マルコ2:23-28「安息させる権威」

2022年8月28日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』2章23-28節


23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
25 イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」
27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
28 ですから、人の子は安息日にも主です。」



「そうすれば、休むことができる」

 今の日本では、「週休二日」が一般的になっています。〈一週間のうち、二日間は休日〉というわけです。今からだいたい50年前、まだ「週休一日」が普通だった時代に、パナソニック(松下電器産業)の松下幸之助社長が「週休二日」を導入しました。そしてそのことをきっかけに、ほかの会社や学校などにも〈一週間のうち二日間は必ず休む〉という習慣が広がっていきました。

 ちなみに、世界で初めて「週休二日」が導入されたのは、1908年のアメリカの工場だそうです。それまでは日曜日だけが休みだったのですが、ユダヤ人労働者たちが、「土曜日は安息日だから、土曜日を休みにしてほしい」と主張したことによって、〈日曜日を休みにするか、土曜日を休みにするか〉で議論になり、最終的に「じゃあ、どっちも休みにしよう!」ということになったそうです。

 これと似たような議論が、キリスト教会の中でもときどき起こります。その議論というのは、「聖書に書かれている安息日は、今でも土曜日なのか? それとも、日曜日に変わったのか?」という議論です。中には、「いや、今でも安息日は土曜日だから、礼拝だって土曜日に行うべきだ!」と主張するクリスチャンたちもいますし、「いや、イエス様が復活したのが日曜日だったから、安息日は日曜日に変わったんだ!」と考えるクリスチャンもいて、ときどき喧嘩みたいになることもあります。私は、「そんな議論をしてる暇があるなら、家に帰って安息したら?」と思いつつ、ローマ書14章を思い出すようにしています。5節と9節と10節をお読みします。


5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。……
9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
10それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。

 「安息日」は土曜日なのか、それとも日曜日に変わったのか……? もちろん、大切な議論ではあると思います。でも、それよりも大切なのは、「そもそも安息日は何のために造られたのか?」ということです。「安息日は、クリスチャンたちが喧嘩をするために造られたのか?」ということです。もちろん、そんなことはありません。申命記5章14節には、「安息日」が何のために造られたのかがはっきりと書かれています。


14 七日目は、あなた(イスラエル人たち)の神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。

 ここで「あなた」と呼ばれているのは、イスラエル人たちのことですが、単なるイスラエル人というよりは、一つの家族を持ち、一族全体の大黒柱となっているような〈主人たち〉のことだと考えるのが良いでしょう。「あなたはいかなる仕事もしてはならない」という安息日の命令は、一家の主人に対する命令なのです。なぜなら、主人が働き続けてしまうと、子どもたちも、奴隷たちも、動物たちも、休まず働き続けなければならないからです。

 しかし逆に言えば、主人が仕事を休むなら、その家の全ての人々が休めるんです。つまり、「安息日」というのは、〈自分の力では休みたくても休めない人々を休ませるために、主人たちに対して休業を命じる日〉だったんです。「安息日」というのは、〈休まなければならない日〉というよりも、〈休ませなければならない日〉なんです。


「安息日の主」 の “権威”

 ところが、多くのイスラエル人は、〈休めない人を休ませる日〉だったはずの「安息日」を、〈何が何でも休まなければいけない日〉というように、少しずつ誤解し始めてしまいました。奴隷たちを自由にするための「安息日」が、かえって逆の方向に進んでしまったんです。弱い立場にある人々を助けるための「安息日」が、かえって弱い立場にある人々を苦しめるものに変わってしまったんです。マルコの福音書、2章23節と24節をお読みします。


23 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。
24 すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」

 たぶん、長旅でお腹がペコペコだったのでしょう、イエス様の弟子たちは「麦畑」に入って、麦の穂を摘んで、ムシャムシャと食べていました。「え、人の畑のものを勝手に食べていいの?」と思うかもしれませんが、旧約聖書の律法には、「お腹が空いた時は、少しだけなら他の人の畑に入って麦を食べさせてもらってもいいよ」という素晴らしいルールがあったので、弟子たちが他人の麦畑で麦を食べていること自体は、特に問題のないことでした。

 むしろ、ここで問題になったのは、この日が「安息日」だったことです。「パリサイ人たち」は、〈「安息日」は何が何でも休まなければいけない日〉であり、〈どんなに小さな仕事でもしてはいけない日〉だと考えていました。ですから、パリサイ人たちにとっては、“麦を摘んで食べる”という小さなことだけでも、脱穀という「仕事」をしたことになるので、「安息日」を破ったことになるのです。だからパリサイ人たちは、「なぜ、安息日にしてはならないことをするのですか」と、イエス様と弟子たちに対して、文句を言ったわけです。

 そこでイエス様は、パリサイ人たちに対して反論を始めます。25節と26節をお読みします。


25イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。
26 大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか。」

 イエス様がここで語っておられるのは、旧約聖書の第一サムエル記21章に書かれている出来事です。ダビデはこの時、サウルという王様から命を狙われ、逃げていました。その時ダビデは、「神の家」にたどり着いて、「何か食べるものはありませんか、私も家来たちも空腹なのです」と尋ねるわけです。すると祭司が、「神様におささげした聖なる臨在のパンならありますが、あなたたちは今、聖なる状態ですか? もしあなたたちが聖なる状態なら、このパンを食べられます」と言います。そこでダビデは、「はい、今私たちは旅の途中ですから、汚れるようなことはしていません」と言って、そのパンを受け取り、家来たちと一緒に食べた。

 イエス様はなぜ、ダビデの話をしたのでしょうか? 様々な解釈がありますが、おそらく重要なポイントは、〈イエス様が、ダビデとご自分を重ねている〉ということです。みなさんもご存知の通り、ダビデという人は、イスラエルの最も偉大な王様でした。いや、正確に言えば、この時はまだ王様として公になってはいませんでしたが、すでに王様となるための「油注ぎ」を受けていました(第一サムエル16:13)。ですから、イエス様が主張しているのはこういうことです。「偉大な王であるダビデが聖なるパンを食べ、家来にも食べさせたなら、ダビデよりも聖なる存在であり、偉大な王であるわたしが、お腹を空かせてかわいそうな弟子たちに麦を食べさせてやることが、なぜ問題なのか?」そしてイエス様は、27節と28節で次のように締めくくります。


27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
28 ですから、人の子は安息日にも主です。」

 「安息日」が、もともと何のために造られたのか。このことを最も正しく理解していたのは、パリサイ人たちではなく、イエス様でした。イエス様こそが、旧約聖書の律法を正しく解釈し、人々に教える権威を持っておられる。本当の「安息」を人々に与える権威を持っておられる。

 28節でイエス様が「ですから」と言っていますが、なぜここで「ですから」なのか、学者たちの間でも意見が分かれているんですが、私の考えでは、イエス様がここで仰った「ですから」は、「律法を正しく解釈する権威を持っているのはわたしなのですから」という意味だと思われます。「律法の本来の意味を正しく解釈し、それによって貧しい人々を救う権威を持っているのはわたしなのですから」ということです。「ですから、人の子は安息日にも主です。」

 今日でマルコの福音書の2章を読み終えますが、この福音書をここまで読み進める中で私たちが何度も確認してきたのは、〈イエス様には、あらゆるものを支配する“権威”がある〉ということです。イエスというお方には、病気を治す“権威”があり、悪霊を追い出す“権威”があり、罪を赦す“権威”がある。イエスというお方は、この世界のあらゆる存在に対して、“神の権威”を持っておられる。あの偉大な王であるダビデにも優る、この世で最も力強い王、メシア、神の子。

 だからイエス様は、悪霊を追い出すときにも、病気を治すときにも、罪を赦すときにも「主」であられたのと同じように、「安息日にも主」なんです。悪霊も病気も罪も、イエス様の“権威”によって消え去ります。イエス様の“権威”から逃れられるものは何もありません。だから「人の子」は、イエス様は、「安息日にも主」として、“権威”を示しておられるのです。悪霊たちを追い出したように、多くの病気を消し去ったように、イエス様はパリサイ人たちの批判を退けました。安息日の本来の意味を忘れ、弱い人々を苦しめていたパリサイ人の力、人の安息を妨げようとする力を、イエス様はご自分の“権威”によって退けたのです。弟子たちのペコペコのお腹、ヘロヘロの身体は、イエス様の“権威”によって守られ、「安息」を得たのです。


「安息日の主」 の弟子として

 今の時代は「権利の時代」だと言われます。いろいろなところで「権利」が主張される時代です。ですから現代人の多くは、「労働の権利」とか、「休日の権利」というのを訴えるわけです。「私たちには働く権利がある!そして、休む権利がある!」と、自分たちの「権利」を主張するわけです。

 しかし、私たちが休める本当の理由は、私たちが安息できる本当の理由は、私たち自身にその “権利”があるからというよりも、私たちを休ませたいと願ってくださるお方に“権威”があるからだと思います。「安息日の主」であるお方が、「休め」と言ってくださる。毎日の仕事や家事、勉強や人間関係で、身も心も疲れ切ってしまった私たちを、「休ませたい」と願ってくださり、その“権威”によって「休め」と命じてくださる方がおられるから、だから私たちは休むことができる、休むことが許されている。

 「奴隷制」という制度が廃止されたとはいえ、この世界には、「奴隷」のように働かされている人たちが、まだまだたくさんいます。少なすぎる賃金で不当に働かされている貧しい人もいれば、暴力的な権力者に脅されて働かされている人もいます。ブラック企業の残業に疲れ果てている人もいれば、先々週の説教でもお話したように、奨学金などの借金に追われて、自分の身体を売らなければならないような女性もいます。また、強すぎるプレッシャーの中で死にそうになりながら受験勉強をしている人もいれば、毎日のように押し寄せる大量の家事を、家族から感謝もされない孤独の中で黙々とこなし続けている母親や父親たちもいます。

 そういう人たちを休ませてあげること、「安息」を得られるようにお手伝いをすることは、イエス様の弟子である私たちの使命だと思います。私たちは、イエス様によって休ませていただいたのですから、今度は私たちも、周りにいる疲れた人たちを「休ませる人」になるのです。私たちは、「安息日の主」の弟子だからです。

 ただしもちろん、そうやって誰かを助けようとすると、今度は自分自身が疲れてしまう、ということもあるでしょう。私たちはついつい、「自分がこの人を助けなければ」とか、「自分にしかこの人を助けられない」と思ってしまい、無理をして疲れてしまうものです。

 そんな時に私たちが覚えておきたいのは、「“安息日の主”は私ではない」ということです。「“安息させる権威”を持っているのは、この私ではない」ということです。「誰かのために働こうとする私自身も、イエス様によって休ませていただく存在なのだ」ということを、感謝して認めることです。そして、そのことを素直に認めるなら、つまり、「自分は誰かの神にはなれない」ということを認めるなら、私たちは本当の意味で、周りの人々を「休ませる人」になることができるのではないでしょうか。

 先日私は、(今更なのですが)伝道師としての名刺を作成して、印刷会社に注文しました。たぶん明日か明後日には届くと思うので、みなさんにも1枚ずつお配りしたいと思っていますが、その名刺をパソコンで作っていた時、裏面に何か聖書の言葉を載せたいと思いまして、マタイの福音書11章28節のみことばを載せることにしました。


28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 「名刺をお渡しする人たちの中に、このみことばを読んで、励まされる人や慰められる人がいたらいいな、そして教会に遊びに来てくれたらいいな。」そう願って、この聖書箇所を選びました。しかし、名刺のデザインが完成した時に思ったことは、「この名刺を誰かに渡すとき、私自身もこのみことばに励まされるだろうなあ。励まされていきたいなあ」ということです。

 「安息」という言葉は、「安心して息をする」と書きます。みなさん、安心して息をしているでしょうか? 職場にいるとき、学校にいるとき、家庭にいるとき、なぜだかうまく息が吸えないということがあるかもしれません。私たちの頭の中に、心の中に、“私たちを休ませてくれない何か”がいて、私たちをいつも疲れさせているのかもしれません。あの麦畑で、イエス様の弟子たちをじーっと睨みつけていたパリサイ人たちのように、自分をどこかで見張っているような存在がいて、それが自分を休ませてくれなくて、どんなに休んでも、休んだ気がしない、いつもどこかが疲れている、自分の部屋に一人でいるときでさえ、なぜだか息が苦しい、そんなことがあるかもしれません。私たちは、自分で自分を休ませてあげることさえ、上手にできないのかもしれません。“私たちを休ませてくれない何か”とは、私たち自身だということさえあるかもしれません。

 そんなときこそ私たちは、「わたしのもとに来なさい」と言ってくださる方、私たちを休ませる“権威”を持っておられる方に祈り、その方の導きによって、深く息を吸いたいと思います。イエス様の弟子として歩む人生は、深呼吸ができる人生です。誰よりも強い権威を持っておられる方が、「わたしがあなたがたを休ませる」と、約束してくださったからです。お祈りをします。


祈り

 父なる神様。私たちは疲れています。私たちを休ませてはくれない“何か”が、私たちをどこかで見張っていて、私たちの心を支配し、疲れさせるからです。私たちは、自分で自分のことを休ませることさえできない弱い者であることを、あなたの前に告白いたします。神様が、私たちの主となってくださいますように。私たちにまことの深呼吸を与えてくださいますように。そして私たちも、周りの人にまことの安息を分かち合うことができますように。安息日の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。