マルコ1:40-42「深くあわれみ、彼にさわり」

2022年7月10日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章40-42節

40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。



「ツァラアト」 と「らい病(ハンセン病)」

 まずは、40節をお読みします。


40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」

 「ツァラアト」というのは、〈何らかの形で皮膚に異常が起きる病気〉です。軽い場合は、皮膚の上にシミのようなものができるだけですが、そこからどんどん広がっていき、体中が痂(かさぶた)だらけになり、最終的には皮膚全体がボロボロになる。固まりかけた痂(かさぶた)のジュクジュクしたあの感じが、体中に広がるのです。

 当時の世界では、ツァラアトは人にうつるものだと思われていたので、ツァラアトに冒された人々は、他の人々にツァラアトをうつさないようにと、町の外に隔離されていました。「汚れた人」として、「汚い人」として、人里離れた場所で、ひっそりと暮らさなければなりませんでした。

 コロナウイルスに感染したことのある人や、濃厚接触者になったことのある人なら、ツァラアトに冒された人の気持ちが、部分的にでも理解できるかもしれません。社会から隔離された人の気持ち、「近づかないで」と言われた人の気持ち、「汚いもの扱い」をされた人の気持ち。

 私はホームスクーリングで育ったので、いわゆる普通の小学校には2年間しか通っていないんですが、クラスの中で「あいつに触ったら汚くなる」というように、いじめられている男の子がいたのを思い出します。遊び半分だったんでしょうけれど、みんながその子から距離を置くんです。その子が触ったもの、机も椅子も勉強道具も全て「汚い」ということになる。その男の子はときどき教会に遊びに来ていて、私もときどき一緒に遊んでいたので、私はいじめには加わらなかったつもりですが、いじめを止めることまではできなかったと、今も反省していることの一つです。

 「ツァラアト」という言葉は、昔の聖書翻訳では「らい病」と訳されていました。「らい病」、つまり「ハンセン病」のことだと思われていたんです。でも、最近の研究では、聖書の時代のイスラエルには「らい病=ハンセン病」はほぼ存在しなかったということが分かって来たので、「らい病」や「ハンセン病」ではなく、「ツァラアト」という言葉が使われています。

 ただ、「ツァラアト」が「らい病=ハンセン病」ではないとしても、ツァラアトがどれだけ悲惨な病気だったのかを考えるためには、やはり「らい病=ハンセン病」のことを想像するのがよいでしょう。世界中で、日本中で、「らい病=ハンセン病」の患者たちは差別され続けてきました。「らい病」にかかった人は社会から追放されるのです。家族からも見放されるのです。「らい病」が人にうつることはほとんどなかったはずなのに、一緒に暮らしても安全だったはずなのに、見た目が普通じゃない、気持ち悪いという理由で、差別や偏見を受けて、「汚いもの扱い」されていた。

 三浦綾子というクリスチャンの作家が、『光あるうちに』という本の中で、こんなことを書いていたのを思い出しました。


ハンセン氏病の人の歌を見ると、悲しい歌が多い。「何十年、ついに一度も妻は見舞に来ない」とか「癩の自分を捨てた夫と、故郷の川岸を歩いた夢を見た」とか……。

三浦綾子『光あるうちに:道ありき第三部 信仰入門編』54頁

 もしかすれば、イエス様のところに来たこの人にも、家族がいたのかもしれません。ツァラアトにかかってしまったせいで、町の外で暮らしていくしかない。家族の誰かが食料を運んでくれることはあったかもしれませんが、もう二度と家族と一緒に暮らすことはできない。妻や子どもたちと過ごした楽しい思い出が夢に出てくる。そして、目が覚める度に、それが夢だと気づく。

 そんな毎日を繰り返していたとき、彼はイエスという人の噂を聞きました。悪霊を追い出し、病気を治す、イエスという人。町中の人々が、そのイエスという人のところに集まって、助けてもらっているらしい。そんな噂を耳にした彼は、「この人ならもしかして」と思ったのでしょう。人々の目を避けながら、イエスという人を探しに行ったのでしょう。自分の皮膚が見えないように、なるべく隠して、目立たないようにひっそりと、恐る恐る町の中に入っていったのでしょう。

 当時のイスラエルのルールでは、ツァラアトに冒されている人が他の人に触ることは禁止されていましたし、近づくことさえ禁止されていました。だから、町の中に入るだけでも、誰かの近くに行くだけでも、法律違反、ルール違反だったのです。「なんだおまえ、ツァラアトじゃないか!さっさと消え失せろ!おまえなんか治してやるわけがないだろう!勘違いするな!」そう言われて追い返されても仕方がないような時代でした。でもこの人にとって、他に望みはなかったんです。罵倒されることも承知で、イエスというその人に、会いに行ってみるしかなかった。


「イエスは怒って、彼にさわり」 ?

 40節の「お心一つで」という言葉は、ギリシャ語から直訳すると、「もしもあなたが望んでくださるなら」です。「もしもあなたが望んでくださるなら、あなたは私をきよくすることがおできになります。」この人は確かに、イエス様の力を信じていました。そうでなければ、勇気を出して会いに来たりはしなかったでしょう。この人ならツァラアトでも治せるはず、と信じていた。

 しかし、ツァラアトに冒された自分が、異常な皮膚で覆われている自分が、突然目の前に現れて、本当に治そうとしてくれるだろうか。むしろ、ルールを破って勝手に近づいた自分のことを、追い返すんじゃないか。普通の病人たちのことは受け入れてあげているけれど、自分のような汚れた病人は受け入れてくれないんじゃないか。だから、「もしもあなたが望んでくださるなら……」と、恐る恐る願うしかなかった。すると、どうでしょうか。41節と42節。


41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

 優しい手が近づいて来ました。そして、自分の体にさわった。人に触れられるなんて、いつぶりのことだろうか。追い返されるかもしれないと思っていたのに、罵倒されるかもしれないと思っていたのに、まさか、こんな汚い自分に、こんな気持ちの悪い自分に、さわってもらえるなんて。

 「わたしの心だ」という言葉。これも直訳すると、「わたしは望む」です。「もしもあなたが望んでくださるなら」という言葉に対して、「わたしは望む」と、イエス様ははっきりと答えたのです。「わたしは望むに決まってるだろう。当たり前だろう」と。

 実は、「深くあわれみ」という言葉は、おそらく元々のギリシャ語では、「怒って」という言葉でした。聖書には多くの写本、手書きのコピーが残っておりまして、たしかに「深くあわれんだ(σπλαγχνισθεὶς)」というギリシャ語が使われている写本もたくさんあるんですが、「怒った(ὀργισθείς)」というギリシャ語が使われている写本のほうが、おそらくオリジナルに近い。

 たしかに、普通に考えれば、イエス様がここで突然「怒った」というのは不自然なので、「深くあわれんだ」のほうが正しいのでは、と思ってしまいます。しかし、写本を書き写した人たちが、「深くあわれんだ」という自然な表現を、「怒った」という不自然な表現にわざわざ変えることはあり得ません。ですから最近の研究では、おそらく元々使われていた言葉は「深くあわれんで」ではなく「怒って」だった、と考えられているんです。

 それでは、どうしてイエス様はこのとき「怒った」のでしょうか? ツァラアトに冒されている人が、ルールを破って勝手に近づいてきたことに怒ったのでしょうか? いや、そんなはずはありません。もしそうだとしたら、手を伸ばして彼にさわったというのは、あまりにも優しすぎます。

 また、ある学者たちはこう考えます。「イエスはこの時、差別というこの世界の悪に対して怒ったのだろう。」たしかに、この世界の悪に対して怒った、というのはあり得るかもしれません。この人がこれまでどれだけ苦しんできたのかを想像して、胸を痛めて怒ったのかもしれません。

 ただ私は、イエス様の怒りには、ほかにも理由があるような気がするんです。このことを考えるためには、「そもそもイエス様はどういうときに怒るのか?」ということを確認する必要があると思います。少し長いですが、ヨハネの福音書11章32節から40節をお読みします。マルタとマリアの兄弟ラザロが死んでしまったときの場面です。「イエス様はどういうときに怒るのか?」ということを考えながら、読んでみたいと思います。


32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された。
36 ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
37 しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。
38 イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

 ここでイエス様が怒っている理由は明らかだと思います。イエス様は、人々の不信仰に対して怒っておられるのです。「信じるなら神の栄光を見る」とイエス様が言っていたのに、「わたしを信じる者は死んでも生きる」「死んだラザロは必ず生き返る」と言っていたのに、それを信じずに、泣き続けている人々を見て、イエス様は怒ったんです。

 もちろんこのイエス様の怒りは、言うことを聞かない人たちにイライラした、というような、単なる不機嫌な怒りではないはずです。この怒りはむしろ、ラザロを助けると約束しているのに、素直に信じようとしない人々に対する、悲しみや切なさのこもった静かな怒りでしょう。イエス様は、涙を流すほどにラザロを愛していたんです。必ずラザロを救い出すと決めていたんです。しかし、人々はその愛を疑うんです。「イエス様、どうして助けてくださらないのですか、私たちのことを見捨てたのですか」と言って、イエス様の愛を疑うんです。しかしイエス様は、「必ず助けるって言ってるでしょ」と、愛を込めて、静かに怒ってくださる。

 だから、マルコの1章でも、イエス様が「怒った」理由は同じだったと思うんです。ツァラアトに冒された人が、「もしもあなたが望んでくださるなら」なんて言ったから、イエス様は怒ったんだと思うんです。確認のために、マルコ1章40節から42節の私訳をお読みします(『新改訳2017』と異なる部分は太字表記)。


【私訳】40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「もしもあなたが望んでくださるなら、私をきよくすることがおできになります。」 41 イエスは怒って、手を伸ばして彼にさわり、「わたしは望む。きよくなれ」と言われた。42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

 「もしもあなたが望んでくださるなら」なんて、イエス様にとっては愚問でした。そんなのは聞く必要もないことでした。「当たり前じゃないか!望んでいるに決まってるじゃないか!」と、イエス様は愛を込めて怒った。そういう意味では、もともとのギリシャ語が「怒って」だったとしても、「深くあわれんで」だったとしても、そんなに変わらないかもしれません。イエス様の「深いあわれみ」というのは、ときには「怒り」という形で表れてしまうほど、情熱的でまっすぐな「あわれみ」だからです。


“汚れた者たち”の祈り

 もしかしたらイエス様は、私たちのことも「怒って」いるのかもしれません。イエス様がこれほどまでに愛してくださっているのに、どこか遠慮したようなお祈りしかしない。「もしもあなたが望んでくださるなら」なんて言って、一応お祈りはするんだけれど、心の底では「でも、私の悩みなんて興味ないんでしょ。私の願いなんて聞いてくださらないんでしょ。私の幸せなんてそんなに望んでないんでしょ」と、イエス様の愛を疑うような祈りをする。

 もちろん、イエス様の御心を求めること自体は大切ですから、「もしもあなたが望んでくださるなら」と祈ることも、ときには必要でしょう。でも、もし私たちが、イエス様を試すような気持ちで、疑うような気持ちで、「もしもあなたが望んでくださるなら」なんて祈っているのだとしたら、イエス様は怒ると思います。

 また、私たちはもしかすると、「それほど罪を犯していない時のお祈りは聞いてもらえるけど、罪を犯して自分の心が汚くなっている時のお祈りはあんまり聞いてもらえない」なんていう風に思っているかもしれません。「もっと綺麗な心になってからお祈りしよう。あんまり罪を犯していないときに祈ろう」なんて言って、イエス様に近づくこと遠慮してしまうかもしれません。

 でも、勘違いしないでください。イエス様が「怒った」のは、ツァラアトに冒された人が近づいて来たからじゃないんです。“汚れた体”のままで勝手に近づいて来たからじゃないんです。そうじゃなくて、イエス様が「怒った」のは、この人が「もしもあなたが望んでくださるなら」なんて言って、イエス様の愛を疑うようなことを言ったからなんです。「綺麗な人たちの病気は治してあげるけど、汚れた私のことなんて治したくないですよね」なんて余計なことを考えていたから、イエス様は怒ったんです。「何を言ってんだ!治すに決まってるじゃないか!汚れた時こそ、わたしのところに来なさい!罪を犯した時こそ、罪に汚れたその体のままで、わたしに近づいて来なさい!わたしはおまえを治したい。わたしはおまえにさわりたい。」

 誤解しないでいただきたいのですが、私はもちろん、〈ツァラアトに冒された人は特別に罪深い〉と言いたいのではありません。もちろん、〈ハンセン病などの病気にかかっている人たちは特別に罪深い〉と言いたいのでもありません。病気と罪は関係ありません。むしろ重要なことは、〈病気を持っているかどうかに関係なく、すべての人間は汚れている〉ということです。イエス様に堂々と近づけるような立派な心、綺麗な心は、本当は誰も持っていない、ということです。

 でも、それでいいんです。汚れた自分で、いいんです。たとえ全世界の人から忌み嫌われても、家族や友人さえ自分を捨てたとしても、イエス様だけは受け入れてくださるんです。手を伸ばしてさわってくださるんです。だから、「もしもあなたが望んでくださるなら」なんて言わなくていいんです。イエス様はあなたに、あなたのいちばん汚いところに、何の躊躇もなく触れてくださる、何の遠慮もなく抱きしめてくださる、驚くべき愛の持ち主だからです。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。「今日はあんまり罪を犯していないから祈れる」とか、「今週はあんまり罪を犯してないから堂々と教会に行ける」とか、そういう愚かな勘違いを、私たちの中から取り除いてください。汚れた姿のままで、罪深い姿のままで、受け入れてくださるあなたのまっすぐなあわれみを、今日も豊かに注いでください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。