ヨハネ20:19-20「喜ぶことを忘れても」(宣愛師)

2023年4月9日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』20章19-20節


19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。



「喜ぶということを学び直さなければならない」

 ハッピーイースター!イースターおめでとうございます。主イエス様のご復活を祝い、ご一緒に喜びましょう!……と言いたいところですが、「喜びましょう」と言われても、なかなか喜ぶことができない、喜べるような気分じゃない、そんな方もおられるかもしれません。

 今日は嬉しいイースターですけれど、昨日までの一週間は、イエス様の十字架の苦しみを覚える「受難週」でしたし、一週間だけではなく、昨日までの約40日間というのもまた、イエス様の苦しみに思いを馳せる「受難節」でした。イースターというこの喜ばしい一日を迎える前に、「受難週」「受難節」という苦しみの期間を過ごして来たわけです。

 もちろん、少なくとも私たちの教会では、受難週や受難節だからと言って、断食や苦行を行うわけでもありません。「楽しいことは禁止!苦しいことしかしちゃダメ!」なんてことでもない。しかし、みなさんの中には、今年の受難週や受難節を、本当に苦しい期間として過ごされた方もいると思います。もしかすれば今も、その苦しみの中にあるかもしれません。「今日はイースターです!喜びましょう!」と言われても、素直に喜べるような状況ではないかもしれません。

 今はもう亡くなった方ですが、ヴィクトール・フランクルという心理学者がいます。『夜と霧』というベストセラーを書いたことで有名なユダヤ人です。彼はもともと、オーストリアで精神科医として働いていましたが、今から80年前、ナチス・ドイツがオーストリアを併合したことをきっかけに、強制収容所に収監されました。強制収容所は、地獄のような場所でした。ナチスの看守によって暴力を受ける毎日。食べ物も本当に僅かなものしか与えられない。部屋もベッドも不衛生で、頭はシラミだらけになる。吹雪が吹くような極寒の中、裸で外に呼び出され、名前ではなく番号で呼ばれ、無理やり働かされ、病気になって働けなくなれば、容赦なく毒ガスで殺される。そんな地獄のような収容所で、家族も皆死んでいく中で、フランクルはなんとか生き延びました。

 収容所から奇跡的に生きて帰ってきた彼は、大虐殺からの生存者として、そして一人の心理学者として、世界各地で講演活動を始めました。彼はその講演の中で、次のように述べています。


さて、解放された囚人についていわなければならない一番重要なことがらですが、それは、きっとみなさんが一番驚かれることかもしれません。つまり、解放されたことを喜ぶことができるためには、何日もかかるという事実です。まさに、喜ぶということを学び直さなければならないのです。

V. E. フランクル『それでも人生にイエスと言う』山田邦男訳、春秋社、1993年、139頁

 強制収容所から解放された囚人たちは、解放されたからすぐに喜べるかと言うと、実はそうもいかない。「本当にここは安全な場所なのか」と恐れる日々が続くんだそうです。「本当に自分は解放されたのか」と疑う日々が続くんです。あまりにも長く苦しみすぎたから、喜ぶことを忘れてしまった。安心して生きるということを忘れてしまった。でも、そうやって疑ったり恐れたりしながら、少しずつ少しずつ、地獄のような日々が終わったという事実を受け入れていくんです。何日も何日もかけて、「喜ぶということを学び直さなければならない」。


「平安があなたがたにあるように」

 ヨハネの福音書、20章19節を改めてお読みします。


19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」

 〈週の初めの日〉というのは、日曜日のことです。今から二千年前のあの日、イエス様が墓の中からよみがえられた、最初のイースターの日曜日のことです。その日の夕方、イエス様の弟子たちは、ユダヤ人の権力者たちを恐れて閉じこもっていました。「ああ、イエス様が殺されてしまった。ユダヤ人の権力者たちによって、十字架にかけられて殺されてしまった。どうしよう、今度はおれたちが殺される番かもしれない。もうダメだ、一体どうすればいいんだ…。」

 実は弟子たちは、イエス様が墓の中からよみがえられたということを、すでに耳にしていたはずなんです。一つ前の18節を見てみると、〈マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言〉った、と書かれています。マグダラのマリアは、復活したイエス様に出会いました。そしてそのことを、弟子たちにはっきりと伝えていたはずなんです。

 それなのに彼らは、その証言を信じることができないでいた。「私は主を見ました」というマリアの目撃証言を信じなかったんです。十字架で殺されたあのイエス様は、今も生きておられる!今も生きておられて、私たちの救い主として、私たちとともにいると約束してくださった!苦しみの日々は終わった!喜びの日が始まった!……それにもかかわらず弟子たちは、未だに悲しみの中から抜け出せないでいた。外の世界を恐れたまま、ドアに鍵をかけて閉じこもっていた。

 私たちにも、弟子たちの気持ちが分かるはずです。閉じこもりたくなることもあるでしょう。辛いことがあって、悲しい気持ちになって、誰にも会いたくなくなる。実際に家に引きこもることもあれば、心の扉を固く閉じることもある。表向きではニコニコして見せるけれど、実際には誰に対しても心を開いていない。外の世界を恐れて、ただただ内側に閉じこもっている。色々な人が、色々な励ましの言葉をかけてくれる。でも、そんなのは信じられない。「もう大丈夫だよ。怖がらないで。元気を出して」と言われても、素直に信じられるような状況ではない。

 そんな私たちの真ん中に、頑なに鍵がかけられたその部屋の中に、イエス様が来られるんです。〈「平安があなたがたにあるように。」〉喜ぶことを忘れて、ただ恐れと悲しみの中に沈んでいた私たちの真ん中にイエス様が来て、「安心しなさい。わたしはここにいるよ。だから大丈夫だよ」と語りかけてくださるんです。


イースターの夕暮れ

 20節をお読みします。


20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。

 〈イエスは手と脇腹を彼らに示された。〉イエス様の両手には、十字架の釘によって開けられた穴の跡が見えました。イエス様の脇腹には、ローマ兵の槍によって突き刺された跡が見えました。その傷を、イエス様はわざわざ弟子たちにお見せになった。

 これは、イエス様が「ほら見ろ、すごいだろ!」と自分の傷を自慢し、弟子たちも「うわ~!すっげ~、痛そう~!」と喜んだ、というようなことではありません。イエス様が弟子たちにご自分の傷を見せたのは、突然部屋の中に現れた人物が、他のだれでもないイエス様ご自身であることを、弟子たちに分からせるためでした。目の前に現れた人が、どんなにイエス様に似ている人だったとしても、その身体に傷がなければ、その人はイエス様ではないからです。

 その傷を見た時、弟子たちは初めて喜ぶことができました。弟子たちにとってのイースターは、その時から始まったと言っても良いかもしれません。もちろん、イースターはすでに、その日の朝から始まっていました。しかし、弟子たちがイースターを喜び始めたのは、その日の夕方になってからだったんです。私たちも、「今日はイースターです!さあ、ご一緒に喜びましょう!」と言われても、なかなかすぐには喜べないかもしれません。お昼になっても、夕暮れになっても、喜ぶ気分になれないかもしれない。教会から家に帰って、日が沈むような時間になっても、やっぱりそんな気分にはならない。そのまま部屋に引きこもりたくなるだけ。新しい一週間が始まることが憂鬱になるだけ。

 でも、そういうイースターでもいいと思うんです。たとえ私たちがイースターを素直に喜べなかったとしても、それでもいいと思うんです。そういう弟子たちのためにこそ、イエス様は来てくださったからです。イースターを喜べず、復活を信じられず、部屋に閉じこもっていた弟子たちのところにこそ、イエス様は来てくださって、ご自身の傷を見せてくださって、「わたしはここにいるよ。もう大丈夫だよ。平安があるように」と語りかけてくださった。

 今日は喜びの日です。私たちクリスチャンにとって、イースターは一年の中で最も喜ばしい日です。でも、たとえ今すぐには喜べなくても、今日から少しずつ、喜ぶことを学び直していけばいい。喜びを思い出すまで、何日もかかるかもしれない。いや、何ヶ月も、何年もかかるかもしれない。でも、イエス様は何度でも何度でも、私たちのところに来てくださいます。私たちが再び喜べるようになるまで、私たちがイースターを信じられるようになるまで、何度でも何度でも、ご自分の傷跡を見せてくださいます。内側に閉じこもってしまって外に出ていくことができない私たちのために、イエス様のほうからわざわざやって来てくださって、「ほら、わたしの傷を見てごらん。そして、それでも確かに生きているわたしを見てごらん。どんなに苦しい日々にも、必ず終わりがあるんだよ。復活という希望があるんだよ」と、何よりも確かな証拠を示しながら、何度でも何度でも、イースターの喜びを教えてくださるんです。

 最後にもう一箇所だけ、イエス様のみことばをお読みして、今日の説教を終わりにしましょう。ヨハネの福音書、16章22節。


16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

 お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。イエス様が死から復活されたこの喜びの日、私たちに喜ぶことを教えてください。固く閉じた私たちの心に、あなたが入って来てくださって、確かな平安をもたらしてください。どんなに苦しい状況に陥ったとしても、先の見えない苦しみの中にあったとしても、神様は必ず救いを与えてくださるというイースターの希望を、その喜びを、もう一度私たちに教えてください。復活の主、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。