生まれ変わって、新しい人生を始める〉ということです。他の神々に従う人生を止めて、まことの神だけを信じる人生を始める。自分の罪に絶望し続けたり、自分の正しさを自分で主張し続けたりする人生を止めて、イエス様の十字架によって赦される人生を始める。聖霊の恵みに信頼して、キリストのしもべとして生きる人生を始める。これが、「悔い改め」です。そして、この「悔い改め」を表現するために、水の中にザブンと入ったり、頭に水をかけたり、という儀式を行うんです。


「主の道を用意せよ」

 マルコの福音書に戻って、1章2節から4節までをお読みします。


1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。

「見よ。わたしは、わたしの使いを
あなたの前に遣わす。
彼はあなたの道を備える。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意せよ。
主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 バプテスマのヨハネが来たのは、「道を備える」ためでした。「悔い改めのバプテスマ」によって「主の道」を備えるために来たのです。さきほどもお話したように、「悔い改め」とは、〈イエス・キリスト以外の王様に従っていた人生を止めて、イエス・キリストだけに従うこと〉です。つまり、「悔い改めのバプテスマ」によって「主の道」を備えるというのは、偽物の王様に支配されている人々に対して、「本物の王様がもうすぐ来るから、偽物の王様に従うのは止めて、本当の王様に従いなさい」と言って悔い改めさせる、ということです。

 そして実は、「道を備える」のは、ヨハネだけの仕事ではありません。3節の「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ」は、ギリシャ語から直訳すると、「あなたがたは主の道を用意せよ。あなたがたは主の通られる道をまっすぐにせよ」です。つまり、来たるべき王様の「道を備える」のは、ヨハネだけの仕事ではなく、私たち自身の仕事でもあるのです。

 でも、そりゃそうですよね。ヨハネがどんなにがんばったって、私たち自身が、偽物の王様から離れて「悔い改め」なければ、本当の王様をお迎えすることなんてできないわけですから。

 みなさんはいかがでしょうか。偽物の王様に従う人生を止めて、本当の王様を迎える準備ができているでしょうか。すでに洗礼を受けている人も、まだ洗礼を受けていない人も、今一度、問い直してみていただきたいと思います。「私の本当の王様は何だろうか。イエス・キリスト以外の何かが、私を支配していないだろうか」と。

 ただ、偽物の王様たちから解放されるというのは、なかなか難しいことかもしれません。洗礼を受けて、「イエス様だけに従います」という誓約をしても、実際は偽物の王様たちに支配され続けてしまい、なかなかクリスチャンらしく生きられない、そういうことがあるかもしれません。

 少なくとも私は、そういうことがよくあります。私の場合は特に、〈良い人だと思われたい〉という思いが人一倍強いので、たとえば、ズルをしたのが誰かにバレそうになると、咄嗟に嘘をついたり誤魔化したりして、「良い人」という評価を守ろうとしてしまうんです。そんなことをしても、どうせバレてしまうことも多いですし、とにかく疲れてしまうんですが、それでも誤魔化してしまう。〈良い人だと思われたい〉〈良い人だと思われなければならない〉という思いに支配されてしまうからです。悔い改めようと思ってもなかなか抜け出せない、偽物の王様の支配です。


聖霊によるバプテスマ

 でも、そんな私たちのために、自分の力では偽物の王様の支配から抜け出せない、弱い私たちのために、「聖霊」という助け主がいらっしゃるんです。自分の力では偽物の王様から離れることができず、色々な悩みや罪に支配され続けてしまう私たちのために、「聖霊」が与えられているんです。コリント人への手紙 第一、12章2節と3節をお読みします。


12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。
3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

 私たちは、イエス様を信じる前は、「誘われるまま、ものを言えない偶像」に支配されていました。「ものを言えない偶像」というのは、単に〈他の宗教の神〉というだけではありません。本当の神様以外の何かを礼拝したり、本当の神様以外の何かに支配されること、これが、「誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて」いたということです。

 それではなぜ、そんな弱い私たちは、偽物の神々や、偽物の王様から離れて、「イエスは主です」と告白できるのでしょうか? それは、聖霊様の助けがあるからです。私たちは、自分の力では、イエス様に従い続けることはできません。自分の力では、ちゃんと悔い改めることさえできないんです。しかし、聖霊様によって初めて、私たちは「イエスは主です」と告白し、イエス様に従うことができるようになります。マルコ福音書、1章7節と8節をお読みします。


1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 「私よりも力のある方が私の後に来られます。」この「力のある方」と呼ばれるお方は、何をするために来られるのでしょうか? それは、「聖霊によってバプテスマをお授けにな」るためです。自分の力では悔い改めることさえできない私たちのために、聖霊様というお方を遣わすためです。私たちを偽物の王様たちから解放し、罪の支配から解放し、「イエスは主です」と告白できるようにするため。これこそが、「聖霊によって」授けられる、「悔い改めのバプテスマ」なのです。

 私たちは、洗礼を受けても、相変わらず罪に支配されている自分に気づいて、絶望してしまうかもしれません。洗礼なんて受けても意味がないじゃないか、何も変わらないじゃないか、と落ち込んでしまうことがあるかもしれません。

 しかし、忘れないでください。私たちがバプテスマを受けたのは、〈自分の力で悔い改められるようになるため〉ではなく、〈聖霊様という助け主によって悔い改めるため〉だということを。私たちがバプテスマを受けたのは、〈自分の力で立派に生きていけると思ったから〉ではありません。私たちがバプテスマを受けたのは、〈聖霊様がいなければ自分は生きていけないと分かったから〉です。

 偽物の王様から離れようと思っても、未練が残ってしまってなかなか離れられないようなとき、聖霊様は、「もっと幸せな生き方があるよ。もっと素晴らしい王様がいるよ」と教えてくれます。聖書を読んだり説教を聞いても、すぐに頭から抜けてしまうようなとき、聖霊様は、「ほら、聖書にこう書いてあったでしょ。説教でこう教わったでしょ」と思い出させてくださいます。さらに、大きな罪を犯してしまったり、とんでもない失敗をしてしまったときにも、聖霊様は、「大丈夫、もう一度やり直せるよ。だって、そのためにイエスが十字架にかかったんじゃないか」と慰めてくださいます。この聖霊様の助けがあるから、今日も私たちは、「イエスは主です」と告白できるのです。

 最後にもう一度、洗礼式の誓約の、三つ目の問いかけを読んで終わりたいと思います。


三 あなたは、聖霊の恵みに信頼し、キリストのしもべとして、ふさわしく生きることを願いますか。

 ご一緒に祈りましょう。


祈り

 父なる神様。私たちは、バプテスマを受けてクリスチャンになれたと思っても、相変わらず偽物の王様に支配されたり、自分の罪に支配されたりしてしまうものです。しかし、バプテスマを受けて、何も変わらなかったかといえば、そんなことはありません。なぜなら、「イエスは主です」と告白できるように、聖霊様という助けが与えられているからです。聖霊様がいつも一緒にいてくださるからです。どうか神様、私たちが罪を犯してしまうときにこそ、バプテスマを受けたくせに、まだこんな罪を犯しているのかと落ち込んでしまうときにこそ、一緒にいてくださる聖霊様の恵みに信頼することを思い出させてください。聖霊様の恵みの中に、ザブンと浸らせてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。