マルコ1:14-15「神の国が近づいた」

2022年5月29日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章14-15節


14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」



教会は何のためにあるのか?

 ようこそ、盛岡みなみ教会の創立記念礼拝へ!みなさんを心より歓迎します。今から18年前、大塚先生ご夫妻の働きを通して、盛岡みなみ教会が始められました。さて、ここで皆さんに質問です。盛岡みなみ教会は、何のために始められたのでしょうか? その答えが、今日の聖書箇所に書かれているんです。マルコの福音書1章14節と15節を、もう一度お読みします。


14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 盛岡みなみ教会は、何のために始められたのか。それは、「神の国」を宣べ伝えるためです。この地域の人々に、「神の国」の「福音」を宣べ伝えるためなのです。今から二千年前、イエス様がガリラヤの地で宣べ伝え始めた「神の国」を、この盛岡の地でも宣べ伝えるために、この盛岡の地でも広げて行くために、盛岡みなみ教会は始められたのです。


「神の国」を求める〈主の祈り〉

 それでは、「神の国」とは何でしょうか? 実は、「神の国」がどういうものなのかは、私たちが今日の礼拝の中でも祈った、〈主の祈り〉にまとめられているんです。〈主の祈り〉は、〈神の国を求める祈り〉だからです。

 〈主の祈り〉はこのように始まります(※盛岡みなみ教会では『聖書 新改訳(第三版)』の〈主の祈り〉を使用しています)。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」つまり、「神の国」とはまず第一に、〈神の御名があがめられること〉です。神様以外の何かがあがめられるようになると、この世界は壊れてしまいます。人間があがめられてしまったり、お金とか権力があがめられてしまうと、この世界はどんどん壊れてしまうんです。ロシアとウクライナが戦争をしているのも、もちろん色々な理由があるとは思いますが、やっぱりお金や権力をあがめてしまう人々が多いからでしょう。だから私たちは、人間ではなく、お金や権力でもなく、神様の御名をあがめるのです。これが「神の国」です。

 〈主の祈り〉はさらにこう続きます。「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」つまり、「神の国」とは、〈神様の御心が地で行われること〉なんです。私は小さな頃から教会に通っているんですが、昔の私は、「神の国」というのは、〈死んだ後に行く天国〉のことだと思っていました。ところが、〈主の祈り〉をよく読んでみると、「御国に行けますように」ではなく、「御国が来ますように」なんですね。「神の国」というのは、〈死んだ後に行く天国〉のことではなく、むしろ、〈神様の御心が地で行われること〉なんです。

 それでは、〈神様の御心が地で行われる〉というのはどういうことでしょうか?〈「神の国」が来る〉とはどういうことでしょうか? そのことも、〈主の祈り〉の続きに書かれています。

 まず第一に、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。」つまり、神様が食べ物を与えてくださる、ということです。いや、食べ物だけではなく、着る服や住む家など、必要なものを全て与えてくださるということです。だから私たちの教会では、子ども食堂をしていたんです。神様が与えてくださる「日ごとの糧」を、周りの人々と分かち合うためです。これが「神の国」です。

 第二に、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」つまり、神様から負い目を赦していただくために、私たちも互いに赦し合う、ということです。これもまた、〈神様の御心が地で行われること〉なんです。神様の前に罪深い私たちが、互いに責め合ったり、傷つけ合ったりするのではなく、赦し合う。これも、「神の国」なんです。

 そして第三に、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」つまり、この世界の様々な「試み」や「悪」から救い出してくださる、ということです。ここで「試み」と訳されている言葉は、「誘惑」と訳すのが良いでしょう。私たちはいつでも、悪魔の「試み」や「誘惑」に攻撃されるのです。しかし神様は私たちを、そのような「悪」から救い出してくださるのです。「神の国」は、私たちをあらゆる「誘惑」から守り、悪魔の攻撃から救い出してくれるのです。


「悔い改め続け、福音を信じ続けなさい」

 教会といっても、クリスチャンといっても、完璧な存在ではありません。「神の国」を広げるために建てられたはずの教会が、「神の国」とは反対のことをしてしまうこともあります。神様以外の何かを「あがめ」てしまうこともありますし、「日ごとの糧」を独り占めにしてしまうこともあります。クリスチャンだからといって、誰かを赦せなくなるときもありますし、「誘惑」に負けてしまうことも、私たち自身が誰かにとっての「悪」になってしまうこともあります。

 また、ときに私たちは、「神の国が近づいた」というイエス様の言葉を信じられなくなることがあるかもしれません。いくら祈ったって、「神の国」が近づいたようには思えない。神様は本当に、「神の国」をもたらしてくださるのだろうか。今もこの世界には、食べ物がなくて困っている人がたくさんいるし、戦争だって無くならないじゃないか? 今もこの世界にはいろいろな「悪」があって、たくさんの人を苦しめているじゃないか? 「神の国」なんて本当に来るのか? 祈っても無駄なんじゃないか? そうやって私たちは、「神の国」の「福音」を信じられなくなることがあるかもしれません。

 しかし、だからこそイエス様は、「悔い改めて福音を信じなさい」と語ってくださったんです。「悔い改めなさい」という言葉は、「悔い改め続けなさい」とも訳せる言葉です。「信じなさい」という言葉は、「信じ続けなさい」とも訳せる言葉です。「悔い改め続け、福音を信じ続けなさい」と、イエス様は語りかけてくださるんです。「何度失敗してしまっても、何度罪を犯してしまっても、何度でも悔い改めなさい。この世界の悲惨さに絶望して、神の国の力を疑いたくなったとしても、信じ続けなさい。どんなに悲惨な世の中でも、わたしの福音を信じ続けなさい」と。

 まず私たち自身が悔い改めるとき、「神の国」が広がっていきます。まず私たち自身が「福音」を信じるとき、「神の国」がこの地に広がっていきます。たしかに、この世界にはまだたくさんの「悪」が蔓延っています。しかし、この世界に「神の国」が広がっていることも事実です。世界中に〈病院〉が建てられているのも、〈福祉〉や〈人権〉という概念が世界中に広がっているのも、キリスト教会の働きによるものです。また、〈人種差別〉や〈職業差別〉や〈男女差別〉など、いろいろな差別がこの世界から撤廃されつつあるのも、キリスト教の教え、つまりイエス様の教えから始まったことです。たしかに、「神の国」はまだ完成してはいません。しかし、たしかに「神の国」は、この世界に広がりつつあるのです。

 「神の国が近づいた。」イエス様のこの福音は、信じるに値する福音です。人生のすべてを献げるに値する福音です。ですから私たちも、悔い改め続け、福音を信じ続けて、まずは私たち自身の中から、「神の国」を広げていきましょう。「日ごとの糧」を分かち合う教会となりましょう。「負い目」を赦し合う教会となりましょう。「誘惑」や「悪」に負けないよう励まし合う教会となりましょう。神様以外の何かを「あがめ」ていないかどうか、反省し続ける教会となりましょう。そうやって、「御国が来ますように」と、「神の国が来ますように」と、祈り続けましょう。そのためにこそ、今から18年前に、盛岡みなみ教会がスタートしたのですから。

 最後にもう一度、みなさんとご一緒に〈主の祈り〉をお祈りして、今日の説教を終わりにしたいと思います。


祈り(主の祈り)

 天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。国と力と栄えとはとこしえにあなたのものだからです。アーメン。