マルコ1:9-13「ともに苦しむ王」

2022年5月22日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章9-13節


9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。



なぜイエス様もバプテスマを?

 私が神学校でお世話になった教授が、こんなことを言っていたのを思い出します。「聖書を読んで疑問を持たない人には、聖書の理解を深めることはできない。」それを聞いたとき、少しびっくりしたのを覚えています。「聖書を読んで疑問を持たない人には、聖書の理解を深めることはできない。」つまり、聖書を読んでいて、「なんでだろう?」と思うことがなければ、聖書を深く理解することはできない、ということです。

 聖書を読みながら、「なんでやねん!」とか、「なんでそうなるねん!」とツッコミを入れろ、ということでしょうか。私のような真面目でおしとやかなクリスチャンは(笑うところです!)、「聖書に対して疑問を持つなんて、ツッコミを入れるなんて、そんなことしていいのかしら」と思ってしまうわけですが、「でも確かに、疑問を持つのも大切かもしれない」とも思いました。

 みなさんももしかすると、聖書を読んで疑問を持ったりすることがあるかもしれません。今日の聖書箇所を読んでいても、「ガリラヤのナザレってどこだろう」とか、「御霊が鳩のように降って来たって書いてあるけど、なんで鳩なの?」とか、いろんな疑問が湧いてきたかもしれません。

 残念ながら、今日の説教の時間だけでは、それらの疑問に全てお答えすることはできません。ただし今日は、大切な一つの疑問に焦点を絞って考えてみたいと思っています。その大切な疑問とは、「なぜイエス様はバプテスマを受けたのか?」という疑問です。9節をお読みします。


9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。

 罪人たちがバプテスマを受けるなら分かります。1章4節に書いてあるように、このバプテスマは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」でしたから、罪深い人々がバプテスマを受けるのなら分かります。しかしなぜ、神の子であるはずのイエス様が、罪のない方であるはずのイエス様が、バプテスマをお受けになったのでしょうか? 何のためにイエス様は、わざわざバプテスマを受けるために、ヨルダン川までやって来られたのでしょうか?


〈新しいモーセ〉としてのイエス様

 この疑問について考えるために、今日の聖書箇所をもう少し読み進めてみましょう。続けて、10節と11節をお読みします。


10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

 この部分を読んでいても、いろいろと気になる点があるかもしれません。「〈天が裂けて〉ってどういうことだろう?」など、気になるポイントがいろいろあるかもしれません。しかし今日はあえて、「水の中から」という言葉だけに注目したいと思います。

 「水の中から」というのは、ギリシャ語では〈エク・トゥー・イダトス〉と言うんですが、実はこれと全く同じ言葉が、旧約聖書のギリシャ語訳にも出てくるんです。出エジプト記の2章10節の後半をお読みします。


2:10b 王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。

 この場面は、エジプトの王女が、川の中から拾った男の子に「モーセ」という名前を付けた、そういう場面なのですが、この「水の中から」という言葉が、マルコと全く同じギリシャ語なんです。もちろん、たまたま同じギリシャ語になっただけかもしれませんが、私にはこれが単なる偶然だとは思えませんでした。むしろマルコは、「水の中から」という表現をあえて使うことによって、イエス様の姿をモーセの姿と重ね、イエス様を〈新しいモーセ〉として示そうとしている、そう思ったんです。

 イエス様が〈新しいモーセ〉だということは、マルコ1章の12節と13節でさらに明らかになります。まずはマルコ1章12節と13節をお読みし、続けて出エジプト記34章28節をお読みします。


マルコ1:12-13 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。

出34:28 モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。

 出エジプト記34章に書かれているのは、モーセの40日の試練です。モーセは、試練の中で神のことばを受け取りました。そしてモーセは、神様から受け取ったことばを人々に伝えるために、石の板に書き記しました。つまり、モーセにとってこの40日の試練は、〈神のことばを受け取って人々に伝えるための試練〉でした。

 そして、このモーセの試練と同じ様に、イエス様も40日の試練を経験されました。マルコの福音書には書かれていないんですが、マタイ4章やルカ4章を見てみると、モーセと同じようにイエス様も、40日間何も食べずに断食をした、ということが分かります。つまりイエス様は、〈新しいモーセ〉として、神のことばを受け取って人々に伝えるために、40日の試練を受けたのです。

 イエス様が〈新しいモーセ〉だという理解は、キリスト教においてとても大切なポイントです。モーセは神のことばを人々に語りましたが、イエス様もモーセと同じように、神のことばを私たちに語ってくださいます。また、モーセはエジプトで奴隷だった人々を救い出しましたが、イエス様も、偽物の王様たちの奴隷、罪の奴隷になっていた私たちを救い出してくだいます。このように、イエス様は〈新しいモーセ〉として、いや、モーセ以上の存在として、私たちに神のことばを語り、私たちを奴隷状態から救い出してくださるのです。


「ともに苦しむことを選び取り

 ただし、イエス様が〈新しいモーセ〉だということは、私たちにとって、さらに深い意味を持っています。ヘブル人への手紙、11章24節と25節をお読みします。


24 信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、
25 はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 モーセは、イスラエルの人々と違って、奴隷ではありませんでした。むしろモーセは、「ファラオの娘の息子」、つまりエジプトの王家の一族だったのです。しかし、それなのにモーセは、イスラエルの人々を奴隷状態から救い出すために、王族としての身分を捨てて、奴隷たちの仲間となったのです。「神の民とともに苦しむことを選び取」ったのです。

 「なぜイエス様はバプテスマを受けたのか?」と、私たちは不思議に思います。「なぜ、罪のないお方が、神の子であるイエス様が、わざわざバプテスマをお受けになったのか?」と。この疑問を解くためのヒントはおそらく、ヘブル書のこの言葉にあると思うのです。「神の民とともに苦しむことを選び取りました。」これこそ、イエス様がバプテスマをお受けになった理由だと思うんです。「神の民とともに苦しむ」ために、もっと言えば、〈神の民とともに死ぬ〉ために、バプテスマを受けてくださった。私たちと同じようになって、私たちと一つになって、苦しみも死も全て共有する、そのためにイエス様は、私たちと同じバプテスマを受けてくださった。

 イエス様がバプテスマを受けた時、御霊が鳩のように降って来ました。もしかすると私たちは、「御霊が降って来た」と聞くと、イエス様がものすごい力を手に入れたとか、喜びに溢れたとか、そういうことを想像するかもしれません。確かにそれも間違っていないでしょう。ただ、ここで大切なのは、イエス様を荒野に追いやり、試練に遭わせたのも、「御霊」だったということです。イエス様がバプテスマを受けたのは、力を手に入れるためとか、喜びに溢れるためではありませんでした。むしろ、バプテスマを受けることによってイエス様は、苦しみの道、試練の道を歩み始めることになったのです。

 バプテスマなんて受けなければ、イエス様は、荒野で厳しい試練に遭うこともなかったでしょう。バプテスマなんて受けなければ、人々の迫害に遭うこともなかったでしょう。バプテスマなんて受けなければ、十字架で殺されることもなかったでしょう。しかし、それでもイエス様は、バプテスマをお受けになったのです。なぜでしょうか? なぜわざわざ、苦しみの道を選び取られたのでしょうか? それは、私たちとともに苦しみ、私たちとともに死に、そして、私たちに復活のいのちを与えるためでした。ローマ人への手紙、6章3節と4節をお読みします。


3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

 パウロはここで、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」と言っています。この言葉をギリシャ語から直訳すると、「キリスト・イエスの中へとバプテスマを受けた」です。私たちは、バプテスマによって、「キリスト・イエスの中へと」飛び込み、キリスト・イエスと一つになったのです。ですから、私たちはもはや、自分一人で生きているのではありません。イエス様の中へと入り込み、イエス様と全く一つになったからです。

 バプテスマを受けたからといって、苦しみが無くなるわけではありません。バプテスマを受けたからといって、不老不死になるわけでもありません。病気もします。事故に遭うこともあります。寿命が来れば、やがて死を迎えます。

 しかし、たとえ私たち自身の命が終わりを迎えるとしても、たとえ私たち自身の命は死んでしまうとしても、イエス様が死者の中からよみがえり、今も生きておられるなら、私たちも生きる。これが、バプテスマの奥義です。イエス様が死んだままなら、私たちも死んだまま。しかし、イエス様が復活されて、今も生きておられるなら、イエス様と同じバプテスマを受けた私たちは、イエス様の中へとバプテスマを受けた私たちは、イエス様と完全に一つになった私たちは、イエス様とともに、新しいいのちへと生かされる。苦しみも、死も、いのちも、イエス様と一緒だから。

 「なぜイエス様はバプテスマを受けたのか?」もしもこの疑問を、イエス様ご自身にぶつけたとすれば、イエス様はどのようにお答えになるでしょうか。「イエス様、どうしてあなたもバプテスマをお受けになったのですか?」するとイエス様は、きっとこんな風にお答えになるはずです。「わたしがバプテスマを受けたのはね、あなたがどんなに大きな苦難の中にいても、どんなに大きな罪の中にいても、あなたのそばにいるって決めたからだよ。」祈りましょう。


祈り

 父なる神様。あなたの御子は、イエスというお方は、なんと憐れみ深い王様なのでしょうか。バプテスマなんて受けなければイエス様は、厳しい試練を受けることも、人々の迫害に遭うことも、十字架で殺されることもなかったでしょう。しかしイエス様は、それをすべて承知の上で、ヨルダン川にやって来てくださいました。罪深い私たちと“一つ”になってくださいました。どうか神様、この一週間も私たちを、私たち自身のいのちによってではなく、イエス様の復活のいのちによって、力強く生かしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。