マルコ10:13-16「子どもたちを来させなさい」

2022年11月6日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』10章13-16節


13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
14イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
16そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。



イエス様を心配する弟子たち

 今日は「子ども祝福式」を行うということで、マルコの福音書10章から、イエス様が子どもたちを祝福された時の出来事に目を向けたいと思います。早速ですが、13節をお読みします。


13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。

 イエス様に触れていただこうと、イエス様の祝福をいただこうとして、子どもたちが連れて来られました。誰が連れてきたのかは書かれていませんが、おそらく子どもたちの親たちとか、親でなくても、子どもたちのお世話をしている召使いのような人々が、イエス様のところに子どもを連れて来たのでしょう。「イエス様に触っていただければ、子どもたちは幸せになれる!」と。

 ところが、弟子たちはその大人たちを叱った。「おい、お前たち、子どもなんか勝手に連れて来るんじゃない!イエス様は今、とってもお忙しいんだぞ!」と、追い返そうとしたんです。こんな弟子たちの行動を見ると、私たちはついつい、「弟子たちっていうのは、ひどいやつらだなあ」と思うわけですけれど、どうやら弟子たちのこの行動にも、ちゃんとした理由があったみたいです。

 というのは、マルコの福音書の10章というのは、イエス様がいよいよ、エルサレムに向かって行かれた時期の出来事だからです。エルサレムに向かうということは、堕落した権力者たちに立ち向かうということ、そして、“十字架で殺される”ということですから、この頃のイエス様は、以前よりもますます真剣な、切迫感のあるお話をされることが増えていた。イエス様の表情や言葉遣いもおそらく、以前よりも厳しい雰囲気になることが増えていたのでしょう。そんなイエス様の様子を見ていた弟子たちですから、「イエス様は今、エルサレムでの対決に備えて、とても緊張しておられるから、子どもなんかにかまっている暇はないはずだ」と、イエス様を心配していたのだと思われます。だから弟子たちは、子どもを連れてきた大人たちを叱って、追い返そうとした。


「神の国」が分からない弟子たち

 しかし、イエス様はなんと仰ったか。14節から16節。


14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

 イエス様は憤った、と書いてあります。ここで「憤る」と翻訳されている言葉は、「腹を立てた」とか、「フラストレーションが溜まって、怒りを露わにした」というニュアンスの言葉です。では、イエス様は何に対してフラストレーションが溜まっていたのか。それは、いつまで経っても、弟子たちが分からず屋だからです。「神の国」というのがどういうものなのか、イエス様が何度も何度も教えているのに、弟子たちは相変わらず、「神の国」というものを理解していない。理解してくれない。おそらくイエス様も、弟子たちが自分に気を遣ってくれているということは、分かっておられたでしょう。しかしイエス様にとっては、自分のことを気遣ってもらえることよりも、「神の国」を理解してもらえることのほうが、よっぽどうれしいことだった。自分はもうすぐエルサレムに行って、そこで十字架にかからなければならないというのに、もうあまり時間がないというのに、それでも弟子たちは未だに、「神の国」がどういうものなのか、まったく理解してくれない。

 日本同盟基督教団には「式文」というものがありまして、たとえば結婚式の時にはどこの聖書の言葉を読むのがいいとか、お葬式の時にはどんなお祈りをすると良いとか、そういう文章が書かれているんですが、その「式文」の中に、「子ども祝福式」という項目もありまして、マルコの福音書10章13節から16節を読みましょう、というふうに書かれています。そこで私も、今日はこの聖書箇所から説教をしたほうが良いと思いまして、この一週間準備をしてきました。

 説教準備を始める前、なんとなく私は、「子どもたちをどのように祝福したら良いのか」とか、「イエス様は子どもたちをどのように祝福したのか」とか、そういう説教をすることになるのかなと想像していました。ところが、今日の聖書箇所や前後の文脈を何度も読んでみたり、いろいろな研究者が書いた聖書の注解書を読んだりする中で、「ああ、今日の聖書箇所の最も重要なポイントは、“子どもが祝福される”ということよりも、“弟子たちが叱られる”ということだ」と気づいたんです。もちろん、“子どもが祝福される”ということも、大切なポイントなんですが、その前にまず、イエス様の弟子たち、つまり教会にいる私たちのような大人が、イエス様に叱られなければならない。


「子どもたちを…邪魔してはいけません」

 『不幸にする親』という書籍をご存知でしょうか。ダン・ニューハースというアメリカの心理学者が書いた本で、『毒になる親』という本の“続編”として出版されたものです。この本の中で、“子どもたちの健全な成長を阻む親の特徴”について書かれているので、少しだけ紹介したいと思います。ちなみに私は、子どもたちの成長の責任を負っているのは親だけではなく、周りの大人たちもその責任を共に負うべきだと考えているので、この本の中で「親」と書いてある部分は、「大人」と読み替えておきたいと思います。


「不健康で過剰なコントロールをする大人」とは、子どもの成長をはぐくむためではなく、自分(たち)を喜ばせ、自分(たち)を守り、自分(たち)のためになるように行動する大人をいう。

ダン・ニューハース『不幸にする親:人生を奪われる子ども』玉置悟訳、講談社、2008年、18頁

 ニューハース博士によれば、子どもたちの成長が阻まれる最も大きな原因は、大人たちの「不健康で過剰なコントロール」です。このような「過剰なコントロール」があると、子どもたちは反抗したくても反抗できなくなるほど支配されてしまうか、もしくは暴力的かつ過激な形で反抗をするようになってしまう。しかも、そのような「過剰なコントロール」を受けて育った子どもたちは、大人になってからも、自分で自分のことが決められなかったり、いつも心の中で「これでいいんだろうか」と不安があったり、自分を大切にできなくなってしまったり、自分の子どもに厳しくしすぎてしまったりする。では、どのような大人が、そのような「過剰なコントロール」を行ってしまうのか。ニューハース博士は、そのような大人の特徴を次のように列挙しています。


・完全主義の大人
・極度に過保護の大人
・独裁的な大人
・言動が支離滅裂で、子どもの頭を混乱させる大人
・厳格すぎる大人
・子どもをあざけったり馬鹿にしたりする大人
・権威主義者の大人
・子どもの心を操ろうとする大人
・粗暴な言葉で子どもをののしる大人
・あれこれ細かくかまいすぎて子どもを窒息させる大人

ダン・ニューハース『不幸にする親:人生を奪われる子ども』玉置悟訳、講談社、2008年、18-19頁

 このリストを読みながら私は、「完全主義の大人」という部分にグサッと来る思いがしました。私は別に、「なんでも完璧じゃないと気がすまない!」というタイプの人間ではないんですが、それでもたとえば教会の礼拝プログラムを準備していて、「これは完璧に仕上げたいから、ほかの誰かには任せないようにしよう」とか、「これを子どもたちに任せてしまったら、失敗するんじゃないか」とか、そうやって子どもたちが何かをやろうとしても、「ああ、そんなんじゃダメダメ、もっとこうしなきゃ」と口を出してしまう、そういうところがあるなあと思わされるんです。

 その時、「子どもたちを……邪魔してはいけません」というイエス様の声が聞こえたような気がしました。「ああ、自分は子どもたちの邪魔をしているのかもしれない」と思いました。「もしも私が“完全主義”を貫こうとしていたら、子どもたちはきっと、教会に来るのが嫌になっちゃうだろうなあ。教会っていうのは、完全にやらなきゃいけない場所なんだ、失敗したり、のびのびやったりしちゃいけない場所なんだとか、いつでも緊張してないといけない場所なんだって思わせてしまうかもしれないなあ。もし教会がそんなふうになってしまったら、子どもたちはもしかすると、イエス様のことも嫌いになっちゃうかもしれないなあ」と、反省させられたんです。

 もちろん、「できるだけ完全なものを準備したい」という思い自体は、悪いことではないのかもしれません。「できるだけ完全なものを準備して、イエス様に喜んでいただきたい」と思って、いろいろなことをがんばるのなら、そのこと自体はイエス様に喜ばれることかもしれません。しかし、そうやって完璧な教会を作ろうとするあまりに、「子どもたちはどっかに行っててね」とか、「何もしないで静かにしていてね」なんていうふうに、子どもたちが教会で楽しめる機会や、活躍できる機会を奪ってしまうのだとしたら、弟子たちと同じように、私もイエス様を怒らせてしまうでしょう。イエス様のことを心配して、イエス様のためにやったつもりでいたことが、実際はイエス様の思いに沿わないことになってしまうでしょう。「もっとちゃんとした礼拝を」とか、「もっと質の高いプログラムを」とか、そういうことばかりに気を取られて、子どもたちにとって窮屈な教会を作ってしまう、そんな過ちを犯してしまっていないだろうかと思わされたんです。

 ジョージ・マクドナルドというスコットランドの有名な小説家が、次のような言葉を残しています。


ある人の家のまわりで子供たちが遊び戯れているのを見かけることが決してないなら、その人のキリスト教を信じることはできない

W・バークレー『マルコ福音書  聖書註解シリーズ3』大島良雄訳、ヨルダン社、1968年、290頁。

イエス様は、エルサレムに向かう直前でさえ、死を目前にした緊張の瞬間でさえ、子どもたちを抱き寄せる余裕を忘れませんでした。もしもイエス様が、全く余裕なんてなさそうな、険しい表情をしておられたら、子どもたちもイエス様のもとには近寄らなかったでしょうし、子どもたちの親たちも、そんなイエス様のもとに子どもたちを連れて行こうとは思わなかったでしょう。しかしイエス様は、十字架の死を目前にしたこの時でさえ、「子どもたちを来させなさい」と言って、笑顔で子どもたちを迎える準備ができていた。

 でも正直、「それはイエス様だからできたことであって、自分には到底無理だ」と思います。「イエス様なら、十字架に向かう直前であっても、子どもたちを喜んで迎える心の余裕があったかもしれない。でも、そんなの自分には無理だ」と思います。何かに真剣に取り組めば取り組むほど、子どもたちを蔑ろにしてしまう。仕事や家事や人間関係でクタクタになっている時に、子どもたちに優しく接し続けることは難しい。だから本当は、祝福を受けるべきなのは、私たち大人のほうだと思うんです。「イエス様、もう無理です」と、イエス様の御前にひざまずいて、「どうか祝福してください」とお願いすべきなのは、私たちなんだと思うんです。そしておそらく、「子どものように神の国を受け入れる」というのは、そういうことなんだと思うんです。

 私たちはこの後、「子ども祝福式」を行います。親として、もしくは教会の大人として、子どもたちの祝福を祈る思いを新たにします。しかし、それと同時に私たちは、自分自身がまず、イエス様のような大人になれているだろうか、イエス様の祝福をいただけているだろうか、ということを考えたい。「神の国」がどういうものなのか、未だによく分かっていないかもしれない私たち大人が、まずは自分自身の弱さに気付き、悔い改め、子どもに限らず誰かをコントロールしようとする罪を捨てて、その上で、子どもたちはもちろん、私たち自身ものびのびといられるような教会を作っていく。子どもたちはもちろん、私たち自身もまず、イエス様の祝福をめいっぱい受けられるような社会を作っていく。そうする中で私たちは、イエス様が教えられた「神の国」がどのようなものなのかを、イエス様がもたらしてくださった「神の国」がどれほど幸いなものであるかを、少しずつ理解できるようになるのではないでしょうか。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たち大人は、ついついイライラしてしまったり、余裕がなくなってしまったりして、子どもたちをコントロールしようとしてしまう、そのような罪を持っています。イエス様どうか、私たちに「神の国」を教えてください。いえ、あなたがすでに何度も教えてくださっている「神の国」を、私たちは未だに理解できませんから、どうか、イエス様、子どもたちの上に手を置いてくださったように、私たちの上にも手を置いてくださり、祝福をお与えください。イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。