マルコ5:21-24, 35-43「少女よ、起きなさい」

2023年1月29日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』5章21-24節, 35-43節


21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

……35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」
36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。
41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。



「娘が死にかけています」

 先週は25節から34節までだったので、今週はその部分を読み飛ばしました。先週の箇所が今週の箇所に挟まれている、というわけです。まずは、21節から24節までをお読みします。


21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、
23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

 「会堂司」というのは、ユダヤ教の会堂の管理人のことです。会堂の建物の維持管理をしたり、礼拝での聖書の朗読箇所を決めたり、礼拝の司式をしたりする人たちでした。そんな「会堂司の一人でヤイロという人」が、イエス様の「足もとにひれ伏し」、そして、イエス様の助けを求めた。「私の小さい娘が死にかけています。」

 42節を見てみると、ヤイロの娘は「十二歳」だったことが分かります。当時の世界では、産まれる前に死んでしまう赤ちゃんは今よりもたくさんいましたし、無事に生まれて来れたとしても、半分以上の子どもが10代で亡くなってしまいました。ですから、十二歳まで育って来れたこと、死なずに生き続けてくれたことは、父親であるヤイロにとっては本当に感謝なことだったんです。それなのに、そんな大切な大切な娘が、「私の小さい娘」が、今にも死にそうになっている。

 イエス様は、ヤイロの願いを聞いて出発しました。ところが、ヤイロの家に向かう道の途中で、イエス様が突然立ち止まってしまいます。イエス様は、後ろを振り向いて、「だれがわたしの衣にさわったのですか」と仰る。この時の出来事については、先週の礼拝でお話しした通りです。イエス様は、一人の女性を救うために、一人の女性の家族となるために、立ち止まってくださった。

 でも、ヤイロからしてみれば、「イエス様、早くしてください!なんで立ち止まるんですか!」と言いたくなったでしょう。「私の娘は今にも死にそうなんです!」と叫びたくなったでしょう。「急いで助けに来てください!じゃないと間に合わない!」このように焦ってしまう気持ちは、私たちの中にもあるかもしれません。「イエス様、早く私の祈りを聞いてください!間に合わなくなる前に!」しかし、私たちが焦っているとしても、イエス様が焦っているとは限らないんです。私たちが急ぎたくなったとしても、イエス様が急いでおられるとは限らない。イエス様は、私たちが良いと思うタイミングではなく、イエス様ご自身が良いと思うタイミングで働かれるからです。


「お嬢さんは亡くなりました」

 35節をお読みします。


35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」

 ヤイロの不安と焦りは現実のものとなってしまいました。イエス様が立ち止まっている間に、「お嬢さんは亡くなりました」という連絡が入った。「死にかけて」いたときなら、まだ間に合ったかもしれない。でも、「お嬢さんは亡くなりました。間に合いませんでした。もう終わりです。」

 もうすべてが手遅れだと判断したとき、人々の口から出てきたのは、“諦めの良い言葉”でした。「これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」私たちの中にも、こういう“諦めの良い言葉”があるかもしれません。まだ希望が持てるような状況なら、イエス様に必死でお祈りをします。「イエス様、助けてください。この病気を治してください。あの問題を解決してください……。」でも、もう手遅れだと思ったら、もう無理だと思ったら、それ以上は祈らないで、“諦めの良さ”を発揮する。「これ以上お祈りしたって、ご迷惑をおかけするだけだ」と。しかし、36節。


36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 「そばで聞き」と訳されているギリシャ語は、“会話の中に入っていない人が会話を聞く”という意味の言葉です。ヤイロたちの会話の中に、イエス様は入っていなかった。ヤイロたちは、イエス様を抜きにして、自分たちだけで、「お嬢さんは亡くなりました」とか、「間に合いませんでした」とか、「これ以上、イエス様の邪魔をしないようにしましょう」などと話し合っていたわけです。

 私たちも、イエス様を抜きにして、人間同士の会話だけで完結させてしまうことがあるかもしれません。「あのことはどうしよう。この問題についてはどうしよう。こういう方法があるかもしれない。いや、それじゃダメだ。これもダメだ。ああ、もう無理だ」と、人間同士で相談をする。友達に相談することもあれば、夫婦や家族で話し合いをすることもあるでしょう。

 もしくは、夜眠る時に、布団の中で考え事をすることもある。「ああ、あの仕事がまだ終わっていない」とか、「どうしよう、お金が足りない」と、独り言のように悶々と思い悩む。もちろん、そうやって独りで悩んでいる中で、前向きな方向に進めることもあるかもしれません。しかし大抵の場合は、ああだこうだと独りで悩んでいると、だんだん暗い気持ちになっていく。諦めモードになっていく。「ああ、もう無理だ。もうダメだ。もう疲れた。」

 しかし、そんな私たちの言葉を、イエス様は「そばで聞いて」おられるんです。私たちがイエス様を蚊帳の外に置いて、人間だけで話し合って、悩んで、諦めていくときにも、イエス様はそばにいてくださって、「大丈夫だよ。恐れないで、ただ信じていなさい」と言ってくださる。

 実は、「そばで聞き」と訳されているギリシャ語には、「無視をする」とか、「聞き流す」という意味もあるんです。私たちが使っている日本語訳では、「そばで聞き」と訳していますが、脚注に書かれている別訳では、「無視して」となっています。「そばで聞く」なのか、「無視する」なのか。マルコがどちらの意味でこの言葉を使ったのかは、学者たちの間でも意見が分かれています。

 ただ、どちらの訳でもそんなに意味は変わらないかもしれません。イエス様が彼らの会話を「そばで聞いて」いたことは確かですし、諦めに満ちた彼らの会話を「無視した」ことも確かだからです。イエス様は、人間たちの諦めに満ちた話し合いを「そばで聞いて」くださり、そして、「無視して」くださる。「おまえたちが失望したのは分かる。諦めたくなる気持ちも分かる。でも、恐れないで、ただ信じていなさい」と言って、ヤイロの家へと再び歩き始めてくださる。「おまえたちが諦めるなら、わたしだって助けてあげないよ」と突き放したりはしないで、「おまえが諦めても、わたしはおまえの家に行くつもりだよ」と言ってくださる。

 『SLAM DUNK』というバスケットボールの漫画に、「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という名台詞が出て来ます。私も昔から大好きな漫画なので、この言葉は小さい頃からよく覚えています。たしかに、スポーツだったら、「あきらめたらそこで試合終了」かもしれません。でも、イエス様を信じる生き方というのは、「あきらめたら終わり」ではないんです。たとえ私たちが「あきらめた」としても、イエス様は私たちの「あきらめ」を知った上で、無視をしてくださる。たとえ私たちの信仰が無くなってしまっても、たとえ私たちが祈れなくなってしまったとしても、イエス様は私たちの“独り言”を聞いておられて、「大丈夫。信じていなさい」と言ってくださる。


「少女よ……起きなさい」

 37節から40節をお読みします。


37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。
38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、
39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。

 「死んだのではありません。眠っているのです。」イエス様のこの言葉を聞いて、「人々はイエスをあざ笑った。」私たちクリスチャンは、イエス様をあざ笑ったり、バカにするようなことはしないと思います。でも、はっきり口には出さないとしても、心のどこかでは、イエス様をバカにしたり、あざ笑うような思いがあるかもしれない。イエス様が「恐れないで、ただ信じていなさい」と言っても、「いやいや、さすがにこの状況はイエス様でももう無理でしょ」と、あざ笑う。

 しかしイエス様は、そんな人々の笑い声をも無視して、私たちの笑い声をも無視して、ヤイロの娘が横たわっている場所に行かれるんです。たとえ人間たちに笑われても、イエス様はご自分の計画を変えようとはなさらない。そして、41節から43節。


41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。
42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。
43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。

 「タリタ、クム」というのは、アラム語の日常語です。「少女よ、起きなさい」という意味です。「アブラカタブラ」みたいな“呪文”ではありません。「朝だよ、そろそろ起きなさい」みたいな、至って普通の、日常的な言葉なんです。イエス様は、まるでいつもの日常が始まるように、普通の毎日が始まるように、「ほら、起きなさい」と言って、死んでいた少女をよみがえらせた。そして、「少女に食べ物を与えるように言われた。」ほら、朝ごはんの時間だよ、とでも言うかのように。

 多くの人にとって、“死”は全ての終わりです。真っ暗な夜のようなものです。死んでしまえば、もう二度と起き上がることはできません。でも、もし私たちが死んで、自分の力では起き上がれなくなったとしても、死の暗闇の中に飲み込まれたとしても、イエス様が手を取ってくれるなら、「起きる時間だよ」と声をかけてくださるなら、私たちはもう一度起き上がることができる。

 また、私たちが生きている間にも、「どうしても起き上がれない」という日はあると思います。体調を崩して寝込むこともあれば、気持ちが落ち込んで、布団から出られないこともあります。「学校に行かないと」「仕事に行かないと」「家事をしないと」と思っても、どうしても起き上がることができない。しかし、そんな私たちの手を、イエス様が取ってくださる。もちろん、休むべき時には、イエス様は私たちを休ませてくれます。「もうしばらく休んでいなさい」と、語りかけてくださいます。しかし、起き上がるべき時が来たなら、イエス様は私たちの手を優しく取って、「朝だよ。さあ、ごはんを食べなさい」と言ってくださる。

 自分の力ではもう起き上がれない。信仰を奮い立たせる気力も無い。お祈りする元気も無い。でも、大丈夫です。たとえ信仰が弱ってしまっても、たとえ祈れなくなったとしても、それでも、「恐れないで」と言ってくださるお方がいるからです。自分の力で起き上がる必要はありません。ただ、イエス様に手を取っていただきましょう。“起き上がれない自分”にではなく、“起き上がらせてくださる方”に目を向けましょう。お祈りします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちは、イエス様を抜きにして自分たちだけで話し合いを進めたり、独りで勝手に思い悩んで失望してしまうことがあります。しかしあなたは、そんな私たちの諦めの言葉をそばで聞いていてくださり、さらにはその諦めの言葉をも無視して、ただあなたの恵みによって、私たちを助け出してくださいます。どうか主よ、自分ではもう立ち上がることのできない私たちに、「起きなさい」と語りかけてください。自分ではもう動かせなくなってしまった私たちの手を取って、優しく引き上げてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。