マルコ7:1-23「人間の言い伝え」

2023年3月12日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』7章1-23節


1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。
2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。
3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。
5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。 

『この民は口先でわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。
 人間の命令を、教えとして教えるのだから。』

8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、
12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。
13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」

14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。
15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。
19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」



「ごはんの前に手を洗いなさい!」

 本日の聖書箇所というのは、普通なら、1節から13節の部分と、14節から23節の部分で、二つに分けられることが多い箇所です。しかし、今日はあえて分けることはせずに、1節から23節までを一気にお読みしたいと思いました。一気に読んだほうが、イエス様が仰りたかったことがはっきり分かると思ったからです。まずは1節から5節までを改めてお読みします。


1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。
2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。
3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。
5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」

 「ごはんの前に手を洗いなさい!」というのは、少なくとも私たち日本人にとってはごく普通のことかもしれません。また、コロナ禍が始まってからは、レストランなどの入り口に「アルコール消毒をお願いします」と書かれているのが当たり前になりました。なぜ私たちは手を洗うのか。消毒をするのか。それはもちろん、衛生上の理由です。ばい菌やウイルスを口に入れないために、衛生上の理由で手をきれいにするわけです。

 しかし、パリサイ人たちや律法学者たちにとっては、“手を洗う”というのは、衛生上の理由というよりは、宗教上の理由でした。ばい菌をやっつけるためではなく、“汚れた人間”と“きよい人間”を区別するための決まりでした。食事の前は手を洗ってきよめる。市場から戻った時にも、色々な汚れたものに触っているかもしれないから、身体全体をきよめる。コップもお皿もベッドもきよめる。それをしなければ、“汚れた人間”になってしまう。

 彼らはなぜ、“汚れた人間”と“きよい人間”を区別するのでしょうか? それは、“きよい神様を礼拝するため”でした。「きよく聖なる神様を礼拝するためには、神様に喜んでいただくためには、私たちもきよくなければならない。私たちがもっともっときよくならなければ、神様に喜んでいただけない!」そういう真面目な思いから、〈昔の人たちの言い伝え〉が生まれていったんです。

 しかし、そんなパリサイ人たちに対して、イエス様はこう言われます。6節から8節。


6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。

『この民は口先でわたしを敬うが、
 その心はわたしから遠く離れている。
7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。
 人間の命令を、教えとして教えるのだから。』

8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

 口先では、神様を敬う言葉を語る。「ハレルヤ、主は素晴らしい!」と賛美を歌う。しかし、心がそこにはない。手を洗う。身体をきよめる。汚れたものから遠ざかる。しかしいつの間にか、心がどこかに行ってしまった。それを神様は〈むなしい〉と言われた。


「神のことばを無にしています」

 9節から13節をお読みします。


9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、
12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。
13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」

 〈あなたの父と母を敬え〉というのは、単に「親を尊敬しなさい」という意味ではありません。当時の世界では、子どもに捨てられて路頭に迷ってしまう老人がたくさんいました。ですから、〈あなたの父と母を敬え〉というのは、「親が働けなくなって生活に困っても、あなたがちゃんと親を養いなさい」という戒めでもあったんです。「自分を大人になるまで育ててくれたら、あとは親なんてどうでもいい」と考える人が多かったから。

 当時のユダヤ人たちの中には、自分の親のために自分の財産を使わないために、〈コルバン〉という制度を悪用する人たちがいたようです。〈コルバン〉というのは、自分の持ち物を神様へのささげ物として宣言することによって、その財産を誰にも使わせないようにできる制度でした。「もう神様にささげることに決めちゃったから、お父さんとお母さんには差し上げられません。そういうことだから、じゃ、もう連絡して来ないでね」というように、「神様」という存在を利用して、親を冷たくあしらいながら、実は神様に全部をささげるわけでもなく、結局は自分の財産を自分の財産として確保しておきたいだけ、ということができたんです。

 「神様にささげる」と言えば、聞こえは良いですよね。親としても、「神様にささげるから」と言われてしまえば、どんなに生活が苦しくても諦めるしかないわけです。そうやって、結局は親を見殺しにしているだけなのに、あたかもそれが宗教的に立派な行為であるかのようにさえ見える。美しい言葉で取り繕っているけど、実際は〈コルバン〉という制度を悪用した偽善でしかない。

 〈このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。〉イエス様のこの批判を、私たちは他人事として聞き流せるでしょうか? 私たちキリスト教会の中にも、自分たちで作り上げた〈言い伝え〉によって神様の言葉をないがしろにしているということはないでしょうか?

 たとえば、私たちの教会は「福音派」と呼ばれるグループに属していますが、その福音派では、お酒やタバコを禁止する人が少なくありません。このことに関して、カトリックの面白い記事を見つけました。カトリックのイエズス会のホームページに、こんなQ&Aがあったんです。


□クリスチャンは酒もタバコものまないと聞きます。そのように厳しいモラルを守れない人はクリスチャンにはなれないのでしょうか。

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クリスチャンが酒もタバコものまないというイメージは、たぶんキリスト教のある教派の、とくにアメリカから日本に伝えられた、敬虔なクリスチャンのグループの教えに由来するのでしょう。その人たちを私は尊敬しますが、でもクリスチャンが皆そうだ、と言うわけではありませんよ。ドイツに行くと、ビールやワインが修道院付きの酒倉で造られていたりして、昔から修道院で造る酒はおいしくて有名でした。

私は酒もたばこも好きですが、だからと言って弁解のためにこんな話をするのではありません。だいいち、イエス自身がどうだったかと言えば、イエスは、どんな人とも屈託なくつきあって、泣く人とともに泣き、笑う人とともに笑いました。当時の敬虔なユダヤ教徒からは、「大食漢で大酒のみだ」(マタイ11の19)とさえ非難されています。だからキリストの教会は、本来はどんな人にも開かれたものであって、決して上品なエリートたちの集まりではないはずです。きれいに殺菌した蒸留水はおいしくないですね。そのような人間味がなくてつまらないものを、キリスト教だと思わないでください。

学校法人上智学院 カトリック・イエズス会センター「カトリックQ&A」(https://sophia-catholicjesuit.jp/qa/03)

 ここで言われている、「アメリカから日本に伝えられた、敬虔なクリスチャンのグループ」というのは、簡単に言えば、私たち「福音派」のことです。聖書自体は、お酒を禁止していませんし、タバコのことも書かれていないので、「クリスチャンは酒もタバコものまない」というのは福音派の〈言い伝え〉だと言えるかもしれません。

 もちろん、聖書の中には「お酒を飲みすぎてはいけません」というような戒めはたくさん書かれています。しかし、お酒自体が“汚れた飲み物”というわけではありませんし、お酒を飲んで私たちが“汚れる”わけでもありません。それなのに、私たち福音派の中では時々、お酒を飲む人やタバコを吸う人たちを、あたかも特別な“罪人”であるかのように考える人がいます。

 もし私たちが、まるでお酒自体を“汚れたもの”であるかのように考えてしまうのだとしたら、もしくは、「お酒を飲まない私はきよいけど、お酒を飲む人は汚れている」という風に、いつの間にか人を見下すような考えを持ってしまうのだとしたら、そういう私たちは、“人間の言い伝えによって神の言葉を無にする”という間違いを犯してはいないでしょうか?「きよい生活をしたい」という真面目な思いが、結果的に、「汚れた心」を生み出してしまってはいないでしょうか? 


“治療室”に入る

 14節から23節までをお読みします。


14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。
15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。
19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

 パリサイ人たちが大切にしていたのは、“手を洗ったかどうか”とか、“食べ物がきよいかどうか”という外面的な問題でした。そういうことを大切にしていれば“きよい人間”になれると、彼らは本気で思っていた。しかし、イエス様が問題とされたのは、“心のきよさ”でした。

 イエス様は別に、手を洗うこと自体を否定したわけではありません。別にイエス様は、“形式的なものには全く意味がない”とか、“儀式なんて全て無意味だ”と言ったわけではないんです。主イエスが言いたかったのは、「外面的なものを取り繕うせいで、逆に心が汚くなっていないか?」ということです。「儀式さえ行えば、汚い心を隠せると思っていないか?」ということです。

 モーガン・スコット・ペックというアメリカの有名な精神科医が、『平気でうそをつく人たち』というベストセラーを書いています。この本の中でペック博士が論じているのは、「“邪悪な人間”とはどういう人間か」ということです。みなさんはどう思いますか? “邪悪な人間”というのは、どのような特徴を持っていると思いますか? ペック博士は次のように指摘します。


邪悪な人間が自分から進んで心理療法の患者となることはほぼ皆無と言える。……この種の人間は、治療によって自分の心に光を当てられることをなんとしてでも避けようとするものである。……邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』森英明訳、草思社、1996年、91頁

 「自分の心に光を当てられることをなんとしてでも避けようとする」。他人から“いい人”だと思われるためになら、平気でうそをつく。自分の欠点を隠すためになら、“いい人”としての自分を演じ続ける。これが「邪悪な人々」の特徴なのだと、ペック博士は分析します。私たちはどうでしょうか? “いい人”というイメージを守るために、他人をだまし続けることはないでしょうか? “清廉潔白”というイメージを保とうとして、自分の心を隠し続けることはないでしょうか?

 そういうイメージを保ち続けるにはどうすればよいか。〈人間の言い伝え〉さえ守っていればいいんです。「こういう振る舞いをすれば、立派な人間だと思われるだろう。」「ここでこういう対応をすれば、いい人だと思ってもらえるだろう。」そんな〈言い伝え〉なんていくらでもありますから、それを真面目に、忠実に、熱心に守っていればいい。しかしもちろん、そういう生き方を続けていれば、だんだんと疲れてしまい、心が歪んでしまう。

 私たちが本当に必要としているのは、外ヅラを取り繕うために編み出された〈人間の言い伝え〉ではないはずです。私たちが必要としているのは、私たちが「できれば死ぬまで隠し続けたい」と思っている心の奥底にまで入り込んで来る〈神のことば〉です。「本当のあなたは罪人だ」ということを、「本当のあなたは汚い人間でしょ」ということを、真っ直ぐに教えてくださる神様のみことばです。このみことばは恐ろしいかもしれない。〈人間の言い伝え〉を守っているほうが居心地がいいかもしれない。でも、私たちの病を癒やしてくれるのは、〈神のことば〉だけです。私たちの病が癒やされていく、その最初の一歩は、「私は汚れた人間です」と、正直に言えるようになることです。神様が待っておられる治療室に、足を踏み入れることです。そこから、本当の“きよさ”が始まっていきます。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちの中に、“良い人だと思われたい”とか、“きよい人だと思われたい”という思いがあるのでしたら、どうぞそれを取り除いてください。「私は汚い人間です」という告白を、クリスチャンっぽさとか、謙遜な人間っぽさを演出するための台詞としてではなく、真実の言葉として、あなたの前に告白させてください。〈人間の言い伝え〉の中に閉じこもってしまって、その居心地の良さから抜け出すことができない私たちを、〈神のことば〉によって連れ出して、本当の“きよさ”の中へと招いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。