第一ペテロ4:7-8「愛は多くの罪をおおう」
2022年7月24日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ペテロの手紙 第一』4章7-8節
7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
「万物の終わり」?
先週の礼拝でマルコ福音書の1章を読み終えたので、さっそく2章に入りましょう!と言いたいところですが、今日はマルコをお休みにして、「今月のみことば」を説き明かしたいと思います。もともとの予定では、この箇所から説教するつもりはなかったのですが、少し誤解を招きそうな聖書箇所だなと思ったので、ちゃんと説教をすることにしました。
「万物の終わりが近づきました。」この言葉を聞いて、みなさんはどんなことを思い浮かべたでしょうか。地震が起こったり、火山が噴火したり、隕石が落ちてきたりして、地球が滅亡する、みたいなことを思い浮かべた方も多いのではないでしょうか。そうやって地球が滅亡して、クリスチャンたちはどこか遠くにある天国に行く、みたいなことを想像した方もいたかもしれません。私も昔は、この聖書箇所を読んで、そういうイメージを持っていました。
しかし、ここで「終わり」と訳される〈テロス〉というギリシャ語は、「滅亡」とか「消滅」という意味ではなく、「目標」とか「ゴール」という言葉です。「万物のゴールが近づきました。」万物のゴールとはすなわち、神様が全てを支配する時、つまり、神の国の完成の時です。第一コリント15章24節では、パウロがこのように言っています。
15:24 それから終わり〈テロス〉が来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
ここでパウロは、「終わりのときに滅ぼされるのは地球だ」とは言っていません。終わりのときに滅ぼされるのは、地球ではなく、「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力」です。堕落した罪人たちの支配や権力を滅ぼし、神様ご自身がこの地球を支配してくださるのです。これが、聖書の語る「万物の終わり」です。
ですから、第一ペテロ4章7節でペテロが書いているのは、「地球の滅亡が近づきました」ということではなく、「キリストが全ての罪人の支配を滅ぼすときが近づいた」ということです。このことは、直前の4章5節と6節にも書かれています。
5 彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。
6 このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。
「生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方」の「さばき」。これが、「万物の終わり」の具体的な内容です。善い行いをした人々はそれ相応の報いを受け、悪い行いをした人々はそれ相応の罰を受ける。私たちはもしかすると、善い人たちは苦労ばかりなのに、悪い人たちは幸せそうに生きている、と思うことがあるかもしれません。ペテロがこの手紙を書いていた時代にも、イエス様を信じて真面目に生きている人たちは迫害の中で殺されているのに、好き勝手で不道徳な生活をしている人々、特にクリスチャンたちを迫害していたような権力者たちは、幸せそうに長生きしている、そういう理不尽な現実がありました。
6節に書かれている「死んだ人々」というのは、死んでしまったクリスチャンたちのことです。イエス様を信じて真面目に生きていたのに、迫害や貧しさの中で死んでいった人たちのことです。イエス様を信じたって意味がないじゃないか。真面目に生きたって意味がないじゃないか。そういう諦めのような雰囲気が、教会の中に広がっていた。
そんな教会に対してペテロは、「生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方」がおられるのだ、と語ったんです。たとえ、生きている間に報われない人々がいたとしても、もしくは、生きている間に受けるべき罰を受けない人々がいたとしても、神様は「生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方」だから、今日もイエス様を信じて生きていこうと、ペテロは励ましの言葉を語っているんです。「万物の終わり、万物がさばかれる時が、近づいているのだ」と。
“終わり”は“再臨”だけではない
少し余談になりますが、みなさんは聖書を読んでいて、こんな疑問を持ったことはないでしょうか?「“終わりが近い”って聖書に書いてあるけど、二千年経った今も、何も起こらないじゃん!それってつまり、聖書が間違ってたってことじゃないの?」これは、重要な疑問だと思います。
たしかに、神の国はまだ完成していませんし、全ての人がさばかれる時はまだ来ていません。神の国が完成するのは、イエス様がもう一度この世界に来てくださるときです。“再臨”と呼ばれるときです。しかし、イエス様の“再臨”がまだ起こっていないからと言って、それまでの間、イエス様は何もせず世界を眺めているだけ、というわけではありません。むしろイエス様は、この二千年間もずっと、この世界の国々をさばき続けておられるんです。ルカの福音書21章20節から22節で、イエス様が「終わり」について、このように語っておられます。
21:20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。都の中にいる人たちはそこから出て行きなさい。田舎にいる人たちは都に入ってはいけません。
22 書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです。
エルサレムが軍隊に囲まれて滅亡したのは、紀元70年頃のことなので、今から1950年前です。エルサレムの罪と堕落があまりにも大きすぎたので、神様はエルサレムを滅ぼしたのです。これは“再臨”ではありませんでしたが、“終わり”の中の一つでした。ペテロが手紙を書いていたのは、おそらく紀元60年代のことなので、「万物の終わりが近づきました」とペテロが書いてから十年も経たないうちに、エルサレムが滅びたことになります。“終わり”は確かに、始まっていたのです。
つまり、聖書が語る“終わり”というのは、“再臨”のときに一回だけ起こるようなものではない、ということです。むしろ、この二千年の間もずっと神様は、悪者たちを滅ぼし、善人たちを救う、というさばきを、繰り返し行い続けておられるのです。神様はエルサレムを滅ぼしただけでなく、ローマ帝国を滅ぼし、ナチスドイツを滅ぼし、大日本帝国を滅ぼし、そのほか多くの国々をさばき続け、今もこの世界を支配し続けておられます。
ですから、今の中国やロシアも、北朝鮮やソマリアの権力者たちも、その罪を増大させ続けるならば、神様によって“終わり”を宣言されるでしょう。アメリカや日本も例外ではありません。さきほど歌った賛美の中に、「主はこの国を癒やし 愛し 光昇らせる」という歌詞がありました。私たちは、日本に住む者として、再びこの国が滅ぼされてしまわないように、再びこの国が戦争という罪に飲み込まれてしまわないように、この国のために祈る必要があります。
「祈りのために」
続いてペテロは、7節の後半で次のように語ります。「ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」ここで「身を慎みなさい」と訳されているギリシャ語は、「酒に酔わずに、白面でありなさい」という意味の言葉です。2節と3節をご覧ください。
2 それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
3 あなたがたは異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけりましたが、それは過ぎ去った時で十分です。
ペテロがここで言いたいのは、「お酒は良くないものだ」とか、「お酒は罪だ」ということではありません。ペテロがここで言いたいのは、お酒であろうと、何であろうと、欲望のままに振る舞って貴重な時間を無駄にするな、ということです。神様にさばかれるその日が近いのに、余計なことで時間を無駄遣いするな、ということです。ある人は、お酒を飲みすぎて時間やお金を使いすぎる、ということもあるでしょう。ある人は、ポルノ中毒のようなものになってしまって、貴重な時間を無駄にしてしまうこともあるでしょう。
今日は私の婚約者のまなかさんが盛岡みなみ教会に来てくれていますが、最近まなかさんからよく叱られるのは、「ちょっとゲームやりすぎなんじゃないの?」ということです。私としては、ゲームはちょうどいい息抜きにもなるし、ゲームの物語の中で気付かされることもあるし、思いきり集中できる趣味があるのは良いことだと思っているんですが、「息抜きはいいけど、やりすぎで逆に疲れちゃってるんじゃないの?」と叱られるわけです。たしかにそのとおりだなあ、と思いつつ、でもやっぱりゲームは楽しいので、自分の「欲望」のコントロールに苦労しています。
そんな私ですから、「祈りのために、心を整え身を慎みなさい」というペテロの言葉はグサッと刺さるんですね。「欲望」に囚われると、祈れなくなるからです。時間が足りない、心が落ち着かない、ということになって、祈れなくなってしまうのです。日本や世界のために祈るどころか、自分のためにさえ祈れなくなってしまう。
私は伝道師として、みなみ教会のみなさんのお名前を声に出し、顔を思い浮かべながら、毎日一度は祈るようにしています。しかし、ゲームだけではないですが、忙しさに追われて落ち着かなくなってくると、祈りのために時間が取れなくなる。申し訳程度の短い祈りや、空いた時間にちょちょいと祈ることしかできなくなる。
「愛は多くの罪をおおう」
そして、そういう生活が続くと、だんだん自己中心になっていくんですね。他の人のために祈れなくなっていく。家族や、友人や、教会の仲間たちのことが、はっきり言ってしまえば、どうでもよくなっていく。そうやって、愛がなくなっていく。愛が冷えていくんですね。だから、8節。
8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
みなさん、熱心に愛し合ってますか? それとも、ほどほどに愛し合ってますか? ペテロは、「何よりもまず」と言っています。お酒を飲んだっていい。ゲームをしたっていい。でも、「何よりもまず、熱心に愛し合いなさい。」愛のために、時間を使いなさい。愛のために、生活を整えなさい。祈りを整えなさい。ほどほどにではなく、熱心に愛し合いなさい。
「愛は多くの罪をおおう」というのは、意外と解釈が難しい言葉です。「誰かを熱心に愛するなら、自分の罪を帳消しにしてもらえる」という意味かもしれませんし、「相手の罪を帳消しにすることになる」という意味かもしれません。自分の罪がおおってもらえるのか、相手の罪をおおうことになるのか……。
どちらか悩んでしまいますが、ある学者は、「両方の罪だ」と言います。「ペテロが語る罪は、自分と相手の関係性の中で生まれるものだから、教会という共同体の中で生まれるものだから、両方だ」と。私もそう思います。私たちが熱心に愛し合うとき、様々な罪、自分の罪も、相手の罪も、おおわれていくのです。憎しみも、嫉妬も、怒りも、争いも、愛におおわれていくのです。
説教の最後に、一つだけ確認しておきたいことがあります。それは、〈教会の中にも罪はある〉ということです。そうでなければペテロも、「愛は多くの罪をおおう」なんて書く必要はなかったんです。教会の中に罪があったから、しかも、「多くの罪」があったから、その罪をおおう「愛」が必要だったんです。
盛岡みなみ教会は、そんな心配をする必要がないほど素晴らしい教会だと、私は思っています。優しい方ばかりで、平和な教会です。それでも、私が気づいていないだけで、この教会にだってひょっとすると、分かりにくい形での色んな「罪」があるかもしれません。
しかも、「罪」がなさそうに見える教会ほど、潔癖症というか、ちょっとした罪に敏感になって、簡単に傷つき壊れてしまう、ということもあり得ます。私が知っている限り、みなみ教会のみなさんは控えめで穏やかな方ばかりなので、よっぽどのことがない限りは、喧嘩や争いのようなことは起こらないでしょう。しかし、だからこそ、一度そのような亀裂が入ってしまったら、回復できなくなってしまう、そういう潔癖さのようなところが、もしかするとあるのかもしれない。
もしも、みなみ教会が“罪が全くない教会”だとしたら、みなさんはそんな教会にいて、安心できるでしょうか? 罪を犯さず調子のいい時なら、安心して教会に入れるかもしれません。でも、罪を犯してしまったとき、恥ずかしい失敗をしてしまったとき、“罪が全くない教会”というのは、近づきたくない場所になる。そうなると、いつの間にか教会は、罪を上手に隠せるクリスチャン、調子が良いかのように振る舞うクリスチャンの集まりになってしまうのではないでしょうか。
だから、私たちが目指していきたいのは、“罪が全くない教会”ではありません。“喧嘩や争いのない教会”でもありませんし、“失敗や過ちのない教会”でもありません。私たちが目指していきたい、教会のあるべき姿とは、“愛が罪をおおう教会”です。喧嘩や争いが起きたとしても、失敗や過ちが起こったとしても、それを上回るほどの愛で満ちている教会です。
そのためには、“ほどほどの愛”では足りません。“申し訳程度の短い祈り”でも足りないのです。熱心な愛が必要です。罪人たちを結びつける愛が必要です。不完全で傷付きやすい教会を堅く立たせるほどの、確かな愛が必要なのです。そうやって、教会が堅く立っていくとき、この国に対して、この世界に対して、キリストの愛という癒やしを宣言することができるようになるのです。「ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」お祈りをします。
祈り
私たちの父なる神様。善い行いも、悪い行いも、全てを見逃さずに知っておられるあなたが、生きている者と死んだ者をさばかれるその時が近づいています。そんな中で、自分の欲望のままに時間を無駄にして、愛するという最も大切な使命を疎かにしてしまう私たちです。神様、私たちがまず、心を整え、祈りを整え、何よりも大切な愛を得ることができますように。そのようにして、“愛が罪をおおう教会”を目指すことができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。