マルコ5:1-20「どんなに大きなことを」

2023年1月15日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』5章1-20節


1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。
3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。
4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。
5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。
6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。
7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。
8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。
11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。
12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。
13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。

14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。
15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。
16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。
17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。
18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。
19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。
20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。



「汚れた霊につかれた人」

 昨年の5月からマルコの福音書を順番に読み進めていますが、今日はいつもより長めの箇所で、しかもちょっと不気味な雰囲気の箇所です。1節から5節までを改めてお読みします。


1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。
3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。
4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。
5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。

 第1章から第4章までのところでは、イエス様と弟子たちは、“ガリラヤ地方”という場所にいました。“ガリラヤ地方”は、“ユダヤ人の地”です。しかし第5章の今日の箇所では、“ユダヤ人の地”ではなく、「ゲラサ人の地」にやって来た。5章の20節にも書かれていますが、「ゲラサ人の地」というのは、「デカポリス地方」の一部でした。

 「デカ」とか「ポリス」とか言われると、警察官の巨人みたいな変なヒーローか何かを想像してしまいそうですが、「デカポリス」の「デカ」はギリシャ語で「十」という意味、「ポリス」はギリシャ語で「町」です。だいたい10個くらいの町が集まった地方だったので、「デカポリス地方」と呼ばれていて、その中に「ゲラサ」とか「ガダラ」とか「ゲルゲサ」などの町がありました。

 さて、舟を降りたイエス様の前に、「汚れた霊につかれた人」が現れた。かわいそうな人です。鎖で手を縛られても、足かせで足を拘束されても、すぐに壊してしまう。夜も昼もたった一人で、墓場や山で叫び続けている。しかも、石を使って自分で自分を傷つけている。今の時代の観点から言えば、精神病を患っているようにも見えますが、単なる精神病とは違うような感じもします。

 この頃の「墓場」というのは、洞窟みたいな穴がたくさん空いているような場所だったので、どこにも行くあてのない人間が、雨風をしのぐことのできる場所でもありました。町から離れて独りで住み、家族からも見放されている。何を食べて生きているのかも分からない。ただただ、死の象徴でもある不気味な墓場で、自分のからだを傷つけていた。


「私の名はレギオンです」

 そんな人が、イエス様のところにやって来ました。6節から10節。


6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。
7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」
8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。

 「レギオン」というのは、ローマ軍の部隊の名前です。「第一レギオン」「第二レギオン」という感じで、ローマ軍にはいくつかの軍隊がありましたが、デカポリス地方を支配していたのはおそらく、「第十レギオン」でした。この画像に写っているのは、第十レギオンのものと思われる紋章です。

 さらにこの画像から分かることは、第十レギオンのシンボルマークが“船”と“豚”だったことです。彼らは、海での戦いを得意とする部隊で、豚や猪のような力強さを誇りとしていました。当時のデカポリス地方やユダヤ地方は、この「第十レギオン」によって支配されていた。

 悪霊につかれていた人は、「私の名はレギオンです」と答えました。なぜ彼は、自分の名前を、もしくは悪霊の名前を「レギオン」と呼んだのでしょうか? おそらく彼の人生が、レギオンによってめちゃめちゃにされたからでしょう。ローマ軍の暴力によって彼は蹂躙され、傷つけられ、生活も精神も崩壊した。そして、彼のその傷につけこんで、悪霊たちが彼の中に入り込んできた。

 人から受けた暴力が、自分の中の悪霊となる、ということがあります。人から受ける暴力と、自分から出てくる暴力。この二つは切り離せません。リストカットなどの自傷行為は、いじめやレイプなど他者から受けた暴力に由来することがあります。最初は加害者から受けた傷だったのに、いつのまにか自分で自分を傷つけている。「お前なんか死んでしまえ」という言葉が、「自分なんか死んでしまえばいいのに」という自分自身の言葉に変わってしまう。「レギオン」の暴力によってボロボロにされた彼の人生は、今や彼自身の「レギオン」によって支配されていました。

 そんなとき、一人のユダヤ人が湖を渡って来た。そして、「汚れた霊よ、この人から出て行け」とお語りになった。自分ではもうどうしようもなかった悪霊が、この人の声を聞いた途端に震え上がっている。怯えている。命乞いをしている。この人は一体何者だ?


「豚の中に送ってください」

 11節から13節をお読みします。


11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。
12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」
13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。

 私はこの聖書箇所を読む度に、「豚たちがかわいそう…」とか「豚肉がもったいない…」と思うのですが、イエス様は豚の命以上に、この人のいのちを救うことを望んでおられたのでしょう。キリスト教は基本的には動物を大切にする宗教ですが、それ以上に人間のいのちを優先します。

 どうして悪霊たちは、「豚の中に送ってください」なんてことを願ったのでしょうか? おそらくそれは、彼らが持っている「何かを痛めつけたい、何かを滅ぼしたい」という暴力的な衝動を、豚によって発散するためだったと思われます。恐ろしい衝動です。

 それではなぜ、イエス様は「それを許された」のでしょうか? これも推測ですが、悪霊たちの暴力的な力、人間を滅ぼそうとする力を消耗させ、使い果たさせるためだったと思われます。一人の人を救うために、イエス様は悪霊たちを豚の群れの中に送り、その力を使い果たさせた。

 さきほど、「第十レギオン」のシンボルマークは“船”と“豚”で、海で戦うのが得意な軍隊だった、というお話をしました。このことを考えると、“豚が湖で溺れる”という出来事は、“レギオンの力が滅ぼされた”ということの証拠ともなったはずです。この出来事が起こらなかったら、この人はいつまで経っても、自分が解放されているということを信じられなかったかもしれません。

 とはいえ、豚たちが湖で死んだ時に、悪霊たちも一緒に滅んだというわけではないでしょう。一度はその力を使い果たしたとしても、再び力を取り戻して人間を滅ぼそうとするかもしれない。では、いつになったらイエス様は、悪霊たちを完全に滅ぼしてくださるのでしょうか? 悪霊たちの力が完全に使い果たされ、彼らが完全に滅ぼされるのは一体いつなのでしょうか?

 その答えこそが、イエス様の十字架です。イエス様は十字架に架かって殺されることによって、この世界のあらゆる暴力、あらゆる罪、あらゆる悪霊の力を、ご自分に集中させてくださった。私たちを傷つける様々な暴力や、私たち自身から出てくる暴力も含めて、イエス様はこの世界の全ての罪を受け止めて、全ての暴力をその身体に背負って、十字架にかかってくださった。

 イエス様が死んだ時、人々はこう思いました。「結局、暴力が勝つんだ。結局、悪霊たちの力が勝つんだ。この世界を支配しているのは、神ではなく悪魔なんだ」と、全ての人が思いました。しかし、実際に勝利したのは、暴力ではなく、悪魔ではなく、イエス様だった。それが、復活という奇跡が明らかにしたことです。この世界の全ての悪は、十字架の上で滅ぼされ、敗北する。十字架は、神の支配が悪魔の支配に勝利したことの証拠です。だから私たちは、十字架を見つめる時に、「もはや自分は悪魔に支配されていない」ということを、繰り返し確認できるんです。

 もちろん、今もまだこの世界には罪がありますし、私たちの中にも罪があります。悪霊たちの力も残っています。しかし、イエス様はすでに勝利してくださったから、もう私たちは恐れる必要がない。これがキリスト教の福音です。


「どんなに大きなことを」

 14節から17節をお読みします。


14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。
15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。
16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。
17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。

 ゲラサ人たちはイエス様に、「この地方から出て行ってほしいと懇願した。」どうして彼らは、「イエス様、すごい!これからも私たちと一緒にいて、私たちを悪霊から守ってください!」とは言わずに、「出て行ってほしい」なんてことを言ったのでしょうか?

 それはおそらく、自分たちの平穏な生活を邪魔されたくなかったからだと思われます。もしかすると彼らは、「これ以上豚が死んだら困る」と考えたのかもしれません。もしかすると、「あの人は悪霊につかれてかわいそうだ」と言いつつ、心のどこかで、「あの人から悪霊が追い出されたら、今度は自分たちの番かもしれない」と思っていたのかもしれません。とにかく彼らは、一人の人が救われたことを喜ぶよりも、自分たちの“今まで通りの生活”を守ることを優先した。人間って身勝手だなと思わされますし、自分の中にこういう罪はないだろうかとも思わされます。

 最後の部分をお読みします。18節から20節。


18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。
19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」
20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

 イエス様は再び舟に乗り、ガリラヤ地方に戻ろうとします。「この地方から出て行ってほしい」という人々の身勝手な願いどおりに、デカポリス地方を離れようとされたのでしょう。一方イエス様は、悪霊につかれていた人の、「お供させてほしい」という願いについては聞いてくださいませんでした。そしてイエス様はこう仰った。「あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」この言葉は、こう言い換えることができるかもしれません。「わたしはこの地方を去ってガリラヤに戻るから、あなたがこの地方にとどまって、わたしの代わりに福音を伝えなさい。」

 この人はもしかしたら、自分の家族のもとには戻りたくなかったかもしれません。散々迷惑をかけた家族。散々恥ずかしい姿を見せてしまった家族に、もう顔向けできない。だから、自分の家族のところに戻るよりも、イエス様と一緒にガリラヤに行ってしまうほうが気が楽だ、と。

 私たちも、こうして教会に来ると、家族のもとに戻るより、教会にいたほうが幸せだ、学校なんて行きたくない、仕事なんて行きたくない、ずっとイエス様の近くにいるほうがいい、と思うことがあるかもしれません。でも、イエス様は私たちに、「あなたの家族のところに帰りなさい」と語られることがある。イエス様は、「わたしについて来なさい」と仰ることもあれば、「ダメだ、帰りなさい」と仰ることもある。「ずっと教会にいないで、家族や友人のところに帰りなさい。あなたのいるべきところに帰って、福音を伝えなさい。」

 そう言われると私たちは、「いやいやイエス様、家族や友達に福音を伝えるなんて無理ですよ。キリスト教の話なんて興味を持ってもらえないでしょうし、今さらそんな話をするのは恥ずかしいですし、家族や友達から変な人だと思われたら嫌ですし、上手に説明できる自信もないですし、家族や友達は私のダメなところもいろいろ知ってますから、私が福音を伝えようとしても、そもそも説得力がないですよ。『お前が言うな』って言われちゃいますよ」と思ってしまったりもする。

 たしかに、周りの人に福音を伝えることは難しいですし、納得してもらうのはもっと難しいかもしれません。「上手に説明できない。そもそも自分でもまだちゃんと分かってない…」と思うかもしれません。しかしイエス様は、「キリスト教の教えをきちんと説明しなさい」と仰ったわけではありません。「理路整然と話して相手を納得させなさい」と言われたのでもない。イエス様が言われたのは、「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか……を知らせなさい。」

 キリスト教について上手に説明することも大切です。でも、それ以上に大切なことは、“イエス様は私に何をしてくださったのか”ということです。“イエス様を信じた私には何が起こったのか”ということです。私たちの家族や友人は、私たちのダメな部分もよく知っている。でも、それでも私たちは、「イエス様のおかげで私は変わったんだ」と語ることができる。「今もダメダメなところがいっぱいあるかもしれないけれど、人を傷つけたり、自分を傷つけたりしてしまうことがあるかもしれないけれど、でもやっぱり、イエス様のおかげで、前よりも人を愛せるようになった。前よりも自分を赦せるようになった。希望を持つことができるようになった。まだまだ立派な人間じゃないけれど、それでもイエス様はたしかに、私のために大きなことをしてくださった。イエス様の十字架は、たしかに私の中の罪を滅ぼしてくださったんだ」と、語ることができるはずです。たとえそう語ることができないとしても、私たちの生き様を見て、私たちが少しずつ変えられていく姿を見て、周りの人たちに伝わるものがあるはずです。

 今週も私たちは、この礼拝を終えて、この教会を出て、それぞれの場所に遣わされていきます。「いってらっしゃい。その場所はおまえに任せたよ」と言われたからです。十字架の福音を委ねられたからです。悪霊たちはもう、私たちを支配できないからです。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」お祈りをしましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。この世界は、人を傷つけたり、自分を傷つけたりする、暴力的な悪魔の力で満ちています。しかし、そのすべての暴力を、罪の支配を、イエス様の十字架が滅ぼしてくださったことを覚えて、あなたの御名をあがめます。私たちの周りには、この十字架の救いを知らずに、自分を傷つけ、他人を傷つけ、滅び行く人々がたくさんいます。どうかそのような人々に、福音を伝えることができますように。傷だらけだった私に、主がどんなに大きなことをしてくださったかを、知らせることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。