マルコ1:32-39「さあ、別の町へ行こう」

2022年6月26日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章32-39節


32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
33 こうして町中の人が戸口に集まって来た。
34 イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。

35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
36 すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、
37 彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。
38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」
39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。


ヒーローの“秘密”

 5月の第一週から、マルコの福音書を読み進めていますが、この福音書をここまで読んで来て、皆さんはイエス様について、イエス様というお方について、どのような印象を持ったでしょうか。〈悪霊を追い出してくださる力強いお方〉という印象を持った方々もいらっしゃるでしょうし、〈病気を治してくれるありがたいお方〉という印象を持った方々もいらっしゃるでしょう。

 私自身も、毎週の説教を準備しながら、「イエス様って本当にすごい方だなあ。イエス様が一緒にいてくだされば、もう何も困ることなんてないなあ」と思いました。どうやら当時の人々も、私と同じようなことを考えていたようです。32節から34節をお読みします。


32 夕方になり日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた人をみな、イエスのもとに連れて来た。
33 こうして町中の人が戸口に集まって来た。
34 イエスは、様々な病気にかかっている多くの人を癒やされた。また、多くの悪霊を追い出し、悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスのことを知っていたからである。

 先々週の説教や、先週の説教で見てきたように、イエス様はカペナウムというユダヤ人の町で大活躍でした。会堂で悪霊を見事に追い出したかと思えば、そのすぐ後には病気の女性を癒やす。まさにスーパーヒーローです。ですから、皆がイエス様のところに来て、助けを求めるのです。

 ただし、ここで気になるのは、34節後半の言葉です。「悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。」なぜでしょうか? どうしてイエス様は、悪霊たちを黙らせたのでしょうか?「彼らがイエスのことを知っていた」、つまり、〈イエス様が神の子キリストだということを知っていた〉なら、黙らせるのではなく、むしろ喋らせておいたほうが良いのではないでしょうか? そうすれば、たくさんの人々が、イエス様がキリストだということを信じられるのではないでしょうか? どうしてイエス様は、ご自分がキリストだということを秘密にしておられたのでしょうか?

 理由はいくつか考えられますが、最も重要な理由はおそらく、〈「キリスト」という存在について、誤解されないようにするため〉だったと思われます。〈「キリスト」という存在について、誤解されないようにするため〉です。もっと詳しく言えば、〈「キリスト」という存在が、自分たちの願望を叶えてくれる都合の良いヒーローだ、と誤解されないようにするため〉です。

 今から二千年前のイエス様の時代、ユダヤ人たちはローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国に苦しめられ、虐げられていました。ですからユダヤ人たちは、ローマ帝国を滅ぼしてくれるような、力強い救い主、「キリスト」を待ち望んでいました。つまり、当時の人々は、「キリスト」という存在を、圧倒的な軍事力によってローマ帝国を滅ぼす存在だと思い込んでいたのです。

 そんなユダヤ人たちが、イエス様が「キリスト」だと聞いたら、どうなってしまうでしょうか。おそらく彼らはこのように考えるはずです。「ついに、待ち望んでいたキリストが来られた!イエスというキリストは、悪霊を追い出し、病気を治してくださる。こんなにも力強いお方なら、きっとローマ帝国を滅ぼしてくださるだろう。軍事力だって、経済力だって、いくらでも手に入るだろう。そうすれば私たちユダヤ人は、誰にも負けないような最強の国家を作ることができる!それこそがキリストの力だ!それこそが神の国だ!イエス様万歳!イエス・キリスト万歳!」と。

 しかし、本当の「キリスト」というのは、そういう暴力的な存在ではなかったのです。イエス様にとって本当の「キリスト」とは、圧倒的な軍事力によって他の国々を滅ぼして、無理矢理に服従させるようなヒーローではなかったのです。むしろ、本当の「キリスト」とは、他人を滅ぼすのではなく、自分自身が犠牲になる存在。他人を十字架にかける代わりに、自分自身が十字架に架かる存在。自分の敵を排除するのではなく、自分の敵のために十字架で犠牲になる存在。

 ですからイエス様は、このときはまだ、ご自分が「キリスト」であることを隠さなければならなかったのです。なぜなら、人々はイエス様のことを、〈どんな問題でも解決してくれる、力強くて都合の良いスーパーヒーロー〉だと誤解していたからです。

 私たちはどうでしょうか。「キリスト」がどういう存在なのか、正しく理解しているでしょうか。「キリスト」というお方を、〈どんな問題でも解決してくれるありがたい人〉という風に、勘違いしてしまってはいないでしょうか。たしかにイエス様は、私たちの必要に応えてくださるお方です。優しくてありがたいお方です。実際にこの日もイエス様は、集まってきた人々の必要に応えて働いておられました。イエス様は私たちのヒーローです。それは間違いありません。

 しかし、イエス様がこの世界に来られたのは、「キリスト」としてこの世界に来られたのは、〈どんな問題でも解決してくれるありがたい人〉としてチヤホヤされるためではありませんでした。むしろイエス様は、このように仰ったのです。マルコ8章34節をお読みします。


8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

 本当の「キリスト」とは、単なるスーパーヒーローでもなければ、私たちの必要に応えてくれる“便利な救い主”でもありません。本当の「キリスト」とは、人々のために、敵のために、十字架に架かるお方なのです。そしてこのお方は、ご自分の弟子たちに対しても、十字架を負ってついて来なさい、と命じるお方なのです。人々には、このことが理解できませんでした。ですからイエス様は、十字架に架かるその時が近づくまで、ご自分が「キリスト」であることを隠し続けたのです。


ヒーローという“誘惑”

 マルコの1章に戻って、35節をお読みします。


35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

 「寂しいところ」と訳されている言葉をギリシャ語から直訳すると、「荒野の場所」となります。「荒野」そのものではありませんが、「荒野のような場所」なのです。1章13節でも「荒野」という言葉が出てきますが、これは偶然ではないと思います。イエス様にとって「荒野」という場所は、「サタンの試み」を受ける場所、悪魔の誘惑と闘う場所です。ですから、おそらくイエス様は、「荒野のような場所」で、誘惑と闘っておられた。

 それでは、イエス様はどのような誘惑と闘っておられたのでしょうか。どのような誘惑に打ち勝とうとしておられたのでしょうか。そのヒントが、36節と37節に書かれています。


36 すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、
37 彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。

 これこそが、イエス様が闘っておられた誘惑でした。「イエス様、皆があなたを捜しています。あなたにもっと病気を治してほしい、あなたにもっと悪霊を追い出してほしい、あなたにもっと助けてほしい、あなたに王様になってほしいと言って、あなたを捜し求めています」これが、サタンの誘惑でした。つまり、カペナウムという一つの町で人気者になり、そこで王様のようにチヤホヤされる、ヒーローとしてチヤホヤされる、という誘惑です。もっと言えば、カペナウムという安全な場所にいつまでもとどまっていれば、十字架になんて架からなくて良い、という誘惑です。

 そう考えると、イエス様が「祈っておられた」祈りというのは、「神様、あれが足りないので、あれを与えてください」とか、「困ったことがあるので、解決してください」という〈お願いの祈り〉ではなかったのだと思います。むしろ、イエス様が祈っておられたのは、「神様、わたしがわたしの使命を果たすことができるように、十字架に向かって進むことができるように、お導きください」という〈ご自分の使命を確認する祈り〉〈使命確認の祈り〉だったはずです。ですから、38節。


38 イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」
39 こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。

 「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。」これが、「皆があなたを捜しています」という誘惑に対するイエス様の答えでした。もしもイエス様が、別の町になんて行かずに、ずっとカペナウムにとどまって、人々の病気を治したり、悪霊を追い出したりしていただけだったら、イエス様は十字架に架からなくて済んだかもしれません。人々が期待するような意味での、間違った意味での「キリスト」として、チヤホヤされるだけで良かったかもしれません。

 しかしイエス様は、そういう安全で快適な道を選んだのではなく、十字架の道を選んだのです。「別の町や村」にも出て行って神の福音を宣べ伝え、人々に悔い改めを迫り、様々な誤解や反対や批判を受け、権力者たちに憎まれ、ついには十字架で殺されるという、厳しい道を選んだのです。「そのために、わたしは出て来たのだから」と言って、十字架を背負って進まれたのです。


ヒーローではなく、キリストに従う

 今日は、この礼拝堂でAさんと一緒に礼拝ができる最後の日です。今から5年前にAさんご一家が盛岡に引っ越して来てから今日まで、本当にたくさんの祝福を、みなみ教会に届けてくだいました。

 私自身は、盛岡に来てからまだ三ヶ月ですが、Aさんにはたくさんお世話になりました。この三ヶ月だけでも、どれだけ大量のごはんを食べさせてもらったことか……。Aさんご一家が横浜に帰ってしまって、もちろんみなさん悲しいと思いますが、私の場合は、生活というか、食糧事情に関わることですので、みなさん以上に致命的なダメージを受けることは間違いありません。

 正直、「ずっと盛岡にいてくださいよ。行かないでくださいよ」と言いたくなってしまいます。でも、たぶんイエス様が、「さあ、別の町へ行こう」と仰ったのだと思います。きっとイエス様には、横浜でもAさんに任せたいこと、託したいことが、いっぱいあるのでしょう。

 ですから今日、私たちが祈るべきことは、「Aさんといつまでも一緒にいられますように」とか、「東北新幹線が動かなくなりますように」という祈りではないはずです。そうではなくて、私たちが祈るべきことは、「Aさんが神様に遣わされたその場所で、神様から託された使命を全うできますように」という祈りです。それが、イエス様ご自身の祈りでもあったからです。

 そして私たちは、この教会に残る私たち自身のためにも、祈りたいと思います。「荒野のような場所」で、イエス様が祈っておられた祈りを、この教会に残る私たち自身のためにも祈りたいと思います。私たちにも、神様から託された使命があるはずです。安全な場所でチヤホヤされるのではなく、神様が必要とされる場所に向かっていく使命。ヒーローに都合良く助けてもらうのではなく、十字架を背負ったキリストについていく使命。

 サタンは私たちを誘惑してきます。「十字架なんて背負わなくていいじゃないか。もっと楽な道を選ぼうじゃないか」と、私たちの信仰を揺さぶってきます。しかし、イエス様は、祈りの中から立ち上がり、先を進んでゆかれました。ですから私たちも立ち上がって、このお方について行くのです。「さあ、行こう」という力強い御声に、今日もついて行くのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。安全な場所を出て、新しい場所に向かう勇気を与えてください。人々に求められ、尊敬される道よりも、人々のために十字架に向かっていく道を歩ませてください。十字架を背負わせまいとするサタンの誘惑に対して、荒野の祈りによって立ち向かわせてください。真のキリスト、十字架の主、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。