秋山善久師「主のからだである教会」(Ⅰコリント12:17-27)

2022年11月20日 礼拝メッセージ(秋山善久師)
新約聖書『コリント人への手紙 第一』12章17-27節


17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。

21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
22 それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。

23 また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
24 格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。

26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。


(※本日は仙台のぞみ教会と盛岡みなみ教会の合同礼拝(第3回)でした。主任牧師の秋山善久先生が仙台から来てくださり、説教と聖餐式のご奉仕をしてくださいました。)

盛岡みなみ教会で説教をする秋山先生。Zoomの向こうには仙台のぞみ教会

盛岡みなみ教会の聖餐式。仙台のぞみ教会のみなさんは、Zoomで見守ってくださいました