マタイ22:23-33「生きている者の神」

2022年10月30日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マタイの福音書』22章23-33節


23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
24「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
27 そして最後に、その妻も死にました。
28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。
29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
32『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。
33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。



「復活はないと言っている」

 先ほどの報告にもあったように、今日の午後は“墓前礼拝”を行います。“墓前礼拝”というのは、「お墓の前で礼拝する」と書きますが、もちろん「お墓を礼拝する」ということではありませんし、「お墓の中で眠っている方々を礼拝する」ということでもありません。普通の日本人の感覚では、“亡くなった方々を礼拝する”ということもあるわけですが、私たちクリスチャンが礼拝するのは神様だけです。でもそうなると、「じゃあ、なんでわざわざお墓の前で神様を礼拝をするの?」と思う方もいるかもしれません。「“お墓で眠っている方々に挨拶をしに行く”とかなら分かるけど、なんで、神様を礼拝するためにわざわざお墓に行くの?」と。たしかに、お墓に行くことによって、そこで眠っている方々の人生を思い返し、感謝するという目的もあります。しかし、それでも私たちはなぜ、“墓前挨拶”とか、“墓前表敬訪問”とかではなくて、“墓前礼拝”をするのでしょうか。

 今日はこの問いについて考えながら、マタイの福音書を通して、みことばに耳を傾けたいと思います。まずは、22章の23節を改めてお読みします。


23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

 「サドカイ人」という人々が、イエス様のところにやって来ました。「サドカイ人」というのはどういう人たちかと言いますと、たとえばエルサレム神殿の大祭司たちとか、もしくはお金持ちの貴族たちとか、そういういわゆる“エリート”のユダヤ人たちのことです。「サドカイ」というのは、ヘブル語では「ツァドカイ」と発音するので、旧約聖書に出て来る「祭司ツァドク」という人物に由来しているんじゃないかという説や、ヘブル語の「ツァディーク」つまり「正しい人」に由来しているんじゃないかという説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。

 ただし、はっきりと分かっていることもあります。それは、サドカイ人たちは死者の復活を否定していた、ということです。死者が復活するということを信じなかったんです。サドカイ人以外のほかの多くのユダヤ人たちは、死者の復活を信じていました。特に、「パリサイ人」と呼ばれるユダヤ人たちは、死者の復活を熱心に信じていました。しかし、「サドカイ人」たちは、「復活はないと言っている。」なぜでしょうか? その理由は二つあります。

 サドカイ人たちが復活を否定していた理由。その一つ目は、〈彼らが旧約聖書の一部だけ、モーセ五書だけを信じていたから〉でした。旧約聖書には全部で39巻の書物がありまして、パリサイ人たちも、私たちクリスチャンも、39巻全てを“聖書”として信じています。しかしサドカイ人たちは、旧約聖書の最初の五つの書物だけを“聖書”として信じていたんです。つまり、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』の五つの書物、いわゆる「モーセ五書」と呼ばれる書物だけを“聖書”として信じ、残りの部分は“聖書”として認めなかったんです。そして、サドカイ人たちは、「モーセが書いた五つの書には、復活なんてことはどこにも書かれていない!」と主張しました。これが、サドカイ人たちが復活を否定していた一つ目の理由です。

 サドカイ人が復活を否定した、二つ目の理由。それは、彼らが「現世主義者」だった、ということです。「現世主義者」というのは、「今の世界こそが全てだ」と考える人々のことです。「復活なんて存在しない。新しい世界なんて存在しない。今の世界だけでいいじゃないか。今の世界で幸せにやっていれば、それでいいじゃないか。」これが、サドカイ人の考え方でした。彼らは、「今の自分たちのエリートとしての立場さえ守れればそれでいい」と考えていたわけです。

 そもそも「復活」というのは、単に“死んだ人が生き返る”というだけのことではありません。聖書が語る「復活」というのは、“神様がこの世界を造り変えるための手段”なんです。この世界に様々な悪があって、その悪がこの世界を破壊している。真面目に生きている人々が貧しさや虐待の中で死んでいく。それなのに、悪どい権力者たちが好き勝手に生きている。そんな理不尽で間違った世界を、神様がそのままにしておくことなんてあり得ない。だから、「復活」があるはずだ。神様がすべての人を復活させて、善と悪を正しくさばいてくださる日がくるはずだ。これが、ユダヤ人たちが信じた「復活」という希望でした。ですから「復活」というのは、単に“死んだ人が生き返る”という個人レベルの話だけではなくて、「この世界はもっと良い世界に生まれ変わるはずだ」という世界レベルの希望なんです。貧しい人々や、虐げられている人々の希望なんです。

 しかし、サドカイ人たちにとって、そんな希望は必要ありませんでした。彼らは、「この世界はこの世界のままでいい」と思っていたからです。「復活なんて無いほうがいい。新しい世界なんてないほうがいい。俺たちのような権力者が権力を握ったままの世界で別にいいじゃないか」と、彼らは思っていたんです。これが、サドカイ人たちが復活を否定していた二つ目の理由です。

 そんなサドカイ人たちが、イエス様のところにやって来て、一つの質問をしました。24節から28節をお読みします。


24「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
27 そして最後に、その妻も死にました。
28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」

 「『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』」。この命令は、申命記25章5節に書かれているモーセの命令でした。この命令自体は、決して悪いものではありませんでした。“死んだ男性の財産や血筋を守るため”という配慮と、“夫に先立たれてしまった女性を守るため”という配慮を目的としていたからです。

 ところがサドカイ人は、このルールを使って、復活を否定しようとしたわけです。「もし、一人の女性が、七人の男性と繰り返し結婚をしたら、復活なんてものが起こった時、この女性はだれの妻になるんですか? おかしいことになっちゃいますよね? “この財産はだれのものになるのか”とか、“だれのことを一番愛しているのか”とか、そういうややこしいことになっちゃいますよね?ということは、やっぱり復活なんてものはあり得ないんじゃないですか?」と、こういう屁理屈を使って、サドカイ人たちはイエス様に挑戦状を叩きつけた。きっと彼らは心の中で、「どうだ、答えられないだろう? かの有名なイエス大先生でも、流石にこの質問には答えられないはずだ。さあどうする? 素直に自分の負けを認めるか?」と、ほくそ笑んでいたかもしれません。


「めとることも嫁ぐこともなく」

 なんとも嫌らしいというか、悪意に満ちた質問ですけれども、これに対して、イエス様はどのようにお答えになったか。29節と30節。


29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

 「あなたがたは聖書も神の力も知らない!」この痛烈な皮肉を聞いて、それまでニヤニヤと笑っていたサドカイ人たちの笑顔はすぐに消えてしまったことでしょう。そしてイエス様は次のように続けます。「復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」このイエス様の言葉を聞いて、今度は私たちがびっくりするかもしれません。「えっ? めとることも嫁ぐこともないってことは、復活をした後は、結婚そのものが無くなっちゃうの? 新しい世界では、夫婦はみんな離れ離れになっちゃうの?」と、驚くかもしれません。

 しかし、イエス様がここで言っているのは、「復活の世界では、夫婦は離れ離れになる」ということではありません。イエス様がここで仰っているのは、復活の世界、新しい世界においては、「結婚」という一対一に限定された愛の関係とか、他の人々が入れない排他的な愛の関係から、より完全でより包括的な愛の関係へと広がっていく、ということです。「夫婦は離れ離れになってしまう」ということではなく、「結婚という制度の必要がなくなって、夫婦に限らず、親子や友人やそれ以外の人々とも、今まで以上に深く愛し合える関係になる」ということです。

 「夫婦が離れ離れになるわけではない」と聞いて、「やった!これからもこの人と一緒にいられるんだ!」と喜ぶ人もいると思いますが、「ええ~、これからも一緒にいなきゃいけないの…?」と残念に思う人もいるかもしれません。私は3ヶ月前に婚約をして、まだ結婚はしていませんが、婚約者とお付き合いしている今の段階でさえ、上手く行かないことは色々ありますし、自分の両親の結婚生活を見ていても、「あの二人はよく今日まで離婚しないでいられたなあ」と思うようなこともありました。また、人によっては、良い人だと思って結婚した相手から、ひどい仕打ちを受けたりして、「こんな人と結婚しなければよかった」と後悔するようなこともあるでしょう。「復活したあとくらいは、一人で自由に生きていきたい」と思う人もいるかもしれません。

 もし、結婚相手が本当に悪い人で、暴力を奮ったり、暴言を吐いたり、浮気や不倫ばかりしているような人だったら、神様もきっと、そんな二人を復活の後にまで無理やり一緒にいさせるようなことはなさらないと思います。というか、そんな暴力的で不誠実な人はそもそも、新しい世界には入れません。不幸な結婚に苦しめられている人々を、神様は必ず救い出してくださいます。

 しかし、それと同時に神様が望んでおられるのは、夫婦に限らず、すべての人が心から愛し合うことです。なんのわだかまりもなく、なんの憎しみ合いもなく、愛し合うことのできる世界です。神様が望んでおられることは、夫婦に限らずすべての人が悔い改め、互いに赦し合い、今よりも深いレベルで“愛し合い直す”ことです。

 また、サドカイ人たちが指摘したように、「再婚した人の場合は、復活の世界ではややこしいことになるのでは」という問題も考えられます。「何番目の結婚相手を一番愛しているのか」とか、「一人目の結婚相手と二人目の結婚相手で妬み合うんじゃないか」とか、そういうややこしい問題も考えられます。たしかに、今の世界では、今の私たちでは、すべての人と平等に心から愛し合う、ということは難しいでしょう。だれかを愛すれば、他の人への愛が足りなくなる。というかそもそも、一人の人を愛する愛さえ十分に持っていない。夫婦が愛し合うことも難しく、それ以外の人と愛し合うことも難しい。あらゆる意味で限定的な愛しか、今の私たちは持っていない。

 でも、復活の世界では、そんな心配は要らないんです。復活の世界では、「だれを一番愛しているか」とか、「あの人の愛は私だけのものだ」とか、そういう問題もなくなるんです。なぜなら、私たちは新しく造り変えられるからです。この世界は、新しく生まれ変わるからです。 


「生きている者の神」

 さて、このように、サドカイ人の嫌らしい質問に対して、見事な反論を返したイエス様ですが、反論だけで終わらずに、サドカイ人たちに追い打ちをかけていきます。イエス様は、「復活があるなんて、モーセ五書のどこにも書いてないじゃないか」と主張するサドカイ人たちに対して、復活があるということを、モーセ五書を使って証明するんです。31節から33節をお読みします。


31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
32『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。
33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。

 「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』」このみことばは、出エジプト記3章6節に書かれています。出エジプト記もモーセ五書の一つですから、サドカイ人たちも、このみことばは“聖書”として認めていたはずです。しかし、おそらく彼らの考えでは、「アブラハムもイサクもヤコブも死んでしまったわけだから、ここで神様が言っているのは、『わたしはかつて、アブラハムやイサクやヤコブの神だった』とか、『わたしはアブラハムやイサクやヤコブの“子孫の神”として、これからも彼らの子孫と一緒にいてあげよう』とか、そういう意味だろう」と理解していたんでしょう。結局のところ、復活を信じないサドカイ人にとっては、アブラハムもイサクもヤコブも「死んだ者」であり、それゆえ神様は「死んだ者の神」なんです。

 しかしイエス様は、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と宣言されました。「神は今でも、彼らの神なのだ」と。「たとえ彼らが墓の中で眠っているとしても、神が彼らを見捨てない限り、彼らは“死んだ者”ではないのだ。神は、彼らを死んだままでは捨ておかないと、彼らを必ず復活させると、心に決めておられるからだ」と、イエス様は仰ったんです。

 最初の問いに戻りましょう。私たちはなぜ、“墓前礼拝”をするのでしょうか? なぜ、“お墓に挨拶に行く”とか、“表敬訪問をする”とかではなくて、お墓の前で神様を“礼拝する”のでしょうか?それは、あのお墓こそが、「生きている者の神」を礼拝するのに、最も相応しい場所だからです。あのお墓こそが、この世界を造り変える復活の神を礼拝するのに、最も相応しい場所だからです。

 たしかに、「墓」というのは、悲しみの場所です。寂しい思いになる場所です。墓石に刻まれている名前を読むだけで、胸が苦しくなることもある、そんな場所です。愛する人との別れを思い、人生の終わりを思い、虚しい気持ちになってしまうような場所です。「復活なんてあり得ない」というサドカイ人の声が聞こえて来て、「そうだ、もうダメだ。どうせ希望なんてないんだ。新しい世界なんて来ないんだ」と諦めてしまいたくなるような、そんな場所かもしれません。もしくは、「もっと愛してあげられればよかった」「もっと大切にしてあげていればよかった」と、後悔の思いに苛まれるような、そんな場所かもしれません。

 しかし、とっても不思議なことに、私たちクリスチャンは、その「墓」という場所で、賛美を歌うんです。理不尽なこの世界に絶望するのではなく、愛に満ちた新しい世界を待ち望むんです。神を憎んで呪うのではなく、心から神を褒め称えるんです。なぜでしょうか? なぜ私たちには、「墓」というあの悲しい場所で、そんな不思議なことができるのでしょうか? その答えは単純です。復活の希望があるからです。「神は生きている者の神」だからです。だから私たちは今日、あのお墓の前に出かけて行って、寂しい思いを胸に抱きながらも、「もっと愛してあげたかった」という後悔の思いを胸に抱きながらも、それでも喜びを持って、希望を持って、神様を礼拝できるんです。“神だった方”ではなく、“今も神である方”を、心から礼拝できるんです。お祈りをします。


祈り

 父なる神様。私たちは復活の世界を待ち望んでいます。この世界が新しく造り変えられることを心から待ち望んでいます。愛が足りない私たちです。暴力や妬みが絶えないこの世界です。しかし神様、そのような世界にあってもなお、私たちはあなたを褒め称えることができます。私たちには希望があるからです。私たちには喜びがあるからです。神様、今日も、いつまでも、あなたが私の神でいてくださることを、心から感謝いたします。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。