マルコ3:7-12「イエスが行っておられること」

2022年9月18日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』3章7-12節


7 それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。すると、ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、
8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。
9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた。
10 イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。
11 汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ。
12 イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。


「非常に大勢の人々が」

 週報のコラムにも書きましたが、先々週の木曜日にエリザベス女王が亡くなりました。今日でだいたい十日が経ちます。女王の遺体が入った棺は、ロンドンのウェストミンスター宮殿に置かれていて、多くの国民が弔いの列に並んでいるそうです。待ち時間が14時間になった、というニュースもありました。どれだけ多くの人が宮殿を訪れたのでしょうか。イギリス国民に愛され、世界中の人々から尊敬された人でした。

 そんなエリザベス女王は、敬虔なキリスト教徒でもありました。女王は毎年のクリスマスに、国民に向けてメッセージを語っていましたが、今から22年前のクリスマスに語られた次の言葉は印象的です。


私にとっては、キリストの教えと、神の御前で求められる私自身の説明責任が、私の人生を導くための枠組みとなっています。私は多くの皆さんと同じように、困難な時にキリストの言葉や模範から大きな慰めを得てきました。

クリスチャン・トゥデイ「神に信頼し、人々に仕えた君主 エリザベス女王の信仰」(2022年9月10日|https://www.christiantoday.co.jp/articles/31415/20220910/christian-faith-of-queen-elizabeth-ii.htm)

 キリストの言葉。キリストの模範。これこそが、女王として70年もの間、忙しく働き続けた、エリザベス女王の力の源でした。私たちも、エリザベス女王と同じようにキリストに倣う者として、今日も聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。

 さて、7節と8節は後で読むことにして、まずは9節と10節から見ていきましょう。


9 イエスは、群衆が押し寄せて来ないように、ご自分のために小舟を用意しておくよう、弟子たちに言われた。10 イエスが多くの人を癒やされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押し寄せて来たのである。

 エリザベス女王を弔うための列とは違い、イエス様のところに集まる群衆には列なんてものはありません。イエス様は小舟を用意するようにと仰いました。群衆に押し潰されてしまわないように、小舟に乗って距離を取るわけです。それは第一に、イエス様ご自身の安全を確保するためでしたが、おそらく、弟子たちや群衆の安全を確保するためでもあったと思われます。

 みなさんは、「明石花火大会歩道橋事故」という大きな事故をご存知でしょうか。今から二十年ほど前に、兵庫県の明石市の花火大会で起こった事故です。狭い歩道橋の上に大勢の人が密集して動けなくなり、183人が怪我をし、11人が亡くなってしまった、そういう悲しい事故です。もちろん、イエス様がいたのはそんなに狭い場所ではなかったと思いますが、もしかすると、そういう事故が起こらないようにと配慮をして、小舟を用意されたのかもしれません。

 また、11節と12節には、次のように書かれています。


11 汚れた霊どもは、イエスを見るたびに御前にひれ伏して「あなたは神の子です」と叫んだ。
12 イエスはご自分のことを知らせないよう、彼らを厳しく戒められた。

 どうしてイエス様は、「あなたは神の子です」と叫ぶ悪霊どもを黙らせたのか。このことについては、以前も何度かお話したことがありますが、今日も改めて確認しておきましょう。イエス様が「神の子」だということを隠していた理由。それは、もしそのことが「大勢の人々」に知られてしまうと、イエス様は〈群衆を扇動して国家に対する反乱を起こそうとしている反逆者〉として逮捕され、死刑にされてしまう可能性があったからです。もちろん、最終的にはイエス様は、〈反逆者〉として十字架にかけられてしまうわけですが、少なくともこのときはまだ、イエス様には地上でやるべきことがあったので、殺されるわけには行かなかった。だからイエス様は、ご自分が「神の子」だということを隠しておられたんです。

 さて、前置きが長くなりましたが、今日の聖書箇所の中で特に注目したいのは7節と8節です。


7 それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。すると、ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、
8 エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。

 7節にはまず、「ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々」が登場します。イエス様はこれまでずっとガリラヤで活動していましたから、「ガリラヤから出て来た…人々」というのは、イエス様が行っておられたみわざを自分の目で直接見て、イエス様について来た人々だったと思われます。

 そう考えると、それに続いて登場する、ガリラヤ以外の地域からやって来た人々というのは、おそらく、イエス様のみわざを直接見たわけではないけれども、その噂を聞いてやって来た人々、ということになります。自分の目でイエス様の力を目撃したわけではないけれども、「イエスという力強い預言者がガリラヤにいるらしい」という噂を聞いて、はるばるやってきた。

 このように二つのグループが出て来るわけですが、みなさんはいかがでしょうか。自分はどちらのグループに似ていると思われますか。ガリラヤから来た人々のように、イエス様のみわざを自分の目で見て、イエス様を信じた、という人もいるかもしれません。もしくは、まだ自分の目ではイエス様のみわざを見たことはないけど、それでも、イエスには特別な力がある、イエスのことをもっと知りたい、という方もいるでしょう。どちらのほうが正しいとか、優れているとか、そういう話ではありません。大切なのは、まずはイエス様のところに来る、ということです。自分の目で見て信じたとしても、噂を聞いて興味を持ったとしても、どちらにせよ、イエス様のところに来て、イエス様の姿を目撃する。その教えに耳を傾ける。それが何より大切なことです。


「イエスが行っておられること」

 さて、カタカナの地名がたくさん出てきました。「ユダヤ」とか「エルサレム」というのは、ユダヤ人の本拠地、いわゆる“聖地”ですが、「イドマヤ」とか「ヨルダンの川向こう」というのは、一応ユダヤ人の地域なんですが、異邦人もたくさん住んでいて、ユダヤ人と異邦人の血が混ざったような人も少なくない、そういう地域でした。さらに「ツロ、シドンのあたり」となると、異邦人の地域と言ったほうがいいくらいの場所です。ユダヤやエルサレムにいる真面目なユダヤ人からすれば、ツロやシドンに住んでいるユダヤ人というのは、「異邦人と接触することが多くて、ちょっと汚れた人々」というようなイメージだったでしょう。要するに、イエス様のところに集まって来た「非常に大勢の人々」の中には、パリサイ人のように真面目なユダヤ人から見れば、社会的にも宗教的にもあんまり立派じゃない人がいた、ということです。

 そう考えると、少し不思議な気がしてきます。彼らの中には、「汚れた奴ら」と呼ばれるような人々もいたはずなのに、彼らはまるで、「イエスという人のところに行けば、汚れた自分たちでも受け容れてもらえる」と確信しているかのように見える。「イエスという人のところに行けば大丈夫だ」と、彼らは不思議なくらいに信じ切っている、そんな風に見えるんです。

 車も電車も無い時代ですから、旅をするというのは、簡単なことではありませんでした。たとえば、ツロからガリラヤ湖までの距離は、直線距離でも60キロ以上はありますし、くねくねした山道を歩いていくわけですから、数日はかかってしまうような距離でした。しかも、当時のイスラエルでは、旅の途中で強盗に襲われる可能性も低くはなかったんです。でも、それでも彼らは、「どんな長旅をしてでもイエスのところに行くんだ、イエスのところに行けば必ず受け容れてもらえるんだ」と確信しているように見えるんですね。なぜでしょうか? 

 それは、「イエスが行っておられること」を彼らが知っていたからです。「イエスが行っておられること」を彼らが聞いていたからです。「イエスが行っておられること」とは何でしょうか? 病気を治したり、悪霊を追い出したりすることでしょうか? もちろんそれもそうでしょう。しかし、「汚れた人々」にとっては、〈イエスという人が本当に病気を治せるかどうか〉も重要なことでしたが、そもそもの問題として、〈イエスという人が汚れた自分たちを受け容れてくれるかどうか〉が重要だったわけです。ですから、彼らにとっては、〈イエスという人は病気を治せる〉とか、〈悪霊を追い出せる〉とか、そういう噂だけでは不十分だったんです。

 しかし、彼らが噂に聞いていた、「イエスが行っておられること」というのは、単に〈病気を治せる〉とか、〈悪霊を追い出せる〉ということだけではありませんでした。〈イエスという人は、罪人とさえ食事をするらしい。〉〈イエスという人は、ツァラアトに冒された人にさえ触ったらしい。〉〈イエスという人は、パリサイ人たちとは違って、安息日にも喜んで病気を癒やしてくださるらしい。〉これが、彼らが噂に聞いていた、「イエスが行っておられること」でした。

 だから彼らは、「イエスという人なら、汚れた自分たちのことも受け容れてくれるに違いない」と信じることができた。「イエスという人は、パリサイ人たちとは違う。律法学者たちとは違う。イエスという人は、おれたちみたいな汚れた人間でも、受け容れてくれるんだ。この人は、単に病気を治せるだけのスーパーマンじゃない。この人は、おれたちの痛みを分かってくれるお方だ。だから、どんなに長旅をしてでも、どんなに犠牲を払ってでも、この人のところに行こう。この人を探しに行こう。この人に会いに行こう。」


そして、教会が行っていくこと

 来週の聖書箇所を少し先取りすることになりますが、マルコの3章14節でイエス様は、「十二弟子」をお選びになります。ここで注目したいのは、なぜイエス様は、「非常に大勢の人々」が集まって来たこのタイミングで、「十二弟子」を選ばれたのか、ということです。「大勢の人々」の中から、優秀そうな人々、弟子にふさわしそうな人々を選ぶためでしょうか? その可能性も考えられますが、それよりも可能性が高いのは、イエス様が地上からいなくなった後にも、ここにいる「非常に大勢の人々」を導いていける、守っていける、そういうリーダーたちを育てるためだったと思われます。つまり、イエス様がこのタイミングで十二弟子をお選びになったのは、「イエスが行っておられること」を彼らに引き継がせるためなんです。

 実際に、新約聖書の“使徒の働き”を読んでみると、そのことがよく分かります。イエス様が復活して天に昇られた後、弟子たちが行ったことはまさに、「イエスが行っておられること」でした。使徒の働き2章42節から45節(新約236頁)をお読みします。


2:42 彼らはいつも、使徒たち[十二弟子たち]の教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

 弟子たちはなぜ、パンを裂いたのでしょうか? 単に食事が好きだったからではありません。彼らのために、イエス様がパンを裂いてくださったからです。イエス様が彼らのためにパンを裂き、彼らを食卓に招いてくださったから、だから彼らは、「交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」また、彼らはなぜ、持ち物を共有して、貧しい人々に分配していたのでしょうか?「貧しい人々を助けるのは、普通に考えて良いことだから」そんな漠然とした理由ではありません。彼らが貧しい人々と財産を共有したのは、彼らの主であるイエス様が、貧しい人々を受け容れたから、いや、貧しかった彼ら自身を、弟子たち自身を受け容れてくださったからです。

 先週の説教で秋山先生がお話してくださったように、私たち教会は「キリストのからだ」です。私たちは、天におられるイエス様が、地上で働きをするための「からだ」なんです。だから、私たち教会が行うことは、「イエスが行っておられること」なんです。イエス様はこの二千年間ずっと、「キリストのからだ」と呼ばれる人々を通して、つまり、教会を通して、この地上で働き続けておられます。

 ですから、「イエスが行っておられること」は決して、「イエスが行っておられた昔のこと」ではありません。イエス様は今も生きておられます。権力者たちに憎まれ、十字架にかけられて殺されようとも、「イエスが行っておられること」は、誰にも止められなかったんです。キリストは今も生きておられ、「キリストのからだ」である教会が、今もキリストとともに生きているからです。

 私たちには、病気を一瞬で治したりすることはできないかもしれません。苦しみを一瞬で解決してあげることはできないかもしれません。私はときどき、「どうしてイエス様は、奇跡を行う力を私たちに与えてくださらないんだろう?」と思うことがあります。奇跡の力を与えてくだされば、もっとたくさんの人がイエス様を信じるかもしれないのに、と思うことがあります。でも、今日の説教を準備しながら思ったことは、イエス様が私たちに引き継いでほしいと思っておられることは、もっと別のことなのかな、ということです。

 もし、「イエスが行っておられること」が、スーパーマンのような奇跡だけだったら、私たちが引き継げることなんて何もないかもしれません。でも、「イエスが行っておられること」の中に、〈“汚いもの扱い”をされている人たちと共に食事をする〉とか、〈社会から仲間外れにされている人の友達になる〉とか、そういうことが含まれているのだとしたら、私たちにだって、それを引き継ぐことはできるはずです。「自分には奇跡なんて行えない。イエス様の働きを引き継ぐことなんてできない」と諦めてしまうのではなくて、「自分にもできることがあるはずだ。イエス様の働きの中に、自分にも引き継いでいける部分があるはずだ」と、「キリストのからだ」としての自覚を持つ、そういう小さな歩みが大切なんだと思ったんです。

 「非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。」この世界には今も、この町には今も、イエス様を必要としている「非常に大勢の人々」がいるはずです。もちろん、「病気を治してほしい、苦しみを一瞬で消してほしい」という願いを持っている方々もおられるでしょう。しかし、その中には、「本当に苦しいのは病気ではなくて、先が見えない不安なんだ、虚しさなんだ」という方もおられるでしょう。そんな苦しみの中にある方々と共に生きること、彼ら彼女らの友となり、一緒にイエス様に祈ること。それが、私たちが引き継いでいくべき、「イエスがしておられること」なのではないでしょうか。

 「あの教会に行けば、イエス様に会える。」そんな教会を目指して、そんな「キリスト教会」を目指して、今週も歩んで参りたいと思います。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちは、「イエスがしておられること」を、「イエスがしておられた昔のこと」にしてしまってはいないでしょうか。どうか神様、私たちがこれまで、足りないところがありながらも、あなたの恵みによって、「キリストのからだ」として歩んで来たように、これからもあなたの恵みをいただきつつ、「キリストのからだ」として、ますます力強く歩ませてください。「イエスがしておられること」を、この時代、この場所に、この盛岡の地に実現できるような、そのような教会として歩ませてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。