マルコ1:29-31「捨てられた家、救われる家」

2022年6月19日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章29-31節


29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30 シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。



〈肉親の家族〉と〈神の家族〉

 今日は6月の第三週なので、普通なら「父の日」ですが、5月の「母の日」を教会でお祝いできなかったので、少し無理やりですが、「父と母の日」としました。お父さんたちお母さんたちに感謝する時間を、礼拝式の後に持ちたいと思っています。ちなみに、普通の「父の日」や「母の日」とは違って、教会では「神の家族」としてお祝いします。お父さんくらいの年齢、お母さんくらいの年齢の方々なら、子どもがいるかどうかにかかわらず、「神の家族」のお父さんお母さんです。ですから、私も「子ども」の一人として、みなさんに日頃の感謝を表したいと思っています。

 「神の家族」という考え方は、マルコの3章33節から35節に書かれています。


33 すると、イエスは彼らに答えて「わたしの母、わたしの兄弟とはだれでしょうか」と言われた。
34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。
35 だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

 イエス様にとって「家族」とは、〈血の繋がり〉よりも〈信仰による繋がり〉によるものでした。だから私たちも、血が繋がっていないとしても、信仰によって繋がる「神の家族」なのです。ちなみに、「神の家族」のお父さんは、父なる神様だけなので、お父さん世代のみなさんも、厳密に言えば「父」ではなく「兄弟」ということになるんですが、今日はそういう細かいことは気にせず、「父の日」としてお祝いしちゃおうと思っています。

 ただし、〈血の繋がり〉よりも〈信仰の繋がり〉を大切にするということについて、多くのクリスチャンたちは悩んでいます。教会を大切にすると、家族や親戚を大切にできなくなってしまうのではないかと、多くのクリスチャンたちは悩み苦しんでいるのです。

 もちろん、自分だけがクリスチャンで、自分以外の家族や親戚がクリスチャンではなかったとしても、キリスト教に理解を示してくれる場合もあります。たとえば、家族揃ってのお出かけを日曜日以外の日にしてくれたり、日曜日であっても午後からにしてくれたり、ときどき礼拝に誘えば一緒に行ってくれたりと、信仰を尊重してくれる場合もあります。

 ただ、そういうありがたいケースは、少なくとも日本では珍しいかもしれません。たとえば、あるクリスチャンの女性は、クリスチャンではない家族に「洗礼を受けたい」と言ったら、「もし洗礼なんて受けたら、ウチには二度と帰らせない」と言われてしまったそうです。その女性は悩みました。苦しみながら祈りました。そしてその女性はついに、洗礼を受けることに決めたそうなのですが、それ以来、家族との関係は難しくなってしまった。

 また、別のクリスチャンのご婦人は、家族の中で自分だけがクリスチャンで、ご主人も子どもたちも教会には行かない。だから、日曜日は毎週、家族の朝ごはんを用意した後、自分一人で教会に行き、礼拝を捧げ、またすぐに家に帰って、お昼ごはんを準備する。そうやって、家庭と教会の両方を大切にしようとがんばっている。ご主人や子どもたちからは、冷たい視線を感じることもあるけれど、それでも〈肉親の家族〉と〈神の家族〉の両方を大切にしようとがんばっている。


肩身の狭い人々の家

 マルコ福音書の1章29節をお読みします。


29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。

 イエス様と弟子たちは、「シモンとアンデレの家」に入っていきました。おそらく、シモンとアンデレにイエス様が、「今日はおまえたちの家にお邪魔しよう」と言ったのでしょう。ただ、シモンやアンデレにとって、自分たちの家に帰るというのは、気まずいことだったかもしれません。

 なぜなら、1章の18節に書いてあるように、彼らは「漁師」という、家族が代々受け継いで来た仕事を捨ててしまっていたからです。イエス様について行くために、「網を捨て」、仕事を捨て、家を捨ててしまったのです。彼らはおそらく、とても気まずい思いをしながら、肩身の狭い思いをしながら、自分たちの家に入っていったのではないかと思われます。

 さて、そんな家の中にもう一人、肩身の狭い思いをしている女性がいました。30節。


30 シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。

 「シモンの姑」、シモンの奥さんのお母さんです。当時の世界では、女性たちはみんな、自分の夫の家で暮らしているはずなので、姑が娘の嫁ぎ先のにいるということは珍しかったようです。もしかすると、この姑は、すでに夫を亡くしていて、身寄りがなかったので、娘の嫁ぎ先だったシモンの家に住まわせてもらっていたのかもしれません。

 そうだとすれば、彼女にとってこの家は、自分の本当の家ではなかったということになります。いつも気まずい思いをしていたことでしょう。肩身の狭い思いをしていたことでしょう。しかもこの日は、お客さんが来ているというのに、熱を出してしまって動けないのです。

 「ああ、お客さんが来たわ。食事の用意をしないと……。でも、どうしよう、動けない。ああ、役に立たない姑だと思われちゃうかしら。ただでさえ、この家に住まわせてもらっているのに、これ以上迷惑なんてかけられない……。」そんなことを考えて、不安になりながら、居候の姑という微妙な立場の中で、苦しんでいたのかもしれません。さらに、体が動かないくらいなので、かなり重症の高熱だったと思われます。当時の医療のレベルを考えると、そのまま放っておけば、命の危険さえあったかもしれません。

 そんな彼女のそばに、イエス様が近づいて来られました。31節。


31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。

 当時の世界では、女性たちは差別されていました。特に、律法学者たちのように、保守的な立場の学者たちは、女性たちと一緒に食事をすることさえ避けていたほどでした。しかも、その中でも、夫を亡くした女性、つまり未亡人の社会的立場は、非常に低かったと考えられています。

 しかしイエス様は、彼女の手を取ったのです。彼女を差別するような様子は全くありません。未亡人という立場を見下すような様子も全くありません。イエス様にとって、性別とか身分というのは、どうでも良いことでした。そこには、一人の女性に対する慈しみと愛だけがありました。

 彼女は起き上がりました。そして、「彼女は人々をもてなした」とあります。「もてなした」という言葉は、「食事を用意した」「給仕した」という意味の言葉です。「食事を用意する」「給仕する」というのはこの時代、女性たちや召使いたちのように、身分の低い人々が行う仕事でした。

 しかしもはや、この彼女の「もてなし」は、肩身の狭い思いから仕方なく行う「もてなし」ではありません。居候の姑という不安定な立場の中で、卑屈になりながら行う「もてなし」でもありません。むしろ、自分を癒やしてくださったイエス様への感謝のゆえに、自分を救ってくださったお方への感謝のゆえに、喜びと自由をもって行う「もてなし」です。


捨てられた家、救われる家

 このときの出来事を、シモンはどのような思いで見ていたでしょうか。イエス様について行くと決めた時、シモンは自分の仕事を捨て、家を捨てました。家族との関係は冷たくなり始めていたことでしょう。「今さら何をしに帰ってきた」と、家族から嫌味を言われたかもしれません。

 しかし、シモンがイエス様の弟子になっていなかったら、姑の命は失われていたかもしれないのです。たしかにシモンは、家を捨てました。イエス様について行くために、家族を捨てました。家族との関係なんて、諦めてしまっていたかもしれません。しかし、イエス様はシモンの家に来たのです。イエス様はシモンの家族を気にかけておられたのです。

 シモンの家族が、この後どうなっていったのかはわかりません。ただし、新約聖書のパウロの手紙を読んでみると、シモンの奥さんもイエス様を信じたということがわかります。もしかすると、奥さんだけではなく他の家族も、そしてこの姑も、イエス様の弟子になったかもしれない。

 家庭と教会の両立。この問題はしばしば、私たちクリスチャンを苦しめます。「イエス様なんて信じないほうが、私も私の家族も幸せなんじゃないか」と思うことだってあるかもしれません。「教会なんて行かないほうが、家族と家でゆっくり過ごせるし、もっとたくさん出かけられるし、私にとっても家族にとっても、良いことなんじゃないか」と思うことだってあるかもしれません。たしかにそれは、そのとおりだ、とも思います。

 しかしその一方で、誰かがイエス様を信じたことをきっかけに、家族に祝福が広がっていく、家族に幸せが広がっていく、そういうこともあるはずです。実際に、家族の中で自分一人がクリスチャンになったことをきっかけに、壊れかけていた家族の関係が回復していった、イエス様の教えを学んでいく中で、家族ともう一度やり直す勇気が得られた、そういう話を聞くこともあります。

 シモンたちは、イエス様について行くために、イエス様の教えを聞くために、自分の家を捨てました。私たちも、毎週毎週、家庭を離れて、家族を離れて、教会に集まります。イエス様の教えを聞くために、家族との時間を犠牲にするのです。ある意味で、毎週毎週、家を捨てるのです。

 しかし、教会に集まる私たちが置いてきたその家に、イエス様が来てくださる。「今日はおまえたちの家に行こう」と言ってくださり、そこで苦しんでいる人のそばにきて、癒やしてくださる。私たちを通して、私たちの家族や親族、友人や周りの人々のところに、イエス様が来てくださる。

 今日は「父と母の日」です。教会として、〈神の家族〉として、お祝いしたいと思っています。しかし、この〈神の家族〉は決して、それぞれの家庭を蔑ろにするようなものではありません。むしろこの場所から、それぞれの家庭に、周りの人々に、そして全世界に、祝福が広がっていくのです。29節に、「一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った」と書いてあるように、私たちも、イエス様と一緒にこの会堂を出て、この礼拝堂を出て、イエス様の教えを携えて、イエス様の愛を携えて、それぞれの家に帰っていくのです。お祈りをしましょう。


祈り

 「イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。」私たち神の家族の、父なる神様。今日も私たちは、オンラインの方々も含めて、それぞれの時間を犠牲にして、それぞれの時間を捧げて、こうして教会に集まっています。しばしの間、家庭を離れて、イエス様のもとに集まっています。そして再び、あなたから受けた恵みを体いっぱいに蓄えて、それぞれの家庭へと帰っていきます。どうぞ神様、私たちを通して、あなたの祝福と救いを広げてください。私たちの家庭に、親族に、友人に、地域の方々に、そして世界中に、イエス様の愛、神の家族の愛を、届けさせてください。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。