ヨハネ13:31-35「互いの間に愛があるなら」(宣愛師)

2023年4月2日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』13章31-35節


31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。
33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。
34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」



「心の安全基地」

 本日の礼拝を以て、盛岡みなみ教会としての2023年度の歩みが始まりました。年度の変わり目というのは、人によっては様々な変化の季節でもあると思います。私たちの教会としては、新しく伝道師としてまなか先生をお迎えするという変化がありますし、それぞれの生活にも変化がある季節でしょう。新しい学校に行く人もいれば、新しい学年やクラスに変わる人もいます。職場の中で新しい役割を与えられる人もいるかもしれませんし、家族の状況や生活環境が変わるという人もいるかもしれません。

 こういう様々な変化に対して私たちは、ワクワクすることもありますけれども、どちらかというと不安を覚えることが多いと思います。新しい年度が始まる。今までとは違う環境に変わる。2023年度、自分はうまくやっていけるだろうか。

 心理学の用語で、「心の安全基地」という言葉があります。「心の安全基地」というのは、たとえば子どもたちにとっての母親や父親のことです。小さな子どもたちは、「心の安全基地」があるからこそ、新しい環境に飛び込んでいける。いつでも安心して帰れる場所、受け入れてもらえる場所、変わらない愛のある場所があるからこそ、新しい環境に向かって冒険することができる。「ここに帰ってくれば安心だ」「何があってもここに帰ってくれば大丈夫だ」と思えるような場所があれば、変わらない愛があれば、私たちは安心して生きていける。では、その“変わらない愛”とは、一体どこにあるのでしょうか?


〈ユダが出て行ったとき〉

 31節と32節をお読みします。


31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。

 〈ユダが出ていったとき〉というのは、“ユダがイエス様を裏切ることが決まったとき”という意味です。イエス様は、“ユダに裏切られることが決まったとき”に〈栄光を受け〉た。愛する友に裏切られることによって“栄光”を受ける。愛する人々に裏切られ、それでも彼らを愛し続ける。裏切られても変わらない愛。そこに、神の栄光が輝いている。

 続けて、33節をお読みします。


33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

 〈わたしが行くところ〉。それは、十字架です。愛する人々に裏切られ、殺されていく道です。〈わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。〉イエス様はたったお一人でこの道を歩まれました。誰もついて来ることはできなかった。どうして誰もついて来ることができないのでしょうか? 36節から38節をお読みします。


36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」
37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
38 イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 イエス様を裏切ったのは、ユダだけではありませんでした。最も深くイエス様を愛していたはずのペテロでさえ、イエス様を裏切った。ペテロだけではない。他の弟子たちも皆、イエス様の十字架の道に従うことができず、イエス様を見捨てた。誰一人として、イエス様についていくことはできなかった。皆から見捨てられ、裏切られる道。これが、イエス様が歩まれた道でした。


〈わたしがあなたがたを愛したように〉

 このことを理解して初めて、私たちは〈わたしがあなたがたを愛したように〉というみことばの意味を理解できるんです。34節と35節をお読みします。


34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 〈わたしがあなたがたを愛したように〉とはどういうことでしょうか? これは単に、「イエス様がものすごく愛してくださったように、私たちもものすごく愛し合う」というような、愛の大きさの話だけではありません。イエス様がここで言いたかったのは、「あなたがたはわたしを裏切ったけれど、それでもわたしがあなたがたを愛したように」ということです。裏切られても愛し続ける愛なんです。

 私たちは、裏切られることを恐れると、人を愛せなくなります。適度な距離を保ちたくなる。「裏切られたくないから、最初から人を愛したくなんてない」と思うこともあるかもしれません。「それなりの人間関係だけでいいや」とか、「これ以上人間関係を広げるのは嫌だ」と思うこともあるでしょう。誰かに対して心を開くということは、私たちにとって簡単なことではない。

 「あなたが最も深く愛している人は誰ですか」と尋ねられれば、私の答えはもちろん、イエス様以外であれば、妻のまなかさんです。私が一番愛しているのも、私を一番愛してくれているのも、まなかさんだと確信しています(のろけ話みたいでごめんなさい)。でも、それとは逆に、「あなたを最も深く傷付けた人は誰ですか」と尋ねられれば、その答えもたぶん、まなかさんなんです。

 2年前にまなかさんとお付き合いを始めてから、「誰かに対してこんなに心を開いたことはなかったなあ」と思いました。どちらかと言えば私は、どんな人とでもオープンに関わることができるタイプなんですが、それでも自分の心の奥底には、家族にも友人にも打ち明けていないような部分があって、そういう隠れた部分も、まなかさんになら打ち明けることができたんですね。

 でも、そうやって心を開いて深く愛し合えば、その分だけ深く傷付けられることもあるし、深く傷付けてしまうこともある。私たちは時に、最も深く愛する人々に、最も深く傷付けられる。だから私たちは、人を愛することを恐れてしまう。これ以上傷つきたくない、これ以上疲れたくないと思い、関係を保つことを恐れてしまう。「もううんざりだ。こんなに傷付けられるなら、初めから愛さなければよかった。初めから関係を持たなければよかった」と思ってしまう。

 逆に、誰かに裏切られることだけでなく、誰かを裏切ってしまうことを恐れる、ということもあるかもしれません。誰かを愛し続けたいと思っても、それができない自分を知っているから、「こんな自分には、もう誰かを愛する資格なんてない」と思ってしまう。


〈あなたはわたしを愛していますか〉

 でも、そんな時に私たちは、イエス様の愛を思い出すんです。ユダの裏切り、ペテロの裏切り、愛する人々から受けたあらゆる裏切りを経験してもなお、愛することをやめなかったイエス様の愛を思い出すんです。そして、私たち自身もまた、この方の前に罪を犯し、この方を何度も何度も裏切ったのに、それでも変わらずに今日も愛されていることを思い出すんです。

 ヨハネ福音書の21章に書かれているように、イエス様はご自分を裏切ったペテロに向かって、「あなたはわたしを愛していますか」とお尋ねになりました。イエス様は、「もうおまえのことなんか愛さない」とは言われませんでしたし、「もうおまえなんかに愛されなくていい」とも言われませんでした。イエス様は、裏切り者を愛し続け、そして、裏切り者からの愛を求め続けたんです。

 ペテロだけではありません。あのユダでさえ、イエス様は最後までお見捨てにならなかった。ユダが帰って来ることを、もう一度ユダの愛が戻ってくるその日を、イエス様は待っておられたはずです。たとえ私たちがイエス様を裏切っても、イエス様は私たちの愛を求め続けてくださる。「あなたはわたしを愛していますか」と、何度でも尋ね続けてくださる。

 裏切られても愛する愛。傷付けられても無くならない愛。この愛が私たちの間にあるのなら、すべての人が、私たちがイエス様の弟子であることを認めるようになります。ただ愛し合うだけなら、他の宗教でも教えられていますし、別に宗教じゃなくたって、「互いに愛し合いましょう」くらいのことは教えることができます。でも、〈わたしがあなたがたを愛したように〉という戒めは、イエス様にしか語ることのできない戒めです。ほかのどんな宗教にも語ることのできない教えです。裏切られてもなお、私たちを変わらずに愛し続けてくださったお方は、そんなお方は、イエス様以外にはいないからです。だから、〈互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります〉と言われているんです。この愛は、イエス様の弟子だけが知っている、この世界で唯一の愛だからです。

 新しい年度が始まり、それぞれが変化の中を歩んでいきます。しかし、私たちには変わらない愛があります。それはイエス様がくださった愛です。この愛があれば、私たちの環境や状況がどんなに変わってしまったとしても、安心して生きていくことができます。どんなに失敗しても、どんなに辛い思いをしても、どんな罪を犯したとしても、変わらずに愛し続けてくれる愛を、イエス様が与えてくださったからです。

 私たち盛岡みなみ教会は、この愛を受け継いでいきましょう。「一度失敗してしまえばそれで終わり」というような愛ではない愛、裏切りや罪を乗り越えることのできる愛が、私たちの間にも受け継がれることを目指しましょう。「たとえ私が失敗をしても、罪を犯しても、この教会は私を愛し続けてくれる。」そう確信することができるような教会を目指して、2023年度の歩みを進めていきたいと思います。そのようにしてこの教会が、私たちが帰るべき「安全基地」となりますように。何があっても、どんな変化があっても、またここに戻ってくれば大丈夫だと思えるような、そのような愛の交わりとなりますように。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。たとえ裏切ってしまったとしても、たとえ罪を犯してしまったとしても、それでも変わらずに愛してくれる愛がある。このことを知っている私たちは、どれほど励まされるでしょうか。これから始まる新しい年度、たくさん失敗をするかもしれません。人に傷付けられたり、人を傷付けてしまったりするかもしれません。そんなとき、私たちの「安全基地」に戻って来ることができますように。イエス様の愛に立ち戻り、教会の愛に立ち戻ることができますように。そして、そこから再び力を得て、もう一度それぞれの場所へ、平安のうちに出発していくことができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。