マルコ2:1-5「"世間様"とイエス様」

2022年7月31日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』2章1-5節


1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。
3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。



崩れる天井、輝く眼差し

 今日からマルコ福音書の2章に入っていきます。早速ですが、1節と2節を改めてお読みします。


1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。
2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。

 このときイエス様がおられた「家」というのが、だれの家だったかは分かりません。1章29節に出て来た「シモンとアンデレの家」、つまりイエス様の弟子たちの家だったかもしれませんし、もしかすると、イエス様ご自身の家だったのかもしれません。いずれにせよ、多くの人がイエス様のところに集まって来て、イエス様の「みことば」を聞いていました。今みなさんが、礼拝堂や Zoomに集まって聖書の説教を聞いているように、彼らもまた、イエス様の「みことば」を、じーっと聞いていた。

 そんなときに突然、天井からガタガタと音が聞こえてきて、土埃のようなものが落ちて来る。「なんだなんだ? いったい何の音だ?」3節と4節をお読みします。


3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。

 「中風」というのは、脳卒中や脳梗塞などの後遺症で、身体が麻痺して動かせなくなってしまう病気のことです。この人の場合は、片足か両足が動かなかったのかもしれないし、もしかすると身体全体が動かなかったのかもしれない。とにかく、自分ひとりでは動けない。そこで、四人の人に担いでもらって、イエス様のところまでやって来た。

 先ほども申し上げたように、この家が弟子たちの家だったのか、イエス様の家だったのかは、はっきりとは分かりません。でも、この家が誰の家だったとしても、普通なら家の持ち主は怒るでしょう。自分の家の屋根を、許可もなく勝手に剥がされたのですから。いや、家の持ち主ではないほかの人々だって、驚いて怒ったかもしれません。せっかくイエス様の説教を真剣に聞いていたのに、非常識な方法で割り込んで来た人々のせいで、説教が中断されてしまったのですから。

 イエス様も、たぶん最初は驚いたでしょう。しかしイエス様は、天井から吊り降ろされて来るその人を見て、吊り降ろしているその人たちを見て、怒ったりはしなかった。むしろイエス様は、土埃が巻き上がるその光景を、キラキラした眼差しで、嬉しそうに見つめていたんじゃないかと思うんです。5節。


5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

 イエス様が喜びをもって、キラキラした眼差しで「見た」もの。それは、「彼らの信仰」でした。「彼ら」というのはまず第一に、中風の人を運んで来た四人のことだと思いますが、「彼ら」という言葉の中には、おそらく中風の人自身も含まれていたと思います。なぜなら、もし中風の人自身がイエス様の力を信じていなかったとしたら、「イエス様のところに連れて行ってあげるよ」と言われても、恥をかくだけだと思って断ったはずだからです。この四人の人たちも、そして中風の人自身も、イエス様のことを信頼しきっていたから、こんな非常識な行動が取れたんだと思います。

 「信仰」という言葉を聞いて、みなさんはどんなイメージを持たれるでしょうか? 「心を込めてお祈りする」とか、「教会に行って賛美歌を歌う」とか、そういうイメージを持ちやすいかもしれません。もしくは、「信仰」というのは、「聖書をちゃんと読む」とか、「キリスト教を正しく理解する」とか、そういうものだと思いやすいかもしれません。それももちろん、大切なことです。

 ただ、イエス様がここで仰っている「信仰」というのは、「彼らの信仰」というのは、私たちが持ちやすい「信仰」のイメージとは少し違っているような気がします。「彼らの信仰」は、もっと乱暴で、非常識で、アグレッシブなものです。私たちが普通考えるような「信仰」とか、「クリスチャン」のイメージとは違います。でも、そんな「彼らの信仰」を見て、イエス様は目を輝かせた。

 私はこの聖書箇所を読む度に、「こういう素直な信仰が持てたらなあ…」と羨ましくなります。でも、「自分にはこんなことできないなあ…」とか、「いやいや、やっぱりこんな非常識なことはしたくないなあ…」とも思うので、結局はいつも、常識的で現実的な「信仰」に落ち着きます。もちろん、そんなに派手な信仰ではないとしても、いわゆる「普通の信仰」だとしても、イエス様は喜んでくださると思いますが、「彼ら」のような信仰に憧れ続ける自分もいる。みなさんはいかがでしょうか? 天井をぶち壊してしまうような、思い切った信仰を持っているでしょうか?


「子よ、あなたの罪は赦された」

 さて、この箇所を読んでいて気になることが一つあります。それは、〈どうしてイエス様は、病気を治すよりも先に、罪の赦しを宣言したのか?〉ということです。どうしてイエス様は、中風の人に対して、「あなたの病気を治してあげよう」ではなく、「あなたの罪は赦された」と言ったのでしょうか?

 ある学者たちは、「イエスが最初に罪の赦しを宣言したのは、この人自身の罪が、病気の原因だったからだ」と考えます。たしかに、〈罪が原因で病気になる〉ということはあり得ます。罪に対する罰として神様が病気を与える、ということもありますし、罪の存在に気づかせるために、神様があえて病気を与える、ということもあります。しかし、〈全ての病気は罪のせいだ〉という考え方は間違いです。そのような考えを、イエス様ははっきりと否定しています。ヨハネの福音書9章2節と3節をお読みします。


9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

 イエス様は、〈全ての病気の原因は罪だ〉という短絡的な考え方を否定しました。ですから、マルコ福音書の2章に戻りますが、イエス様は中風の人に対して、〈あなたが中風になったのは、あなたが大きな罪を犯したからだ。だから、病気を治す前に、まず罪を赦してあげよう〉と考えたわけではないと、私は思います。イエス様は、この人の病気の原因が罪だ、とは言っていない。

 しかしやはり、当時の多くの人々は、「この人が病気になったのは、この人が何か大きな罪を犯したからに違いない」と思っていたのでしょう。この中風の人を罪人扱いして見下していたのでしょう。「ああ、この人は身体が動かないのか。きっと、何か大きな罪を犯したからこんな病気になったのだろう」と言って、見下すような態度を取っていたのでしょう。

 もちろん、中風を患っていたこの人が、「罪人」であることは確かです。そういう意味では、人々の考え方は間違ってはいませんでした。ただし、「この人は罪人だが、自分たちは罪人ではない」と差別するような考え方は、根本的に間違っていました。なぜなら本当は、皆が罪人だからです。誰かを差別して見下すことなど、本当はだれにもできないことなのです。

 幸いなことに、この人には何人かの友達がいました。この人をイエス様のところに連れてきてくれた四人の男たちはおそらく、彼のことをよく知っていて、彼のことを気にかけてくれていた友達だったのでしょう。ただし、そのほかの多くの人々は、こういう病気を持っている人を見ると、心の中で見下していたんです。少なくとも当時は、そういう考えを持つ人が多かったんです。

 しかし、そんな中でイエス様は、この人を見下すようなことはなく、むしろこの人を慈しんで、あわれんで、「子よ」と呼びかけたのです。「子よ」という呼びかけは、単純に「怖がらなくていいよ」というような意味かもしれませんが、ある学者は、このときのイエス様の「子よ」という呼びかけには、「わたしはあなたを差別しない。わたしはあなたを、わたしの家族として迎えたい」という意味が込められている、と言っています。

 イエス様は、屋根をはがして勝手に入ってきたようなこの人を、「わたしの子よ」と言って、喜んで迎え入れるのです。「たしかにあなたは罪人だ。しかし、わたしはあなたを受け入れる。たとえ、ほかの人々があなたを差別するとしても、わたしの前では、あなたはもう罪人ではない。たとえ、ほかの人たちがあなたを罪人扱いし続けるとしても、わたしはもう、あなたを罪人としては扱わない。だから、ほかの人たちのことなんて気にするな。子よ、あなたの罪は赦された。」


“世間様”とイエス様

 「あなたは神様を信じていますか?」と聞かれたら、「いいえ、私はどの神様も信じていません」と答える人が、日本には多いと思います。でも、多くの日本人は、「世間様」という神様を信じているのではないかとも思います。「そんなことをしたら世間様にどう思われるか」とか、「そんなことをしたら世間様に申し訳が立たない」とか、まるでほかの人々の目を神様のように恐れて、「世間様教」という宗教を作り出している。クリスチャンであっても、イエス様を第一にしているように見えて、実は「世間様」という神様を第一にしている、そんなことがあるかもしれません。

 もちろん、「世間の目」を気にするのは、ある程度は大切なことです。人間は助け合いによって生きていますから、「世間」を大切にし、尊重することは必要なことです。しかし、本当に大切にすべきことは、「世間様にどう思われるか」ではなく、「イエス様にどう思われるか」のはずです。たとえ「世間様」が、「人の家の屋根を壊すなんてありえない!」とか、「お話しの途中で割り込んでくるなんて非常識だ!」と怒ったとしても、イエス様が「いや、それでもいいから、とにかくわたしのところに来い!」と言ってくださるなら、思い切って屋上に登り、屋根を壊し、穴を開けてしまうような信仰、そういう信仰を、私たちは持ちたいと思うんです。

 またたとえ、「世間様」が私たちを指差して、「お前は罪人だ」と断罪してきたとしても、「お前なんか出来損ないだ」と見下してきたとしても、イエス様が、「子よ、あなたの罪は赦された」と言ってくださるなら、「子よ、あなたはわたしの愛する家族だ」と言ってくださるなら、それでいい、それだけで生きていけるという、そういう信仰を持ちたいと思うんです。そして、そんな信仰が持てたら、私たちは今よりももっと、安心して、自由に、のびのびと生きていけるはずなんです。

 またたとえば、日曜日の朝、教会に行く時、きちんとした服装をして、笑顔で玄関から入って、おとなしく椅子に座っていれば、イエス様は喜んでくださる…。そんな風に思うかもしれません。もちろん、「礼拝のために、きちんとした服装をしよう」というのは悪いことではありませんし、まだ礼拝堂のローンも残っているので、できれば屋根は壊さないでほしい、とは思います。

 でも、イエス様が本当に喜ばれるのは、そうやって何か立派な服装とか、常識的な形で教会に来ることではありません。イエス様が本当に喜ばれるのは、土まみれの格好でもいいから、汗まみれの体でもいいから、何か変なことをやらかして、礼拝の邪魔をしちゃったり、礼拝堂を汚しちゃうようなことがあってもいいから、何が何でもイエス様のところに来る、ということです。

 このあと、みなさんとご一緒に歌う賛美歌は、少し長いタイトルですが、「私の望みは主イェスだけにある」という曲です。「私の望みは主イェスだけにある」。これこそが「信仰」です。「もうイエス様以外には誰もいないんだ。もうイエス様以外に頼れるものはないんだ。もうイエス様のところに行くしかないんだ。イエス様以外の人たちのことを気にしている余裕なんてないんだ…!」

 屋根を壊してしまうほどの「信仰」。「世間様にどう思われるか」という壁をぶち破ってしまうほどの「信仰」。この信仰を、イエス様が喜んで受け入れられたこの信仰を、私たちも恥ずかしがらずに、恐れずに、しっかりと握っていきたいと願います。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。天井が壊され、土埃が巻き上がり、寝床が吊り降ろされてきたとき、怒って叱るどころか、嬉しそうに見つめておられたイエス様の眼差しが、私たちは大好きです。周りの人々の目が、“世間様”の目が、私たちを冷たく見下すようなときにも、「子よ、あなたの罪は赦された」というその優しい御声を聞くために、私たちはあなたのところに参ります。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン。