ヨハネ1:6-9「すべての人を照らす光」

2022年11月27日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』1章6-9節


6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。



“アドベント”と“アドベンチャー”

 今日から「アドベント」が始まります。「アドベント」というのは、クリスマスまでの約4週間の期間のことで、今年は11月27日から12月24日までです。「アドベント」というのは、〈来る〉とか〈到来する〉という意味の言葉です。advent という英語は、ラテン語の adventus に由来していまして、ad というのが「~に向かって」、ven というのが「来る(venīre)」、そして tus というのが過去を表す語尾。ということで、adventus は「~に向かって来たこと」という意味になるそうです。この世界に向かって、私たちがいる場所に向かって、イエス様が来てくださった。救い主が来てくださった。

 「アドベント」と似た言葉で、「アドベンチャー」という英語があります。〈冒険〉という意味の言葉です。この言葉も実は、adventūra というラテン語に由来しているそうです。ad と ven は先ほどと同じ「~に向かって来る」ということで、最後の ūra が未来を表す語尾。つまり、adventūra は「~にこれから向かって来る」というような意味になります。先の見えない未来、まだ何も見えない未来は「これから来るもの」なので、〈冒険〉という意味になるわけですね。

 東京ディズニーシーには、「シンドバットの冒険」というアトラクションがありまして、その中で主人公が繰り返し歌うテーマソングがあります。「人生は冒険だ。地図はないけれど。」という歌詞の曲です。私たちの人生は冒険です。これからやって来るものであり、向かって行かなければならないものです。先は見えません。未来はほとんど分かりません。

 でも、すでに「来た」ものがある。私たちのところに、すでに来てくれたお方がいる。このことをお祝いし、再びその方が来てくださるのを待ち望むのが、「アドベント」の季節です。私たちは人生の地図を持っていないかもしれないけれど、イエス様はすべてを知っていてくださる。私たちの隣で、人生を一緒に歩んでくださる。どこに向かえばいいのか分からない、どこに進めばいいのか分からない、そんな私たちと共に歩むために、天から降って来てくださったお方がいる。


「彼は光ではなかった」

 ヨハネ福音書の1章6節から8節をお読みします。


6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。

 「ヨハネ」と呼ばれる人が現れました。「洗礼者ヨハネ」とか「バプテスマのヨハネ」と言われる人です。彼が現れたのは、「光について証しするため」でした。ちなみに、この福音書の名前も「ヨハネの福音書」ですが、この「ヨハネ」は、「洗礼者ヨハネ」とは別の「ヨハネ」です。

 さて、興味深いのは、8節の「彼は光ではなかった」という言葉です。「彼は光ではなかった。」どうしてこんなことがわざわざ書かれているのでしょうか。それはおそらく、この福音書が書かれた時代に、「ヨハネこそが救い主なのではないか」と考える人々がいたからだろうと思われます。

 しかし、バプテスマのヨハネという人は決して、「私が救い主だ。私こそがメシアだ」などとは言いませんでした。1章19節と20節をお読みします。


1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。ユダヤ人たちが、祭司たちとレビ人たちをエルサレムから遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、
20 ヨハネはためらうことなく告白し、「私はキリストではありません」と明言した。

 ヨハネは「光を証しする」人でした。「私はキリストではありません。私は光ではありません。彼こそが光なのです。」これが、「光を証しする」人の、正しい姿、あるべき姿です。

 心理学の用語で、「メサイア・コンプレックス」とか、「メシア・コンプレックス」という言葉があります。「メシア・コンプレックス」というのは、自分に自信がない人とか、自己肯定感が低い人が、誰かの役に立つことによって自信を得ようとする傾向のことです。誰かに頼られることによって、依存されることによって、自己肯定感を高め、満足感を得ようとしてしまう。自分が誰かの「メシア」になろうとしてしまう。それが「メシア・コンプレックス」という傾向です。

 私自身は、どちらかと言えば「明るい」人間なので、人を楽しませたりすることが好きです。人に頼られたり、感謝されたりすることも好きです。みなさんにもぜひ、どんどん頼ってほしいと思います。何でも相談に乗りますし、みなさんのことをいつも祈っています。しかし、私もまた、一人の人間に過ぎないことを告白しなければなりません。バプテスマのヨハネと同じように、「私はキリストではありません」と告白し続けなければなりません。

 あるクリスチャンの女性の話を聞いたことがあります。その女性は以前は「エホバの証人」という、“カルト”と呼ばれるような宗教にはまっていたのですが、そこから抜け出して、今は普通の、いわゆる正統的なキリスト教会に通っています。その女性が、こんなことを話していました。「偽物のキリスト教は依存させる。でも、本物のキリスト教は自立させてくれる。」

 私は、エホバの証人というのは基本的に、とても素直で良い人たちの集まりだと思っています。普通のキリスト教会よりも真面目で素直で熱心な人が多いかもしれない。しかし、そこには依存がある。コントロールがある。「あなたは私たちの言うことを信じていればいい。他の人たちの言うことなんて聞かなくていい。何も考えず、ただ私たちの教えを信じていればそれで大丈夫」と言って、自分たちに依存させる。人間の教えや、人間のコミュニティに依存させていく。

 それに対して、本物のキリスト教というのは、“自立する人間”を育てるものです。もちろん、「自立」と言っても、コミュニティを無視したり、「キリストのからだ」である教会を無視して、一匹狼で生きていくということではありません。キリスト教が教える「自立」というのは、イエス様と一緒に生きていけるようになる、ということです。イエス様という「光」と共に歩めるようになる、ということです。「○○牧師がいないと生きていけない」とか、「○○教会じゃないと自分はクリスチャンとしてやっていけない」とか、そういうことではなくて、「イエス様がいるから私は生きていける」ということです。教会というのは、そのような「自立」を励ますためにあります。もちろん、お互いの存在自体も励ましです。人間と人間の助け合いももちろん必要です。でも、究極的には、「イエス様がいるから大丈夫」と励まし合うために、教会は存在しているんです。


“十字架”と“まことの光”

 1章の9節をお読みします。


9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

 ときどき夜中にこの辺りを歩くと、いろいろな光が目に入ります。信号機の光や、車のライト、街灯の灯りなど、街の中は様々な光に溢れています。その中でも特に目立つのは、お店の看板の光です。「ここにお店がありますよ!おいしいものや素敵な商品がたくさんありますよ!」とアピールする光です。「あなたを幸せにしてくれるものがたくさんありますよ!さあいらっしゃい!」

 そういう光が悪いものだとは言いません。一生懸命に商売をすることは悪いことではありませんし、私も色々なお店にたくさんお世話になっています。おいしいものを食べたり、好きなものを買ったりすれば、疲れは癒やされ、人生は豊かになります。でも、そういう光は、「まことの光」ではないなあ、とも思わされます。私たちを本当に幸せにする光ではない。

 大学時代にお世話になった教授が、こんなことを言っていたのを思い出します。「ノアさん、夜っていうのは、ダメですよ。夜はダメです。夜に起きていても良いことなんかありません。夜に一人でいても、心が暗くなるだけです。心が虚しくなって、罪を犯すだけです。」

 お店の看板を照らす、明るくて楽しそうな光は、私たちの本当の闇には寄り添ってくれません。夜の寂しさや、眠りにつく時の不安には、寄り添ってくれません。「お買い上げありがとうございました」と言われて、家に帰れば、また暗闇に逆戻りする。パソコンやスマホやテレビの光で寂しさを誤魔化すこともできるけれど、それも一時的な慰めでしかない。「まことの光」ではない。

 お店を出て、家に帰ります。私の場合は、住んでいるのが教会の二階なので、教会に向かって、暗い夜道を歩いて帰ります。すると、教会の屋根に、十字架が光っているのが見えます。そして、その光を見ると、なんだか安心するんです。そこが自分の家だから安心するのかもしれませんが、でもそれだけじゃないな、とも思います。なぜ、十字架の光を見ると、安心するんでしょうか。

 十字架は、商売や損得のために光っているのではありません。十字架の光は、「お客さま」を招いているわけではありません。十字架が招いているのは、お客さまではなく、罪人です。お金ではなく、闇を抱えている罪人です。私が闇の中にいるときも、十字架の光だけは、私を招いている。

 十字架が光るというのは、よく考えるとおかしな話かもしれません。古代ローマの世界では、十字架というのは、最も「気持ち悪い」ものでした。古代のローマ人やギリシャ人たちは、「食事中に十字架の話をしてはいけない」と言うほどに、十字架を忌み嫌っていました。十字架とは、死刑の道具であり、痛めつけ、辱め、人間性を奪うものだからです。「あんな風に殺されるなら、生まれて来ないほうがマシだ」と思わせるための道具だからです。ですから、古代人にとって、「光」という言葉から最もかけ離れたものが「十字架」だったと言っても過言ではないでしょう。

 しかし、その十字架こそが「まことの光」なんだと、私たちは信じているんです。最も気持ちの悪い場所、最も汚れた場所、最も残虐な場所。この世で最も醜く、低い場所。その場所に「光」が来た。「すべての人を照らすまことの光が、世に来ようとしていた。」この光は、どこまで「来ようとして」くださったのか。どこまで低い場所に下り、どこまで惨めになろうとしたのか。

 みなさんが抱えている闇、みなさんが戦っている暗闇は、私には届くことができない場所です。その逆もそうです。冷たく聞こえるかもしれませんが、私が抱えている闇は、みなさんには届くことができない。その場所は醜くて、汚くて、誰にも見せられないような罪が渦巻いている場所だからです。ほかの人間が近づくには、あまりにも深すぎる、あまりにも危険すぎる。でも、たったひとりだけ、その闇を知って、その汚さを知って、足を踏み入れてくださった方がいるんです。

 アドベントが始まりました。私たちに向かって、私たちを目掛けて、「まことの光」が降り始めました。私たちは待ち望みましょう。どんなに暗い場所にいたとしても、どんなに汚れた自分だったとしても、希望を捨てずに待ち望みましょう。この「光」は、どこまでも低く降ってくれる光だからです。この光は、この世界でたった一つの、“十字架の光”だからです。お祈りをします。


祈り

 神様。私たちは光ではありません。誰かを救う光にはなれません。「まことの光」はイエス様だけです。どうか、私たちの心を照らしてください。寂しくて、虚しくて、汚くて、恥ずかしくて、誰にも見せられないような私たちの心の闇を、光で照らしてください。今日から始まるアドベントが、十字架を仰ぎ見る季節となりますように。十字架の光こそが「まことの光」であることを、心から味わう季節となりますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。