マルコ2:5-12「罪を赦す権威」

2022年8月7日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』2章5-12節


5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」
8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。
9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
11 「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。



律法学者たちの問い:「なぜこの人はこんなことを?」

 先週の聖書箇所は、2章の1節から5節まででした。ある家の中で、イエス様が人々にみことばを話しておられた時、突然、その家の屋根がはがされて、「中風」という病気の人が、天井から吊り降ろされて来た。「中風」というのは、身体が麻痺して動かなくなる病気のことで、不治の病だと考えられていましたが、「イエス様ならこの病気を治せるに違いない。何としてでもイエス様のところに行こう」という信仰を持っていた彼らは、人の家の屋根を勝手にはがすという非常識な行動を取って、イエス様の前に来た。そして、そんな彼らの姿を見て、イエス様はお喜びになった。5節は先週も読みましたが、今週も改めて5節からお読みします。


5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

 「子よ、あなたの罪は赦された。」この呼びかけを聞いて、この中風の人はどれだけ安心したでしょうか。また、中風の人を運んできた人々も、この言葉にどれだけ慰められたでしょうか。たとえ他の人々から「何やってるんだ。非常識だ」と怒られたとしても、イエス様が「子よ」と呼びかけてくださる、それだけで、彼らの心には、どれだけ大きな平安があったことでしょうか。

 さて、あとはイエス様がこの人の病気を治してあげれば、「これにて一件落着。めでたし、めでたし」となるわけですが、続く6節は、「ところが」という言葉で始まるんです。6節と7節をお読みします。


6 ところが、律法学者が何人かそこに座っていて、心の中であれこれと考えた。
7 「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」

 「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか…?」律法学者たちが心の中で考えていたこの疑問は、実に正しい疑問でした。彼らが考えていた通り、罪を赦すことができるのは神様おひとりだけです。「罪」というのは、基本的には、神様に対して犯すものだからです。神様に対して犯される「罪」だから、神様以外には赦せないのです。

 たとえば、アメリカ合衆国で殺人を犯した人がいたとしましょう。そして、その犯罪者が日本に逃げて来たけれども、結局は日本の警察に逮捕されたとしましょう。さて、このような場合、この犯罪者を裁判にかけたり、罪に定めたり、罰を与えたりするのは誰かというと、日本ではなくアメリカですよね。なぜなら、その人が犯した罪は、日本の法律に対する罪ではなく、アメリカの法律に対する罪だからです。日本には、その犯罪者を有罪にする権限もなければ、無罪にする権限もありません。つまり、罰する権限もなければ、赦す権限もありません。

 それと同じように、神様に対する「罪」を罰したり、赦したりする権限を持っているのは、「神おひとり」だけなのです。ですから、律法学者たちが心の中で考えていたことは、正しかったのです。神おひとりだけが、人間を罪に定めたり、赦したりする権威を持っているのであって、神様以外の存在は、そのような権威を決して持っていない。だから、このイエスという男が突然、中風の人に向かって、「あなたの罪は赦された」などと言うことは、神への冒涜に他ならない。


イエス様の問い:「なぜあなたがたはそんなことを?」

 しかし、驚くべきことにイエス様は、神おひとりが持っておられるはずの「罪を赦す権威」を、このわたしも持っているのだ、と主張したのです。まずは8節をお読みします。


8 彼らが心のうちでこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか。      

 律法学者たちが心の中で考えていた、「この人はなぜ、このようなことを言うのか」という疑いに対して、イエス様は、「なぜ、あなたがたはそんなことを考えているのか」と、疑問を返します。律法学者たちの「なぜ」に対して、イエス様も「なぜ」と返すのです。

 ただ、律法学者たちの「なぜ」のほうは理解しやすいのですが、イエス様の「なぜ」は、正直よくわからない気がします。普通に考えれば、律法学者たちの疑問は正しかったわけですから、イエス様がそれに対して「なぜ」と返すのは、ちょっと不思議な気がします。

 しかし、イエス様は、「いやいや、“なぜ”と言いたいのはこっちのほうだよ」と言わんばかりに、「なぜ、あなたがたはそんなことを考えているのか」と問うんですね。この言葉は不思議ですが、おそらくこういう意味なのだろうと思います。「罪を赦す権威をわたしが持っているということは、あなたがたもすでに知っているはずだろう? わたしが多くの悪霊を追い出していることや、多くの病気を癒やしていることを、あなたがたもよく知っているはずだ。わたしは“ツァラアト”という病気も治したが、ツァラアトを治せるのは神の権威を持つ者だけだということは、旧約聖書に詳しいあなたがたなら、よく知っているはずだ。それならなぜ、あなたがたは心の中でそんなことを考えているのか? なぜあなたがたは、わたしが神の権威を持っているということを、わたしに神の権威が与えられているということを、信じようとしないのか?」

 そこでイエス様は、「これだけ多くの証拠を見せているというのに、それでもまだ信じられないというのなら、もう一つ証拠を見せてあげよう」と言うかのようにして、疑い深い律法学者たちに対して、ご自分の権威をはっきりとお示しになるのです。それが、9節から12節に書かれている出来事のポイントです。


9 中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。
11「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」
12 すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った。それで皆は驚き、「こんなことは、いまだかつて見たことがない」と言って神をあがめた。

 9節の「どちらが易しいか」というイエス様の言葉は、学者たちの間でも議論が分かれるほど難しい箇所なので、私なりの理解をご説明させてください。「あなたの罪は赦された」と口で言うだけなら、誰にでもできます。なぜなら、その人の罪が本当に赦されたのかどうか、その場で確認することはできないからです。しかし、「起きて、寝床をたたんで歩け」という言葉については、その場で確認することができます。もしも、その人の病気が治らなかったら、ただの嘘だったということがバレるからです。そういう意味では、「起きて、歩け」と言うことよりも、「罪は赦された」と言うことのほうが、簡単なわけです。ですから、より難しいほうの「起きて歩け」が言えるなら、より簡単なほうの「罪が赦された」だって言えるだろう、ということです。

 ちなみに、勘違いしやすいのですが、ここで比べられているのは、「罪は赦された」と“言うこと”と、「起きて歩け」と“言うこと”であって、“罪の赦し自体”と“中風の癒やし自体”の重要性を比べているわけではありません。「罪は赦された」と“言うこと”のほうが簡単だとしても、“罪の赦し自体”が軽いことだ、ということにはなりません。「どちらのほうが重要なことか」とあえて比べるなら、“中風の癒やし”よりも“罪の赦し”のほうが本質的に重要でしょう。イエス様にとって何よりも大切だったことは、罪を赦し、罪人たちを受け入れることでした。だからイエス様は、この人の病気を治すよりも先に、この人の罪を赦し、「子よ」と呼びかけることによって、この人をご自分の家族として迎え入れたのです。


「罪を赦す権威」を持つのは誰か?

 さて、10節でイエス様は、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」と仰いました。ここでポイントになるのは、「人の子」という言葉と、「権威(エクスーシア)」という言葉です。実はこの二つの言葉は、旧約聖書、ダニエル書の7章13節と14節に出て来ます。


7:13 私[=ダニエル]がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。
14 この方に、主権(エクスーシア)と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権(エクスーシア)は永遠の主権(エクスーシア)で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

 「人の子のような方」が、「年を経た方」のもとに進んで、「主権(エクスーシア)」を授かる。このダニエル書の幻は、当時のユダヤ人たちにとって、非常に重要な幻でした。当時のユダヤ人は、この幻がいつ実現するのだろうか、「人の子」と呼ばれる方はいつ現れるのだろうか、と期待していたのです。全世界を支配する存在、「神の国」の永遠の主権者は、いつ現れるのだろうか、と。 

 そんなユダヤ人たちに対してイエス様は、「“人の子”とは、わたしのことだ」と宣言したのです。「わたしは、『年を経た方』、つまり父なる神から、永遠の主権、永遠の権威を与えられたのだ。だからわたしは、地上で罪を赦す権威を持っているのだ。わたしが赦したいと思えば、その人は赦される。わたしが罰したいと思えば、その人は罰される。そのような権威を神から与えられて、わたしはこの地上に来たのだ。そのわたしが、この中風の人に『あなたの罪は赦された』と言っているのに、なぜあなたがたは、心の中であれこれと文句を言っているんだ?」

 神おひとりが、イエス様おひとりが、「罪を赦す権威」を持っておられる、ということ。そしてそれゆえ、私たち人間は誰も「罪を赦す権威」を持っていない、ということ。このことを、私たちはどこまで理解し、確信しているでしょうか。

 たとえば、先週の説教の続きになりますが、「“世間様”から赦されるかどうか」ということを気にし過ぎてしまう人もいるかもしれません。「“世間様”にどう思われるだろうか、“世間様”から後ろ指をさされないだろうか」と、そういうことばかり気にしてしまう人もいるかもしれません。しかし、そこで考え直したいのは、「私がこんなにも恐れている“世間様”は、罪に定めたり罪を赦したりするような“権威”を、本当に持っているのだろうか?」ということです。

 また、もしかすると私たちは、自分で自分を赦せなくなってしまう、ということもあるかもしれません。自分が犯してしまった過ちをいつまでも赦せなかったり、もしくは、「理想的な自分」に近づけない自分を赦せなかったり、そうやって自分を責めて、ときには自分を苦しめ、罰することさえしてしまうかもしれません。しかし、やはりここでも考え直したいのは、「罪に定めたり罪を赦したりする“権威”を持っているのは、本当に私なのだろうか?」ということです。

 もしくは、他人のことが赦せなくなってしまう、ということもあるでしょう。「あの人はなぜ、こんなにも理不尽なことができるのか」と、怒りで頭がいっぱいになってしまうこともあるでしょう。そして、怒りで頭がいっぱいになると、「どうやって仕返しをしようか」とか、「どうやってあの人に罰を与えようか」という考えがに支配されてしまうかもしれません。

 もしくは、「仕返し」なんて物騒なことまではしないとしても、一応その時は相手の罪を赦した感じにしておくんだけれども、でもとりあえずその罪を覚えておいて、いつでも思い出せるようにしておいて、自分が責められそうになったときには、「そっちだってあの時あんなことしたじゃないか!」と、相手の罪を喧嘩の武器として使う、そんなこともあるかもしれません。「罪の赦し」ということを、自分の都合の良い時に出したり引っ込めたりできる、駆け引きの道具にしてしまうわけです。

 そんな時にも、私たちが立ち止まって考え直したいことは、「そんなことをする“権威”を、私が持っているのか?」ということです。「私だって、イエス様から罪を赦してもらったのに、汚くて大きくて恥ずかしい罪を赦していただいたのに、そんな私に、他の人を罪に定めて仕返しをしたり、罪の赦しを駆け引きに利用するような、そんな資格があるのだろうか?」ということです。 

 イエス様に赦された私たちには、誰かの罪についてああだこうだ言える“権威”や“資格”はない。「人の子」だけが、イエス様だけが、「罪を赦す権威」を持っておられる。このことを確信していくとき、私たちは、自分で自分を責めてしまうことからも、他人を罪に定めることからも、“世間様”を恐れてしまうことからも、少しずつ解放されていくのではないでしょうか。「子よ、あなたの罪は赦された」と、イエス様が語りかけてくださる。「永遠の主権」を持っておられる方が、こんな私を赦して、愛して、受け入れてくださる。このことを確信する時、私たちは、「罪の赦し」を武器にする愚かな「駆け引き」から、少しずつ少しずつ解放されていくのではないでしょうか。

 「権威」を手放すということは、簡単なことではないかもしれません。私たち人間というのは、何かしらの「権威」を持っていないと、どうしても不安になってしまう存在だからです。しかし、「権威」をただ失ってしまうことと、イエス様にお返しすることは、同じではありません。たとえ自分の「権威」を手放したとしても、イエス様の「権威」によって守られるなら、不安は無くなるはずだからです。自分の「権威」をイエス様にお返しし、イエス様の「権威」の下で生きていく人生は、自分で自分の「権威」を守り続けなければならないような人生よりも、はるかに気楽で、自由で、安全な人生となるはずです。

 中風を患っていたあの人は、イエス様の「権威」によって、「立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った」と書かれています。私たちも、自らの「権威」をイエス様にお返しする時、自分を蝕んでいた麻痺が消え去り、かろやかに立ち上がることができるのです。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。子よ、あなたの罪は赦された。」お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。「罪を赦す権威」を、私たちに与えるのではなく、ただイエス様おひとりにお与えになったことを、感謝いたします。また、私たちを罪に定めるためにではなく、赦すために、イエス様を遣わしてくださったことを、心から感謝いたします。どうか、私たちが握っている「権威」をあなたのもとにお返しし、あなたの「権威」の下で、生き生きと歩んでいくことができますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。