マルコ1:43-45「闘いの始まり」

2022年7月17日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』1章43-45節


43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。
44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」
45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。



「だれにも何も話さないように」?

 先週の聖書箇所は、40節から42節まででした。「ツァラアト」という病気に冒されていた人が、イエス様によってきよめてもらった、治してもらった、そういう場面でした。今日の聖書箇所は、その続きです。早速ですが、まずは43節と44節をお読みします。


43 イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。
44 そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」

 イエス様は、「どうだ? ツァラアトも治せるなんてすごいだろう? さあ、今すぐ皆のところに行って、わたしの奇跡の素晴らしさを皆に知らせてあげなさい」とは言いませんでした。むしろイエス様は、「だれにも何も話さないように気をつけなさい」と言ったのです。なぜでしょうか? なぜイエス様は、「だれにも何も話さないように気をつけなさい」と言って、厳しく戒めたのでしょうか? それは、イエス様には〈目立ちすぎてはいけない理由〉があったからです。


理由①:群衆たちの熱狂

 イエス様が〈目立ちすぎてはいけない理由〉の一つ目は、〈群衆たちを間違った方向に向かって熱狂させないため〉でした。先月末の説教でもお話ししたのですが、当時のユダヤ人たちはローマ帝国に支配され、虐げられていました。ですから多くのユダヤ人たちは、ローマ帝国を滅ぼしてくれるような力強いヒーロー、力強い「王様」を待ち望んでいた。「さあ、私たちのために、今すぐあいつらを滅ぼしてください!あなたの力強い奇跡で、悪者たちを滅ぼしてください!」

 しかしイエス様は、そういう熱狂的な期待に応えるような「王様」ではありませんでした。むしろイエス様は、そういう暴力的な「王様」にならないように、熱狂的な人々から距離を置いていたんです。これが、イエス様が〈目立ちすぎてはいけなかった理由〉の一つ目です。このことは、ヨハネの福音書6章15節を読んでみるとよく分かります。


6:15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

 イエス様がこの世界に来られたのは、ローマ帝国を滅ぼすような「王様」になるためではありませんでした。むしろイエス様は、自分自身が犠牲になり、十字架にかかることによって、真の平和を実現する、そういう不思議な「王様」なのです。だからイエス様は、「復讐してはならない」と教えました。「敵を愛しなさい」と教えました。「剣を取る者は剣で滅びる」と教えました。


理由②:権力者たちの堕落

 さて、イエス様には〈目立ちすぎてはいけない〉もう一つの理由がありました。〈目立ちすぎてはいけない〉二つ目の理由。それは、〈権力者たちに目をつけられないようにするため〉です。もっと言えば、〈権力者たちに目をつけられて、すぐに殺されてしまわないようにするため〉です。

 当時の世界で暴力的に振る舞っていたのは、ローマ帝国だけではありませんでした。ユダヤ人の権力者、つまり、祭司たちや律法学者たちも、ローマ帝国と同じくらいに堕落していました。もちろん、全ての祭司や律法学者が堕落していたというわけではありませんが、特にエルサレム神殿の大祭司たちは、金と権力に目が眩んだ悪人たちでした。「大祭司」というのは本当なら、最も清廉潔白で正しい人間が務めるべきなのですが、この時代の大祭司たちは、自分たちの権力を悪用して、貧しい人々から土地や財産を奪っているような人々でした。

 また、そんな大祭司たちの悪事を、都合の良い聖書解釈によって正当化していたのが、「律法学者たち」でした。たとえば旧約聖書の律法では、「祭司は土地を持ってはいけない」というようなルールが決められていたのですが、一部の律法学者たちは、「祭司は土地を持ってはいけないという律法は、祭司は土地を耕してはいけないという意味だから、土地を所有すること自体は問題ない」というとんでもない解釈をすることによって、大祭司たちの悪事を正当化していたのです。

 さらに、大祭司や律法学者のような権力者たちの中には、ローマ帝国とべったりくっついて、仲良くしている人々もいました。彼らは、エルサレム神殿でささげられる献金や、「神殿税」と呼ばれる大量の税金を、貧しい人々からかき集め、その一部をローマ帝国に貢物として収めていました。要するに、現代風に言えば、宗教と政治はズブズブでした。

 もちろん、そんな権力者たちを批判し、悔い改めを迫る人々もいました。しかし大抵の場合、権力者を批判した人々は、逮捕されて牢屋に入れられるか、ひどい場合には殺されてしまう。マルコの福音書の6章に書かれていますが、あのバプテスマのヨハネも、ヘロデという王様を批判したことによって、牢屋に入れられ、最終的には殺されてしまいました。

 ですからイエス様は、〈権力者たちに目をつけられて、すぐに殺されてしまわないように〉と、いつも気をつけて行動していたのです。特に、エルサレムの権力者たちには目をつけられないようにと、基本的にはエルサレムから離れた場所で、慎重に活動していた。

 もちろんイエス様は、「最終的には自分も殺される」ということを知っておられました。しかしイエス様には、殺される前にやるべきことがありました。イエス様は第一に、人々に悔い改めを語らなければなりませんでした。貧しい人々にも、権力者たちにも、「悔い改めて平和を作りなさい」と語らなければなりませんでした。第二にイエス様には、弟子たちを育てるという使命がありました。ご自分がこの地上からいなくなった後にも、ご自分の働きを引き継いでいく弟子たちを育てる、という使命がありました。だから今はまだ、殺されるわけにはいかない。


「ただ行って、自分を祭司に見せなさい」

 そう考えると、(マルコの1章に戻りますが)44節の「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい」というのは、イエス様にとっては少なからず、危険な提案だったと考えられます。なぜなら、「きよめのささげ物」をささげられる場所は、エルサレム神殿だけだったからです。つまり、イエス様にツァラアトを治してもらったこの人がエルサレムに行く、しかも、祭司たちに会う、ということになってしまうのです。これは、イエス様にとっては、非常に危険なことでした。

 しかし、イエス様はそれでも、「行ってきなさい」と仰ったのです。なぜなら、ツァラアトに冒されていたこの人がもう一度社会に戻っていくためには、祭司から「もうこの人は汚れていない」という証明をもらう必要があったからです。ですからイエス様は、自分の命の危険を知りつつも、エルサレムに行ってきなさい、と勧めたのです。「でもその代わり、祭司以外の人たちには、だれにも何も話さないように気をつけなさい」と。「祭司たちに知られてしまうのは仕方ない。でも、他の人たちには話さないように気をつけなさい…。」ところが、残念なことに、45節。


45 ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た。

 「なんで我慢できなかったのかなあ…」という感じですが、たぶん、嬉しくてしょうがなかったんでしょうね。エルサレムに行く前に、すぐにでも家族や友人に会って、いろんな話をしたくなったんでしょう。もしかすればこの人だって、最初はイエス様の言いつけを守ろうとしたのかもしれません。「どうしておれのツァラアトが治ったかって? 実はな……いや、ダメだ、このことは誰にも言っちゃいけない約束なんだ…」なんて言いながら、がんばって秘密を守ろうとしたかもしれません。でも、最終的には、自分から言いふらしてしまった。イエス様の恵みがあまりにも素晴らしくて、あまりにも嬉しくて、我慢できずに言い広めてしまった。

 そして結局、この人の身勝手な行動のせいで、イエス様は町の中に入れなくなってしまいました。群衆はますます熱狂的になってしまったようですし、権力者たちにも目をつけられてしまったようです。マルコの福音書の2章を読み進めていくと分かるのですが、この事件をきっかけに、律法学者たちはイエス様に目をつけ始めたのです。ですから正直言って、ツァラアトを治してもらったこの人の行動は、イエス様にとっては非常に迷惑なことでした。

 ただ、たぶんイエス様は、彼がこういう人だって、約束を守れない人だって、最初から分かってたんじゃないかとも思うんです。この人のツァラアトを治すことによって、群衆たちをますます熱狂させてしまうかもしれないし、エルサレムの権力者たちに目をつけられることになるかもしれない。そんなことは、最初から分かっていたんじゃないかとも思うんです。

 でもイエス様は、「それでもいい」と思ったんでしょう。たとえそんなことになったとしても、とにかくこの人の病気を治してあげたかった。ツァラアトという不治の病によって、人々から隔離され、町の外で寂しく暮らしていたこの人が、もう一度家族と一緒に暮らせるようになるなら、この人の代わりに自分が町の外に追い出されてもいい。命を狙われることになってもいい。

 イエス様の人生は、私たちが思っている以上に“複雑”だったのだと思います。“熱狂的な群衆”と“堕落した権力者”の間で板挟みになりながら、両方の人々に悔い改めを語り続ける。群衆と権力者たちの様々な思惑、様々な罪の間で、知恵を尽くして生き抜く。しかし、目の前にいる人を見捨てることもできない。イエス様の人生は、決して単純で分かりやすいものではありませんでした。イエス様は、複雑な世界の中で、心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、生きておられた。


「人々への証しのために」

 さて、今日の聖書箇所の中で、特に注目したい言葉があります。それは、44節の「人々への証し」という言葉です。普通に読めばこの言葉は、〈ツァラアトに冒されていた人が、もう一度社会に復帰できるための証し〉という意味になると思います。もちろんそれは、正しい読み方です。

 ただ、多くの研究者が指摘しているのは、この言葉には別のニュアンスも込められているということです。「人々への証しのために(イース・マルティリオン・アフティース)」という言葉は、日本語では分かりにくいのですが、ギリシャ語で見てみると、実はマルコの福音書で三回も使われているフレーズなんです。一回目は1章44節、二回目は6章11節、三回目は13章9節です。


1:44 ……ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために(イース・マルティリオン・アフティース)、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」

6:11 あなたがたを受け入れず、あなたがたの言うことを聞かない場所があったなら、そこから出て行くときに、彼らに対する証言として(イース・マルティリオン・アフティース)、足の裏のちりを払い落としなさい。」

13:9 あなたがたは用心していなさい。人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、会堂で打ちたたかれ、わたしのために、総督たちや王たちの前に立たされます。そのようにして彼らに証しするのです(イース・マルティリオン・アフティース)。

 二回目と三回目の箇所では明らかに、イース・マルティリオン・アフティースという言葉には、"対決的"なニュアンスが込められています。つまり、〈福音を受け入れようとしない人々に対する証し〉という“対決的”なニュアンスです。そう考えると、1章44節の「人々への証し」という言葉にも、単に〈ツァラアトが治ったことの証明〉という意味だけではなく、〈福音を受け入れようとしない人々に対する証し〉という“対決的”なニュアンスが込められているのだろう、と考えられているんです。

 たしかにイエス様は、エルサレムの権力者たちに目をつけられないように、賢く振る舞っておられました。しかしイエス様は、権力者たちに見つからないように、ただ黙っていたわけではありませんでした。むしろイエス様は、「人々への証し」つまり「イエス様の福音を受け入れようとしない権力者たちに対する証し」を、このときからすでに始めておられたのです。

 ここに、イエス様の絶妙なバランス感覚があります。ツァラアトを治せるほどの力を持っているイエス様は、そのことによって群衆たちが熱狂的にならないように気をつけていました。しかしそれと同時にイエス様は、ツァラアトを治せるほどの力を持っているということを、つまり、ご自身がキリストであるということを、権力者たちに対して知らせ始めておられた。ご自分がキリストであることを信じようとしない権力者たちに対して、遠回しな形で少しずつ、ご自分の権威を示し始めていた。つまり、この時から、エルサレムに対するイエス様の闘いは始まっていたのです。


闘いの始まり

 当時のイスラエルの状況では、政治と宗教が密接に繋がり、互いに協力しながら様々な悪事を行っていました。このことは、決して他人事ではないように思います。現代の日本が置かれている状況に重なるような気がします。特定の政治家たちと特定の宗教団体が密接に繋がり、互いに協力しながら、自分たちの権力を大きくし続けている。もちろん、良い働きをすることもあるとは思いますが、彼らの様々な手口によって、家族を壊されたり、人生を壊されたりする人がいる。

 “統一教会”という宗教団体に家族を壊され、その復讐のために安倍元首相を銃で撃った、山上徹也容疑者。イエス様はきっと、彼の怒りや憎しみを心から理解した上で、彼のその暴力を厳しく戒めるでしょう。「復讐してはならない。敵を愛しなさい。剣を取る者は剣で滅びる」と、厳しく語りかけるでしょう。そして彼に迫るでしょう。「悔い改めなさい。」

 しかし、イエス様がそれ以上に厳しく立ち向かわれるのは、そのような憎しみの原因を作り出した権力者たちに対してだと思います。政治と宗教がズブズブに繋がって、お互いに金と力を使って助け合い、今回の場合は、少なくとも一つの家族を破滅させた、そういう権力者たちに対して、イエス様は激しい怒りを持って、「悔い改めなさい」と、厳しく迫っておられるはずです。

 今日の聖書箇所が示しているのは、特に44節の「人々への証しのために」という言葉が示しているのは、そのような権力者たちに対するイエス様の闘いの始まりです。群衆たちと同じように、イエス様は権力者の悪事に対して怒っておられました。しかしイエス様は、権力者たちを批判するだけではなく、群衆たちが暴力と復讐の連鎖に飲み込まれないようにも配慮しておられた。そして最後には、“権力者たちの堕落”と“群衆たちの怒り”の両方の間に板挟みになり、たった一人で全ての暴力を引き受けて、十字架上で死んだ。そうやってイエス様は、真の平和を作り出す道を、私たちに示してくださったのです。私たちが従ってゆくのは、そのような「王様」なのです。

 説教の終わり方としてはちょっと乱暴になってしまいますが、最後に一つ、イエス様の御言葉をお読みして、今日の説教を閉じたいと思います。マタイの福音書10章16節。


10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。

 お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。この世界では今も、多くの人が虐げられ、騙され、苦しめられています。権力者たちは、人々の弱みにつけ込み、お金や時間を絞り取り、権力を増幅させ続けています。そこに、怒りや憎しみが生まれ、暴力が生まれ、この世界はますます悲惨な場所になっています。しかし、そんな世界に平和をもたらすために、すべてを捨ててくださったお方の生き様を、私たちは知っています。どうか私たちも、このお方の生き様に倣いながら、蛇のように賢く、鳩のように素直に歩み、平和の福音を力強く証ししていくことができますように。イエス様が始めたその闘いに、私たちも加わることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。