マルコ6:1-6a「この人は大工ではないか」

2023年2月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』6章1-6節前半


1 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
2 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
3 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
5 それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。
6a イエスは彼らの不信仰に驚かれた。



「この人は大工ではないか」

 早速ですが、まずは1節と2節を改めてお読みします。


1 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。2 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。

 イエス様の「郷里」というのはどこのことでしょうか? 分かる方は手を挙げてみてください。はい、ナザレのことです。イエス様が生まれた場所はベツレヘムでしたが、育った場所はナザレです。ナザレというのは、小さくて貧しい村でした。人口は数十人くらいしかいなかったかもしれない、本当に貧しい村です。

 そんなナザレの人々は、イエス様が語る教え、イエス様が行う奇跡に驚いていました。どうしてナザレの人々は驚いたのでしょうか? それは、イエス様が、彼らと同じ“普通の人間”だったからです。“貧しい村人” だったからです。ヨハネの福音書1章45節と46節をお読みします。


1:45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
46a ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」

 ナザレから何か良いものが出るだろうか。」これこそが、ナザレの人々の“つまずき”でした。「まさか、おれたちの村から、ナザレみたいな貧しい村から、救い主が出て来るはずがない…。」「まさか、おれたちが昔からよーく知ってるあの大工が、神の子キリストであるはずがない…。」

 マルコの福音書に戻って、6章3節をお読みします。


3 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

 当時の「大工」というのは、家の建物はもちろん、家具とか、農業の道具とか、生活に関わる色々な物を作る職人でした。ナザレの人々からすれば、イエスという人間は、ただの職人さん。「おれの家はあいつに建ててもらったんだ。」「うちの屋根を直してくれたのもこの人だよ。」「あいつの母ちゃんだって、あいつの弟たちだって、みんなおれたちの村で暮らしてるじゃないか。」「あいつの妹たちだって、おれたちの家にお嫁さんに来てるじゃないか。」

 彼らにとっては、イエスという大工の男は、“村の仲間”でしかなかったんです。自分たちと同じ、“貧しい村人”でしかなかったんです。そんな“貧しい村人”が、“普通の人間”が、素晴らしい教えを語っている。力強い奇跡を行なっている。「時が満ち、神の国が近づいた」と力強く語っている。「悔い改めて福音を信じなさい」と、権威を持って語っている。これは一体どういうことだ?

 4節から6節前半までをお読みします。


4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」5 それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。6a イエスは彼らの不信仰に驚かれた。

 ナザレの人々は、イエス様の教えを否定したわけでもないし、イエス様の奇跡を否定したわけでもありませんでした。むしろ彼らは、イエス様の知恵や奇跡の素晴らしさを認めたからこそ、驚いていたんです。彼らの「不信仰」というのは、イエス様の教えや奇跡そのものを否定することではなかった。ただ彼らが信じられなかったのは、そのような素晴らしい預言者が、自分たちのような貧しい村の仲間から生まれる、ということでした。

 彼らにとって、“救い主メシア”というのは、エルサレムの宮殿みたいな立派なところで生まれるはずなんです。どこか手の届かないような存在であるはずなんです。「まさか、神の国をもたらす偉大な預言者が、こんなちっぽけな農村から出て来るだって? 冗談はよしてくれよ。」彼らは、イエス様の“貧しさ”につまずいたんです。彼らは、もっと華やかな救い主を待ち望んでいたから。


「十字架につけられたキリスト」

 この“つまずき”については、使徒パウロも次のように語っています。コリント人への手紙第一、1章23節から25節をお読みします。


1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、
24 ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 「十字架につけられたキリスト」。十字架刑という最もむごたらしい処刑方法で、犯罪者として殺された人こそが、キリストである。これは、パウロの時代のユダヤ人やギリシア人にとって、最大の「つまずき」でした。誰よりも力強い存在であるはずのキリストが、十字架で殺されてしまうわけがないじゃないか。犯罪者として殺されてしまうわけがないじゃないか。十字架で殺されてしまうような惨めな奴が、私たちが待ち望んでいた救い主であるはずがないじゃないか。」

 みなさんはどう思うでしょうか? 小さな村で大工をしていただけの貧しい男。それどころか、犯罪者として捕らえられ、十字架に架けられ、血を流して死んでいった男。なんて惨めな人間だ。まさかこんな人間がキリストであるはずがないと、みなさんは思いませんか? もっと華やかで、力強くて、立派な身分の救い主のほうが信じやすいとは思わないでしょうか?

 しかし、パウロにとっては、この「十字架につけられたキリスト」こそが、真の救い主でした。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」。イエス様は私たちのために、愚か者になってくださった。どこまでも弱くなってくださった。この愚かさこそが、この弱さこそが、彼が真の救い主であることの証拠なのだ。パウロは続けて、次のように語ります。26節と27節。


26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。

 みなさんは、自分は「知者」だと思いますか?「力ある者」「身分の高い者」だと思いますか? もちろん、世界中のクリスチャンの中には、博士号を取るような賢い人たちもいますし、社長や政治家になるような人たちもいます。もちろん、それ自体は素晴らしいことです。

 しかし、クリスチャンであれば根本的に、社会的身分の高い人であっても「愚かな者」であり、「弱い者」であるはずなんです。なぜなら、クリスチャンが信じるのは、「十字架につけられたキリスト」だからです。「この人はただの大工ではないか」と言われてしまうような、身分の低い人。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われてしまうような、貧しい人。この人についていくのが、クリスチャンだからです。博士であっても、社長であっても、政治家であっても、「十字架につけられたキリスト」に従い、自らも十字架を背負って歩んでいくのがクリスチャンです。


“God must love the common people, because......”

 この世界には、華やかでキラキラした“救い主”もいます。旧“統一教会”の教祖だってそうです。華やかで、お金持ちで、いかにも成功者っぽい救い主のほうが、説得力があるかもしれません。もしくは、立派で大きい教会のほうが説得力があると思う人もいるかもしれません。社会的身分の高い人が集まっているエリート集団。お金持ちがいっぱいいて、経済的にもいつも潤っている。華やかさに満ちている。そういう教会のほうが説得力があると思う人もいるかもしれません。

 もしかしたら、これまで盛岡みなみ教会に来た人たちの中には、「あれ、教会ってこんなに普通の人たちばっかりなの?」と驚いて、そのまま教会に来るのを止めてしまった人もいるかもしれません。「もっとビシッとスーツを着た、かっこいい人たちが集まってると思ってた」みたいな。そういう人は、私たちにつまずいているわけです。私たちがあまりにも“普通の人たち”だから、ここで教えられているのが本物の宗教だとは思えない、と。

 小学生や中学生のみんなにもぜひ聞いてみたい。みんなのお父さんやお母さん、もしくは教会の大人たちは、みんなにはどんな風に見えているでしょうか? もしかしたらみんなは、「教会の人たちは、めちゃめちゃ素晴らしい人たちだ!」とは思っていないかもしれません。むしろ、「普通の人たちだなあ」と思っているかもしれません。教会の大人たちがあまりにも普通の人すぎて、「この人たちが信じている宗教が本当に本物なの?」と思うこともあるかもしれません。

 YouTubeを見ていると、「年収1000万円を達成するための方法」みたいな動画がたくさん出てきますし、「年収800万円以上の人は勝ち組」みたいな動画も出てきます。そういう基準からすれば、僕たち教会の大人たちは、“勝ち組”ではないわけです。そうするとみんなは、「イエス様を信じているのに、どうしてクリスチャンはもっと人生に成功しないんだろう?」と思うかもしれない。もしくは、礼拝の後の会計報告を見ていて、「教会の会計はこのままだと赤字になります」みたいな話を聞くと、「どうしてイエス様を信じているのに、教会はこんなに貧しいんだろう?」と思うかもしれない。

 でも、みんなにお願いしたいことは、僕たち教会の大人がどんなに普通の人間だからって、そのせいでイエス様を信じなくならないでほしい、ということです。世の中の基準からすれば、僕たちは“勝ち組”じゃないのかもしれない。“成功者”じゃないのかもしれない。でも、それを理由にイエス様を信じなくならないでほしい、ということです。もしみんなが、そういう理由でイエス様を信じなくなるなら、それはナザレの人たちと同じ「不信仰」だからです。本質が見えていない人の「つまずき」だからです。みんなには、本当に大切なことを見極められる人になってほしい。

 英語の格言で、“God must love the common people, because he made so many of them.” という名言があります。アブラハム・リンカーンが語ったとされる言葉です。「神は普通の人々を愛しておられるに違いない。なぜなら、神は彼らをたくさん造られたのだから」という意味です。リンカーン自身も、最終的には大統領になりましたが、元々は貧しい家の出身でした。

 この言葉はこのままでも素晴らしい言葉だと思いますが、こういう風に言い換えても良いのではないかと思います。“God must love the common people, because he became one of them.” 英語はあまり得意ではないので、正しい表現か分かりませんが、こういう意味です。「神は普通の人々を愛しておられるに違いない。なぜなら、神は彼らのうちの一人となられたのだから。」私たちは、自分が“普通の人”であることを、もっと喜びたいと思います。なぜなら、私たちの救い主は、「この人は大工ではないか」と言われるような、“普通の人”となってくださったからです。ご一緒にお祈りしましょう。


祈り

 私たちの父なる神様。ナザレの人々は、イエス様の教えや奇跡に驚きながらも、彼があまりに普通の人間であることにつまずいてしまいました。私たちももしかすると、そのような“つまずき”や“不信仰”に陥ることがあるかもしれません。また、私たち自身があまりに普通の人間であることに、失望してしまうこともあるかもしれません。しかし、イエス様が私たちのうちの一人となってくださったことを、私たちは“つまずき”としてではなく、“喜び”として受け取ります。これからも普通の人として、イエス様に従わせてください。イエス様の御名で祈ります。アーメン。