ルカ1:46-55「私は主を大きくする」

2022年12月11日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』1章46-55節


46  マリアは言った。

   「私のたましいは主をあがめ、

47  私の霊は私の救い主である神をたたえます。

48  この卑しいはしために

  目を留めてくださったからです。 

  ご覧ください。今から後、どの時代の人々も

  私を幸いな者と呼ぶでしょう。

49  力ある方が、

  私に大きなことをしてくださったからです。

  その御名は聖なるもの、

50  主のあわれみは、代々にわたって

  主を恐れる者に及びます。

51  主はその御腕で力強いわざを行い、

  心の思いの高ぶる者を追い散らされました。

52  権力のある者を王位から引き降ろし、

  低い者を高く引き上げられました。

53  飢えた者を良いもので満ち足らせ、

  富む者を何も持たせずに追い返されました。

54 主はあわれみを忘れずに、

  そのしもべイスラエルを助けてくださいました。

55 私たちの父祖たちに語られたとおり、

  アブラハムとその子孫に対するあわれみを

  いつまでも忘れずに。」



ナザレの小娘

 クリスマスといえば、イエス様の母マリアに注目が集まる季節です。赤ちゃんのイエス様を胸に抱くマリア様。心温まる光景です。みなさんは、“イエスの母マリア”と聞いて、どんなイメージを持つでしょうか? 優しくて美しい女性を想像するでしょうか。光輝く聖なる女性を想像するでしょうか。ヨーロッパの大聖堂に飾られているような、荘厳で優雅な姿を想像するでしょうか。カトリック教会とは違って、私たちプロテスタント教会は、マリアに祈ることはありませんし、マリアをそんなにチヤホヤすることはありません。でもそれでもやっぱり、「イエス様のお母様」と聞けばなんとなく、立派な出で立ちの女性を、尊敬しながら思い浮かべるかもしれません。

 しかし、このマリアという女性は、実際にはどのような人物だったのでしょうか。キリストの母として選ばれた女性とは、一体何者だったのでしょうか。なぜ、他の人ではなく、このマリアという人が選ばれたのでしょうか。今日の聖書箇所は1章の46節から55節までですが、その前にまず、1章26節から29節までをお読みします。


1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。
28 御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
29 しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 ここには、マリアという女性に関して、いくつかの重要な情報が書かれています。まず第一に、マリアは「ナザレという町」に住んでいました。当時の「ナザレ」というのは、多くても数百人しか住んでいない、とても小さな場所でした。「町」というよりも「村」と呼んだほうが正しいような、小さくて貧しい場所でした。ガリラヤという片田舎の中でも、特別に小さな村でした。

 ですから、マリアという女性は少なくとも、私たちがヨーロッパの絵画から想像するような、清潔で小綺麗な服を着た女性ではなかったはずです。むしろ、もっと小汚くて、貧しい服を着ていたはずなんです。もしマリアが、たとえばエルサレムとか、コリントとか、ローマのような都会を歩いていたら、「なんだあの薄汚い田舎娘は」とバカにされる。それがマリアという人でした。

 だからマリアは、天使ガブリエルのことばを聞いて、「ひどく戸惑っ」たんです。「おめでとう、恵まれた方」と言われても、それが自分に向けられた祝福だということにピンと来なかった。「主があなたとともにおられます」なんて言われても、それが自分のための祝福だということが飲み込めなかった。この世界の片隅の、片隅の、さらに片隅に生まれた、貧しくて小汚い、身分の低い自分のような人間が、なぜ「恵まれた方」なのか? なぜ自分のような人間が、天使から「おめでとう」と言われるのか? これはいったい何のあいさつか?

 なぜマリアが選ばれたのか。なぜマリアがキリストの母として選ばれたのか。もしかすると、私たちは勝手にいろんな理由を考えるかもしれません。「マリアが美しい女性だったから選ばれたんじゃないか?」と考えてしまうかもしれない。でも、聖書にはそんなことは書かれていない。

 もしくは、「マリアが婚約していたヨセフがダビデの家系だったから選ばれたんじゃないか?」とか、「マリア自身もダビデの家系だったんじゃないか?」とか、考えるかもしれません。でも、ダビデの家系の人物は他にも大勢いたはずですから、それなら別にマリアでなくてもよかった。

 「それじゃあ、マリアの信仰が特別に強かったから選ばれたんじゃないか?」とも思うかもしれません。たしかに、マリアの信仰は素晴らしかった。ガブリエルのことばに戸惑いながらも、最終的にはその約束を信じたのですから、その信仰は立派でした。でも、マリアが選ばれたのは、信仰が立派だったから、とも書かれてはいない。むしろマリアも最初は疑いました。その信仰も完璧ではなかった。だから、マリアが選ばれた理由は、マリアが信仰深かったからでもない。

 それでは、なぜマリアが選ばれたのか。なぜ神様はマリアを選んだのか。その理由はおそらくただ一つです。その理由とは、マリアには選ばれる理由が何もなかったからです。だからマリアは「恵まれた方」なんです。理由も資格も価値もないから「恵み」なんです。ただ恵みを受けだけ。ただ恵みによる。神の恵みが恵みであるために、何の資格もない、小さな女性が選ばれた。


私は主を大きくする

 少し前置きが長くなってしまいましたが、このことを踏まえつつ、今日の聖書箇所を見ていきたいと思います。1章46節と47節をお読みします。


46  マリアは言った。

   「私のたましいは主をあがめ、

47  私の霊は私の救い主である神をたたえます。

 マリアの賛美は、「私のたましいは主をあがめます!」という言葉で始まります。この言葉は、直訳すると「私のたましいは主を大きくします」となります。「私は主を大きくする」とマリアは歌った。「大きくする」というのは、"メガリーニー" というギリシャ語です。"メガリーニー" の「メガ」は、「メガサイズ」とか「メガバンク」とか「メガトンパンチ」とか、とにかく「大きい」という意味です。「私は主を大きくする!」「主は大きい方だ!」ちなみに、"メガリーニー" というギリシャ語をラテン語にすると、"マニフィカト" となります。バッハが作曲した "マニフィカト" が有名ですね。

 なぜマリアは、「私は主を大きくする」と歌ったのでしょうか。48節から50節まで。


48  この卑しいはしために

   目を留めてくださったからです。 

   ご覧ください。今から後、どの時代の人々も

   私を幸いな者と呼ぶでしょう。

49  力ある方が、

   私に大きなことをしてくださったからです。

   その御名は聖なるもの、

50  主のあわれみは、代々にわたって

   主を恐れる者に及びます。

 「この卑しいはしため」という言葉は、直訳してみると「この身分の低い女奴隷」となります。マリアは自分のことを「女奴隷」と呼びました。奴隷というのは、当時の世界で最も身分の低い存在だったからです。自分には価値なんてない。自分には資格なんてない。身分の低い、卑しい女奴隷でしかない。マリアは、自分の小ささを知っている人でした。小さな村で育った、貧しい小娘。誰にも尊敬されないような、小さく醜い存在。だからこそマリアは、「私は主を大きくする!」と叫んだ。「私は小さいけれど、主は大きい。私には何の力もないけれど、主は力強い。私にできることは、ただ主を大きくすることだけだ。」

 60年前くらいに、森永のチョコレートのCMで、「大きいことはいいことだ」というCMソングが流行ったそうです。「大きいことはいいことだ」というのは、なかなか説得力のある売り文句だと思います。私たちは何でもかんでも「大きいことはいいことだ」と思っているのかもしれない。働く会社はなるべく大きいほうがいい。建てる家はなるべく大きいほうがいい。通う大学はなるべく有名で立派な場所がいい。お金はなるべくたくさん持っていたほうがいい。とりあえず大きければ何とかなる。たくさん持っていればなんとなかなる。小さいことや少ないことは、あまり良くないことだ。小さいと、なんとなく心配だ。小さいと、なんとなく恥ずかしい。

 でも、本当にそうなんでしょうか。大きいほうがいいこともあるかもしれませんけど、むしろ大きくなることによって、いろいろと悪いものが出てくることもあるかもしれない。私たち人間が大きくなったって、必ずしも良い結果になるとは限らない。むしろ、調子に乗ったり、高慢になったり、わがままになったり、他の人を見下したりする。51節から53節をお読みします。


51  主はその御腕で力強いわざを行い、

   心の思いの高ぶる者を追い散らされました。

52  権力のある者を王位から引き降ろし、

   低い者を高く引き上げられました。

53  飢えた者を良いもので満ち足らせ、

   富む者を何も持たせずに追い返されました。

 ちょっと極端な言い方をすると、神様は“大きい人間”があんまりお好きじゃないんです。神様は「高ぶる者」や「富む者」があんまり好きじゃない。もちろん、「お金持ち=悪者」というわけではありませんし、神様はすべての人を愛しておられます。ただ、少なくとも当時の世界では、金持ちとか権力者というのは大抵の場合、貧しい人たちを苦しめていた。“大きな人たち”が“小さな人たち”を苦しめていた。しかし、そういう“大きな人間”よりも、もっと大きな方がいる。もっと偉大な方がいる。このことをマリアは喜んだ。だからマリアは、「私は主を大きくする」と歌った。

 私たちは、小さい自分を不安に思うかもしれません。自分より大きな人や、立派な人や、能力のある人たちを見て、自分の小ささを恥ずかしく思ったり、落ち込んだりするかもしれません。でも、もっと大きな方に目を向けるとき、自分自身の大きさや小ささなんてどうでもよくなる。


小さな群れよ、恐れるな

 54節と55節をお読みします。


54 主はあわれみを忘れずに、

   そのしもべイスラエルを助けてくださいました。

55 私たちの父祖たちに語られたとおり、

   アブラハムとその子孫に対するあわれみを

   いつまでも忘れずに。」

 ここには「イスラエル」とか「アブラハム」が出て来ますが、私たちはこういう言葉が聖書に出てくると、「なーんだ、イスラエルの話か」とか、「なーんだ、またアブラハムの話か」と思って、なんとなく興味を失ったり、自分とは関係のない話のように感じてしまうかもしれません。でも、そこで興味を失ってしまうのはもったいない。ここには大切な真理がある。

 「アブラハム」という人は、今でこそ有名な人でして、ユダヤ教徒からも、イスラム教徒からも、キリスト教徒からも尊敬されています。しかし、アブラハムはもともとは、惨めな失敗者でした。なぜなら、アブラハムには子どもがいなかったからです。当時は、子孫を残せないということは、人生で最も重大な失敗だと思われていました。しかし、アブラハムにはいつまで経っても子どもが生まれなかった。そのまま子孫を残せずに死んでいく、惨めな人生だった。でも、そんなアブラハムに神様が目を留めて、アブラハムを憐れんで、「わたしと契約を結ぼう。わたしと家族になろう」と言ってくださった。そこから、惨めで小さなアブラハムの人生は変わった。

 「イスラエル」というのも同じです。イスラエルというのはもともとは、エジプトで奴隷として働かされていた人々でした。この世で最も惨めな奴隷民族だったんです。では、どうして神様は、イスラエルをご自分の民として選んだのか。世界にはいろいろな民族がいたはずなのに、その中でもなぜ、イスラエルを特別に愛されたのか。申命記の7章7節と8節をお読みします。


7:7 主があなたがた(イスラエル)を慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。
8 しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たち(アブラハムたち)に誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。

 神様は、“小さな人たち”がお好きなんです。何の力も持っていない、何の資格も持っていない、小さくて貧しい人たちを愛しておられるんです。だから私たちは、大きくなろうとしなくていい。小さな自分を見て、恥ずかしく思わなくていい。私たちはただ、「私は主を大きくします」と歌えばいい。むしろ、私たちが小さければ小さいほど、大きな神様が私たちを愛してくださる。

 私たち盛岡みなみ教会は小さな教会です。人も少ないし、お金も少ない。じゃあ、もっと人が増えればそれが成功なのか。もっと大きい教会になれればそれが正しいことなのか。もちろん、一人でも多くの人がイエス様を信じるなら、それは素晴らしいことですし、それで教会の会計に余裕が出てくれば、それも素晴らしいことです。そうすれば私たちも、今よりももっと安心して、心配することなく教会生活を送れるのかもしれない。

 しかし、教会が大きくなれば安心だけど、小さければ不安、ということなのか。人がいっぱいいて、お金がいっぱいあれば、安心して生きられる、ということなのか。そういう風に考えてしまう私たちは、何か大切なものを見落としてはいないだろうか。自分たちが大きいかどうか、自分たちが豊かかどうかということに、人生の平安の理由を見つけようとしていないだろうか。

 イエス様は次のように語られました。ルカの福音書12章32節。


12:32 小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。 

 私たちの教会がこれからどうなっていくのか、私たちには分かりません。これからどんどん大きく成長していくのか、それとも今のように小さいままなのか、そのことは私たちには分かりません。でも確かなことは、はっきりと分かっていることは、私たちは小さくても、神様は大きいということです。だから、恐れることはありません。私たちが小さくても、いや、小さいからこそ、神様が私たちのために、どこまでも大きくなってくださるからです。お祈りをしましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちは小さいです。大きくなろうとがんばりますが、やっぱり小さい存在です。能力も資格もお金もない、小さな存在です。しかし、あなたが大きいから、あなたが大きな方だから、感謝します。小さな者たちをあなたはお好きだから、感謝します。私たちは、自分の小ささを誇りとします。自分の弱さを誇りとします。ただあなただけが大きくされますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。