マルコ2:13-17「罪人を招く」

2022年8月14日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』2章13-17節


13 イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
14 イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

15 それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」



嫌われ者の 「取税人」

 さっそくですが、まずは13節と14節をお読みします。


13 イエスはまた湖のほとりへ出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
14 イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

 「レビ」という人はおそらく、マタイの福音書の9章9節に出てくる「マタイ」と同一人物です。レビあるいはマタイは、「収税所」に座っていました。つまり彼の職業は、人々から税金を集める「取税人」でした。そしてこの「取税人」という職業は、人々からひどく嫌われていました。

 取税人が嫌われていた理由はいくつかあります。第一に、単純な理由ですが、「取税人」という仕事が、人々からお金を取る仕事だったからです。レビが働いていた「収税所」というのは、今の日本で例えるなら、空港の税関ゲートのようなものです。外国からの旅行者が持ち込んで来た荷物を調べて、課税対象の荷物があれば税金を徴収し、輸入禁止のものがあれば没収する。

 みなさんも、海外に行ったことのある方であれば、飛行機に乗る前や、飛行機を降りた後に、自分の荷物を税関職員に見せながら、「何か変なもの入れてなかったかな」とドキドキした経験があるかもしれません。「ただのお土産のつもりだったのに、税金がかかると言われた」とか、「これは日本には持ち込めないと言われて没収された」という経験をした方もいるかもしれません。

 人の荷物を検査してお金や物を取る仕事、というのは、真面目に仕事をしているだけでも嫌われやすい職業ですが、当時のイスラエルの「取税人」の中には、真面目に仕事をしない人々もいたようです。自分たちの利益を増やすために、決められた以上の税金を奪い取ったり、特に禁止されていないはずのものを没収して自分のものにする、そういう悪どい取税人もいたようです。

 レビという人が、どんな風に仕事をしていたのかは、聖書には書かれていません。レビも他の取税人たちと同じように、自分の利益のために不正を行っていたかもしれませんし、真面目に仕事をしていただけかもしれません。いずれにせよ、「取税人」というだけで、「収税所」に座っているだけで、人々から嫌われ、軽蔑され、差別される。それが、レビという人の人生でした。

 また、「税金」というものは本当は、税金を納めている国民のために使われるべきものですが、少なくとも当時のイスラエルでは、税金というものは基本的に、権力者たちの懐に入って、それでおしまいでした。しかも、その権力者たちというのが、ヘロデ・アンティパスという暴力的な王様だったり、ローマ帝国の支配者だったりするわけですから、ユダヤ人たちにとっては、税金を取られるというのはただただ屈辱的なことでした。ですから、彼らにとって「取税人」というのは、〈権力者たちに金を渡すために、仲間であるユダヤ人から税金を搾り取る奴ら〉なんです。そりゃもう、とことん嫌われるわけです。「仲間の金を権力者に渡す裏切り者」というわけです。

 もしかすればレビも、「こんな仕事、さっさと辞めてやりたい」と思っていたかもしれません。「こんなに嫌われる仕事なら、もっと別の仕事に就きたい」と考えていたかもしれません。でも、「取税人」というレッテル、「裏切り者」というレッテルを貼られてしまった彼にとって、他の仕事を探すというのは、大変なことでした。レビが働いていたのはおそらく、「カペナウム」という町でしたが、この町は小さな「村社会」で、多くの人がお互いに顔見知りでしたから、過去の経歴を隠して生きていくわけにもいかない。だからと言って、どこか別の町に引っ越して仕事を探すというのも、決して簡単なことではない。「だから俺はこのまま、ヘロデ・アンティパスの下で、ローマ帝国の下で、ユダヤ人たちに嫌われながら、"罪人"と呼ばれながら、この仕事を続けていくしかないんだ……。」

 そんなレビに、嫌われ者のレビに、声をかけた人がいたんです。「わたしについて来なさい」と声をかけた人がいたんです。その人は、「そんな仕事、今すぐ辞めたらいいじゃないか」とは言いませんでした。その人はただ、「わたしについて来なさい」と言ったのです。

 これこそ、レビが待ち望んでいた言葉でした。「こんな仕事、さっさと辞めたほうがいいなんてことは、言われなくても分かってる。でも、この仕事を辞めてしまったら、俺はどこに行けばいいんだ?」そんな葛藤を抱えて思い悩みながらも、どうすることもできなかったレビにとって、「わたしについて来なさい」という呼びかけが、どれほどありがたい言葉だったか。


「罪人たち」 の宴会

 15節をお読みします。


15 それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。

 楽しい宴会が始まりました。パーティの主催者はレビで、招待客はイエス様と弟子たちです。「取税人たちや罪人たちも大勢」集まっていました。「取税人たち」というのは、レビが招待した仕事仲間だったのかもしれません。ただ、15節の最後には、「大勢の人々がいて、イエスに従っていた」と書いてあるので、「取税人たち」は、単にレビに招待されただけでなく、自分たちの意志でイエス様について行った人々だと考えるべきでしょう。イエス様がレビに、「ついて来なさい」と呼びかけたとき、取税人仲間たちも近くで聞いていたはずです。そして、もしかすると、レビが声をかけられているのを聞いて、「あのう、イエス様、おれもついて行っていいですか?」と言って、イエス様に従った、そういう取税人たちがいたのかもしれません。

 また、この宴会には、「罪人」と呼ばれる人々も参加していました。「罪人」というのは、単に「悪いことをした人」という意味もありますが、もっと厳密に言うと、「律法学者たちが決めた細かいルールをちゃんと守れない人」のことです。

 たとえば律法学者たちは、「外国人はイスラエルの律法を守らないから、外国人は皆、“罪人”だ」と考えていましたし、「そういう外国人と仲良くする一部のユダヤ人も皆、“罪人”だ」と考えていました。ですから、外国人のために働く取税人たちも、もちろん「罪人」になるわけです。

 また、律法学者たちは、「土曜日の安息日に仕事をする人たちも“罪人”だ」とも考えていたので、土曜日に仕事を休みたくても休めない人たち、たとえば「羊飼い」のような人たちも、「罪人」と呼ばれていました。また、「売春婦」のように、性的に汚れていると考えられていた人々も、「罪人」と呼ばれていました。律法学者たちが決めた細かいルールを守れる人は、「正しい人」と呼ばれ、ルールを守れない人は、「罪人」と呼ばれる。そして、「正しい人」と「罪人」の間には、明確な線が引かれている。

 「罪人たち」と呼ばれる人々は、「正しい人たち」の家には入れてもらえません。「汚れた罪人を家に入れたら、その家も汚れる」とか、「罪人と一緒に食事をしたら、その人も汚れる」と教えられていたからです。しかし、「取税人」だろうと、「羊飼い」だろうと、「売春婦」だろうと、「レビの家」なら入れたんです。この宴会には参加させてもらえたんです。なぜなら、この家は“汚れた家”だったからです。“罪人の家”だったからです。この家なら、誰の目も気にせず、安心してくつろぐことができた。


二つの 「神の国」 

 しかし、そんな楽しい宴会に、水を差すような人々がいました。16節をお読みします。


16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」

 ここで現れたのは、ただの「律法学者たち」ではなく、「パリサイ派の律法学者たち」でした。「パリサイ」というのは、ヘブル語で「分離する」という意味だと考えられています。「パリサイ派」というグループを一言で説明するなら、「罪人たちの汚れから自分たちを分離し、自分たちの清さを保つことによって、神の国を待ち望んでいた人々」です。

 つまり、「神の国を待ち望んでいた」という点では、パリサイ派の教えとイエス様の教えは似ていたんです。パリサイ派も神の国を待ち望んでいたし、イエス様も神の国の到来を宣言していた。ですから、パリサイ派の人々は、「神の国は近づいた」と教えているイエス様のことを、もしかすれば自分たちの仲間なのかもしれない、と考えていたのです。「このイエスという男は、力強い奇跡を行うこともできるし、教えていることの内容も立派だし、はっきりと『神の国』を宣べ伝えている。だからもしかすると、このイエスという男は、我々パリサイ派と一緒に、神の国を求めていける仲間なんじゃないか」と。

 ところがこの日、彼らは大きな失望を経験したのです。「イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見」たからです。「なんということだ!あのイエスという男は、我々の仲間かと思っていたのに、あんな汚れた奴の家に入り、しかも一緒に食事をしているだと!?」

 彼らが文句を言ったのは、イエス様に対してではなく、弟子たちに対してでした。なぜ彼らは、イエス様に直接文句を言わなかったのか。イエス様に反論されるのが怖かった、という可能性もありますが、もしかすると、イエス様がレビの家の奥の方に座っていたから、話しかけに行けなかったのかもしれません。「こんな汚らわしい家の奥まで入っていくなんてとんでもない……」と考えて、入り口の近くに座っていた弟子たちに文句を言ったのかもしれません。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。あの人も、私たちと同じように、神の国を待ち望んでいるのではないのですか。それならなぜあの人は、罪人たちの汚れから自分を分離しようとしないのですか。なぜあの人は、『神の国が近づいた』と教えているはずなのに、罪人たちの家に入り、一緒に食事をしているのですか。」

 しかし、そのような文句を、イエス様は聞き逃しませんでした。17節。


17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 イエス様は、「彼らは罪人なんかじゃないぞ」とは言いませんでした。「わたしの友達を、罪人呼ばわりするな」とも言いませんでした。イエス様は、「わたしが来たのは、罪人を招くためだ」と言ったんです。「罪人と一緒にいるのがわたしの仕事だ」と言ったんです。「これこそが、神の国なのだ。」


「罪人を招く」 教会へ

 盛岡みなみ教会では毎月、「月間予定表」というものを作っています。(正確には、役員の学さんが作成してくださっています。)そこには、教会の予定や、伝道師の予定が書かれていまして、たとえば7月の予定表には、「佐藤宣愛伝道師:盛岡大学チャペル奉仕」みたいな予定が書かれていました。予定表を壁に貼って、「ああ、今日は宣愛先生は盛岡大学でチャペル奉仕なんだな」なんてふうに、お祈りに覚えてくださっている方もいらっしゃるかもしれません。

 でも、たとえばそこに、「佐藤師:キャバクラ店見学」とか、「佐藤師:風俗店関係者と食事会」というような予定が書かれていたとしたら、どうでしょうか。みなさんはきっと、「ノア先生、これはどういうことですか」と問い詰めたくなるでしょう。いや、私に直接は聞かないとしても、役員の悟さんや学さんに、「なぜ、あの人はあんな人たちと一緒に食事をしているのですか」と、クレームを入れるかもしれません。

 もちろん、ただ夜遊びをするために私がそういうお店に出入りしているのだとしたら、それは伝道師として大変な問題です。たとえば盛岡駅の東側の商店街には、いわゆる「夜のお店」がたくさんありますが、そういう場所で伝道師が遊び歩いているとなったら、大問題になるでしょう。

 しかし、もしも私たち教会が、そのような世界と関わること自体を「問題」としてしまうなら、そこにしか居場所のない人たちには、どうやって福音が届くのでしょうか。「いやいや、わざわざ私たちが関わりに行かなくてもいいじゃないですか。そういう世界の人たちだって、他の人たちと同じように、教会のホームページを見たりして、自分から教会に来ればいいじゃないですか」と思う人もいるかもしれませんが、いわゆる「夜のお仕事」をしている人たちにとって、教会という場所がどれだけ行きにくい場所か、私たちはしっかりと想像したことがあるでしょうか。

 「取税人」という仕事が、辞めたくても辞められない仕事だったように、風俗のような仕事も、簡単に辞められるものではありません。もちろん、そういう仕事が好きでやっている人や、遊ぶお金目当てで働いている人もいますが、多くの場合は、大学の授業料が払えなくて仕方なく、とか、子どもを育てるための養育費が足りなくて仕方なく、といった事情があります。そして、一度そういう仕事を始めてしまったら、「もう家族に顔向けできない」とか、「友達とも関わりにくい」ということになって、ますます孤立していく。仮にその仕事をやめたとしても、どこに行けばいいのか分からない。「もうここにしか、私の居場所はない、もうここにしか、知り合いもいない。私はここにいるしかない。」そうやって必死に働く人たちに向かって、「教会に来たければ、来たらいいじゃないか」なんてことを、私たちは軽々しく言ってはいけないと思います。

 数年前に見た、あるドキュメンタリー番組を思い出します。お金もなく、居場所もない女の子たちが、新宿の歌舞伎町をふらふらと歩いている。そういう女の子たちを見つけて保護をする団体のドキュメンタリーだったのですが、その団体のスタッフが、こんなことを言っていました。「ここに集まる女の子たちは、私たちが声をかけてもついて来てくれないんです。彼女たちは、普通の大人を怖がっているからです。彼女たちにとって、普通の大人というのは、正しいことしか言わないし、自分たちを叱ってばかり。だから、普通の大人から声をかけられても、どうせまた怒られるだけだと思って、ついて来てくれないんです。でも、風俗店のキャッチをやっている、怪しい雰囲気の大人たちが、『君、かわいいね。だいじょうぶ? とりあえず、そこのお店で一緒にごはん食べよっか』などと優しく声をかけると、彼女たちは安心してついて行ってしまうんです。」この言葉を聞いたとき、教会にも同じような課題があるな、と思わされたのを覚えています。

 「悔い改めなさい」と言うだけなら、簡単かもしれません。「悔い改めなさい。そんな悪いこと今すぐやめなさい。もっとちゃんとしなさい」と言うだけなら、誰にでもできるかもしれません。しかし、そうやって罪を指摘されるだけでは、悔い改めたくても悔い改められない人だっているのだということを、私たちはよく覚えていたいと思います。その人たちに必要な言葉は、「悔い改めなさい」よりもまず、「どうしたの?」かもしれないのです。「そんなこと止めなさい」よりもまず、「いっしょにごはん食べよう」かもしれないのです。「悔い改め」を迫る前に、まず、その人を理解し、受け入れ、食事に招く。そういうことを、イエス様はされていたのだということを、私たちは覚えていたいと思います。

 最後にもう一度、16節と17節をお読みして、本日の説教を終わります。


16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちは、イエス様が宣べ伝えた「神の国」を求めて、「御国が来ますように」と祈り続けています。パリサイ派の人々が待ち望んでいた「神の国」ではなく、イエス様がこの地上にもたらしてくださった「神の国」を求めて、祈り続けています。どうか神様、私たちの教会が、“正しい人の家”である前に、“罪人の家”であることができますように。葛藤や泥沼の中にあって、立ち上がることができずに苦しんでいる人々を、温かい交わりの中へと招く、安らかな食卓へと招く、そのような教会となることができますように。イエス様の御名で祈ります。アーメン。