マルコ6:45-56「パンのことを理解せず」

2023年3月5日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』6章45-56節


45 それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。
46 そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。
47 夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。
48 イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。
49 しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
50 みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
51 そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。
52 彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。

53 それから、彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
54 彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。
55 そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。
56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。



「うわあ、お化けだあ!」

 今日の聖書箇所は、コメディのような、コントのような箇所かもしれません。まず、49節から52節までを改めてお読みします。


49 しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
50 みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
51 そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。
52 彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。

 〈イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。〉読んでいて、思わずくすっと笑ってしまうような場面です。しかし、そんなお笑いのような場面であると同時に、とても鋭いことを語っている場面でもあると思います。

 〈彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていた〉。〈パンのこと〉というのは、先週の聖書箇所のことです。五千人を超える人々がお腹を空かせていたのに、イエス様はたった五つのパンと二匹の魚だけを用いて、すべての人のお腹を満たした。イエス様にはどんなことでもできる。イエス様に不可能はない。このことを弟子たちは知っていたはずなのに、そのイエス様が湖の上を歩いているのを見ると、「うわあ、お化けだあ!」と驚く。

 私たちクリスチャンも、毎週教会に通って、聖書のみことばを聞きます。イエス様のお話を聞きます。しかし、どれだけイエス様のことを聞いても、〈その心が頑なになっていた〉ということがあるかもしれません。「あの人は立派なクリスチャンだ」と思われていても、実は自分自身では、自分の信仰の弱さを知っている。聖書を詳しく知っているようで、実は本当には分かっていない。イエス様の奇跡を何度も目にしているはずなのに、実はまだ〈パンのこと〉を理解していない。

 むしろ、いつもイエス様と一緒にいた弟子たちよりも、いつもイエス様と一緒にいるわけではなかった群衆たちのほうが、よっぽどイエス様を信じ切っているんですね。53節から56節。


53 それから、彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
54 彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。
55 そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。
56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

 弟子たちの不信仰に比べると、群衆たちの信仰は驚くほど素直です。「イエス様になら何だってできる」と、人々は信じ切っているんです。マルコの福音書にはこういう“皮肉”がたくさん出てきます。群衆たちは、イエス様を素直に信じている。じゃあ、いつもイエス様と一緒にいる弟子たちは、もっともっと強い信仰を持っているかと言えば、意外とそんなこともない。何度もイエス様の奇跡を見て、「おれ様はいつもイエス様と一緒にいるんだぞ」と威張っているような弟子たちこそ、意外にもイエス様のことが分かっていない。これが、マルコが描き出す“皮肉”です。


「それでは、私は夜に来ます」

 イギリスの有名な説教者で、マーティン・ロイドジョンズという牧師がいます。私は最近、この人の本を使って友人たちと勉強会をしているんですが、三日前の木曜日に読んだ箇所に、こんな話が書かれていました。ロイドジョンズ牧師が、カナダのとある教会に招かれて、二ヶ月ほどの間、その教会で毎週説教をすることになったそうです。最初の日曜日、ロイドジョンズ牧師は、教会の方々に向かってこんなことを言いました。「朝の礼拝ではクリスチャンの方が多いと思うので、私はクリスチャン向けの説教をすることにします。そして夜の礼拝ではクリスチャンではない方が多いと思うので、彼らに向けた伝道説教をすることにしたいと思います。」

 朝の礼拝が終わった後、その教会の主任牧師が、「教会の皆さんと握手をして挨拶してくださいませんか」とお願いしたので、ロイドジョンズ牧師は教会の入口に立って、一人ひとりと挨拶を交わしていました。すると、その教会の主任牧師が言いました。「ゆっくりとこちらにやって来るあの老婦人がお分かりでしょう。彼女はこの教会でもっとも重要な会員です。大変裕福な女性で、教会の働きの最大の支持者です。」つまりこの主任牧師は、はっきり口にはせずとも、「だから、他の人たちよりもさらに丁重にご挨拶してくださいね」と言いたかったわけです。そこでロイドジョンズ牧師は、その婦人に挨拶をしました。するとその婦人はこう言ったそうです。「夜の礼拝では、クリスチャンではない人向けの説教をされるんですね。それでは、私は夜に来ます。」

 実際にその女性は二ヶ月間、毎週欠かさず、夜の礼拝に参加したそうです。彼女は誰から見ても立派なクリスチャンでした。伝道説教なんて聞く必要はないと誰もが思うような立派な信仰者。しかし、実は彼女自身は、自分の信仰が崩れかけていることに気づいていた。神様と自分の関係が上手くいっていないことに気づいていた。彼女は自分の信仰を一からやり直したかった。

 もしかすればみなさんの中にも、もう一度自分の信仰を見直したい、と思う方がいるかもしれません。長年クリスチャンとして教会に通っているけれど、自分の信仰が上手く行っていないように感じる。神様を素直に信じることができないように感じる。自分はもう伝道説教なんて聞く必要はない、自分は一からやり直す必要なんてない、と思っていても、実はイエス様の弟子たちと同じで、〈パンのこと〉が分かっていない。“イエス様には何でもできる”という、キリスト教信仰の最も基本的な部分を、まだ信じ切ることができていない。


「向かい風」 の造り主

 少し戻って、45節から48節をお読みします。


45 それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。
46 そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。
47 夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。
48 イエスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。

 〈そばを通り過ぎるおつもりであった〉と聞くと、「あれっ、イエス様は助けに来たわけじゃなかったの?」と思うかもしれません。この文章の元になっているギリシャ語は、〈そばを通り過ぎるおつもりに見えた〉と訳しても良いような言葉です。おそらくイエス様は、弟子たちを助けるために近づいて来られたのでしょう。それなのに弟子たちには、イエス様が自分たちを助けに来たとは思えなかった。自分たちのそばを通り過ぎるだけの幽霊に見えてしまった。

 向かい風のせいで、舟が一向に進まない。どれだけ頑張って舟を漕いでも、すぐに押し戻されてしまう。夜は深まっていく。疲れも溜まってくる。「ああ、イエス様が一緒にいてくだされば、この向かい風も消し去ってくださるのに」と思ったかもしれません。でも、ここは湖の真ん中で、イエス様はおられない。自分たちだけで頑張るしかない。「さすがのイエス様でも、まさかこんなところまで助けに来れるはずがないよなあ。」弟子たちがそう考えてしまうのも仕方がない。

 私たちの人生にも、向かい風と呼ぶべきものがあるでしょう。上手く行かないことが続くと、私たちは疲れます。そして、疲れれば疲れるほど、心が暗くなればなるほど、イエス様を近くに感じられなくなります。「どうせ祈っても無駄だ」と思うようになります。「イエス様は私と一緒にいてくださらない」と諦めるようになります。湖の真ん中で、ただただ向かい風に苦しむ。

 しかしイエス様は、そんな私たちが想像してもいなかったような方法で、助けに来てくださる。「イエス様、そんなこともできたんですか!」と、「それどういう仕組みなんですか!」と、私たちが驚くような方法で、向かい風に苦しむ私たちを助けに来てくださる。旧約聖書のヨブ記には、次のように書かれています。ヨブ記9章8節から11節。


8 神はただひとりで天を延べ広げ、 海の大波を踏みつけられる。

9  神は牡牛座、オリオン座、すばる、それに南の天の間を造られた。

10  大いなることをなさって測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。

11  神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで行っても、気づかない。

 神様はこの世界のすべてをお造りになった。空も、海も、星も、神様が全部お造りになった。お造りになったなら、それを踏みつけることも、壊すことも、もう一度造り直すこともできる。すべてを造ったのだから、何でもできる。マルコの福音書が語ろうとしているのは、この神様が、今もこの世界で働いておられる、ということです。イエスという人を通して、今もこの世界で働いておられる。弟子たちには、このことがまだ理解できていませんでした。結局は〈向かい風〉を造ったのも、〈湖〉を造ったのも、この方なのだということを、彼らは理解していなかったんです。

 もちろん、長年教会に通っているクリスチャンの皆さんなら、「神様がこの世界のすべてを造った」ということは知っていると思いますし、信じていると思います。しかし、そのことを信じていると言いながら、「イエス様が湖の上を歩いた」と聞くと、私たちは心のどこかで、「えっ、ホントに?」って思うんです。「そんなことホントにできるの?」って思うんです。そういう私たちは実は、「神様がすべてを造った」ということを、本当の本当には信じられてないんです。聖書の最初に書かれている、創世記1章1節に書かれている、〈はじめに神が天と地を創造された〉というあのみことばを、あの最も基本的なみことばを、実はまだ信じ切っていない。

 私たちは、〈パンのこと〉を理解しているでしょうか。私たちの心は〈頑なになって〉いないでしょうか。「イエス様には本当に何でもできる」と、心から素直に信じ切っているでしょうか。全世界を造られた大きな神様に愛されているはずなのに、日常の小さなことで思い悩んではいないでしょうか。もしかすれば私たちは、「私は夜の礼拝に行きます」と言ったあの婦人のように、もう一度最初から学び直す必要があるのかもしれません。

 向かい風が吹こうと、湖の真ん中に孤立しようと、イエス様には何の問題もない。この世界の造り主に、不可能なことは何一つない。これこそが、私たちの信仰の初めの一歩です。祈ります。


祈り

 この世界の造り主であられる、イエス・キリストの父なる神様。あなたにはどんなことでもおできになると、分かっているつもりでも、実際にはそのことを信じきれていないような私たちです。「湖の真ん中になんて助けは来ない」と思い込んで、いざイエス様が助けに来てくださると、「幽霊だ」と驚いてしまうような私たちです。どうか神様、私たちにもう一度、信仰の基本を教えてください。「自分はもう立派なクリスチャンだから」と慢心することなく、もう一度、聖書のみことばに喜んで耳を傾けさせてください。イエス様の御名で祈ります。アーメン。