マルコ8:34-37「いのちの正しい使い方」(宣愛師)

2023年6月4日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』8章34-37節


34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。



「健康のためなら死んでもいい」?

 「健康のためなら死んでもいい」という言葉を聞いたことがあります。「健康のためなら死んでもいい。」健康に生きるためなら、どんなことでもやってみせる。面倒な運動だって、高級なサプリメントだって、インターネットに出てくる色々な民間療法だって、自分の健康を保つためになら、喜んで取り入れる。「健康のためなら死んでもいい。健康に生きられないなら死んだっていい。」なかなか皮肉の効いた言葉だなあと思います。

 現代社会は、「長生きの方法」とか、「健康維持の方法」について、様々な情報を与えてくれます。「どうすれば元気に長生きできるのか」「どうすれば健康でいられるのか」ということについて、テレビもネットも雑誌も様々な情報を発信しています。「どうすれば自分のいのちを長持ちさせることができるか。どうすれば自分の人生を平穏無事に過ごすことができるか。」多くの現代人、多くの日本人が目指す“人生の目標”は、“自分のいのちを保つこと”だとも言えるかもしれない。

 しかし、もしかするとこの社会は、“いのちの正しい保ち方”については教えてくれるとしても、“いのちの正しい使い方”については意外と教えてくれないかもしれません。そのせいで私たちは、“いのちの保ち方”ばかりを気にしすぎて、“いのちの使い方”が分からなくなってしまったとも言えるかもしれない。

 もちろん、「長生き」も大切です。「健康維持」も大切です。でも、長生きをして何をするのか。健康な体を維持して何をするのか。「自分のいのちを守ろう、大事に保とう」と気にするけれど、「あれっ? そもそも何のために生きているんだっけ? 何をするためのいのちなんだっけ?」

 本日の聖書箇所は34節から37節ですが、特に注目したいのは35節の御言葉です。


35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。

 私たち人間は普通、〈自分のいのちを救おうと思う者〉だと思います。どうすれば自分のいのちを保つことができるか。どうすれば平穏無事に生き延びられるか。このことばかりを考えてしまいがちです。しかしイエス様は、〈自分のいのちを救おうと思う者はそれを失〉う、と言われる。そして、〈わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです〉と言われる。果たして、イエス様のためにいのちを失うとはどういう生き方なのでしょうか。


修道士テレマクスの死

 今から約1600年前、紀元4世紀末に、テレマクスという名前の修道士がいました。彼は元々、東の方のどこかにある荒野で、一人で修行をしていました。誰も住んでいない荒野の中で、祈りや断食を通して救いを得ようとしていた。しかしテレマクスは、このような自分の生き方が正しいのかどうか、なかなか確信できずにいました。「このまま荒野で祈り続けていて良いのだろうか? これが本当に神の御心なのだろうか?」

 そんな彼はある日、祈りを終えて立ち上がった時に、自分の間違いに気づいたのだそうです。「自分はただ神に仕えたいと思って、こうして荒野で修行をしていたけれども、本当に神に仕えるということは、人々に仕えるということなのではないか。誰もいない荒野で祈るのではなく、人々が生活している街の中に入って行って、そこで人々とともに生きることこそ、クリスチャンの生き方なのではないか。街の中は人間で溢れており、罪にも溢れている。だからこそ、そこには助けを必要としている多くの人がいるはずだ。」

 そこでテレマクスは、当時の世界最大の都市ローマに向かって出発します。行く先々で物乞いをしながら、陸や海を超えて旅をし、ついにローマに到着しました。当時のローマ帝国ではすでにキリスト教が公認されていて、多くのローマ人が「私はクリスチャンだ」と主張していましたが、キリスト教的ではない数多くの習慣も残っていました。その習慣の一つが、闘技場で行われていた殺し合いでした。

 ローマとの戦争に負けて捕らえられた人たちは、奴隷として、多くの観客が待つ闘技場に連れて行かれ、そこで殺し合いの闘いをさせられます。曲がりなりにも“キリスト教国”になったはずのローマで、人と人が殺し合うということが行われていたんです。そしてそんな彼らを見て喜び熱狂する人が大勢いたんです。

 テレマクスは闘技場に辿り着きます。そこには八万人の観客が集まっていたといいます。奴隷たちが闘技場の中に入って来ます。観客たちが緊張と興奮を楽しむ中、試合が始まります。その光景を見て、テレマクスは愕然とします。イエス・キリストは奴隷たちのためにも死んでくださったのに、彼らは観客たちを喜ばせるために、それも、「自分はクリスチャンだ」と自称する人々を喜ばせるために、殺し合いをさせられている。

 テレマクスは観客席の柵を飛び越え、奴隷たちの間に立ちます。奴隷たちの動きが止まります。観客たちは「闘いを続けろ!」と叫び、テレマクスを引っ張り出します。「邪魔者を取り除け!」観客たちの叫び声が高まる中、闘技場の指揮官によって、テレマクスはその場で殺されました。

 観客たちは静まり返ります。彼らはテレマクスの服装を見て、彼が聖なる修道士であったということに気づきました。そして、今自分たちが下した殺人がいかに愚かなことであったのか、自分たちがどれだけ間違ったことをしていたのかに気づいて、黙ることしかできませんでした。

 この事件をきっかけとして剣闘士試合は禁止となり、当時の皇帝は闘技場を閉鎖します。テレマクスが死んだことによって、この罪深い習慣が終わったのです。彼は荒野に閉じこもって自分のいのちをきよく保つ生き方ではなく、この世界のためにいのちを正しく使う生き方を選んだのです。ギボンという歴史家は、テレマクスについて次のように書いています。「彼の死は、彼が生きていることよりも、人類のために有益であった。」


長野政雄さんの死

 〈自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。〉このみことばを命がけで実践した人は、テレマクスだけではありませんでした。長野政雄さんというクリスチャンの方を、皆さんもご存知かもしれません。三浦綾子さんの『塩狩峠』という小説のモデルとなった人物です。

 長野政雄さんは、北海道にある旭川六条教会という教会のメンバーでした。彼は非常に熱心なクリスチャンであったと同時に、鉄道職員として勤勉に働く人格者でもありました。「庶務主任」という、地位も給料も低くない立場にあったにもかかわらず、服装も質素、食事も質素で、給料のほとんどは故郷の母親への仕送りとしたり、旭川六条教会への献金のために使っていたそうです。

 国鉄で働くある人は、長野さんについて次のように話しました。「旭川には長野という名前のクリスチャンの庶務主任がいる。この人に任せておけば、あとは何も心配する必要はない。」長野さんのところには、問題のある職員がいつも回されて来ました。「どんなに怠け者の部下でも、長野のいる部署に送り込めば、必ず真面目に働くようになる」との評判だったからです。

 長野さんは、仕事がどんなに忙しい時でも、午後五時には必ず部下たちを家に帰してあげて、残った仕事は夜遅くまで自分一人で処理していました。残業代なんて全く出ないような時代に、毎晩のように遅くまで熱心に働いている。しかも、こんなに勤勉な上司は、人一倍温かい人格の持ち主でもある。どんなに怠け者で困った部下たちでも、真面目に働くようになるわけです。

 そんな長野さんが亡くなったのは、数え年で僅か三十歳の若さの時でした。今も塩狩駅に建っている石碑には、次のように記されています。


明治42年〔1909年〕2月28日夜、塩狩峠において、最後尾の客車、突如連結が分離、逆降暴走す。乗客全員、転覆を恐れ、色を失い騒然となる。時に、乗客の一人、鉄道旭川運輸事務所庶務主任、長野政雄氏、乗客を救わんとして、車輪の下に犠牲の死を遂げ、全員の命を救う。その懐中より、クリスチャンたる氏の常持せし遺書発見せらる。

「苦楽生死等しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ。」
右はその一節なり
30才なりき

 長野さんは正月になると毎年、ご自分の遺書を書き改めていました。まだ20代だった頃から、「自分はもうすぐ死ぬかもしれない」という感覚を強く持っていたからです。長野さんは晩年、次のようにも語っておられたそうです。「キリストは三十一歳にして立ち上がり、わずか三年で偉業を後世に伝えられた。私ももうじき三十一歳になる。主の跡を踏んで、私も三年の奮闘を試みたい。」客車の下敷きとなった時、彼の懐から見つかった遺書の全容は、次のようなものでした。


一、儀式などはせず、簡潔に火葬せよ。時間や費用がかからないように。

一、家族や親族が到着するのを待たず、二十四時間が経てば葬りたまえ。

一、私の大罪は主イエスに贖われた。兄弟姉妹たち、私の大罪も小罪も赦してほしい。

一、私は感謝して全てを神に献げる。兄弟姉妹たち、私を通して一層感謝し祈りたまえ。

一、私の家にある資料や私が書いたものや手紙などは、全て燃やしたまえ。

一、兄弟姉妹たちが私の死によって神に近づき、真心からの感謝を味わうことを祈る。
  苦楽も生死も等しく感謝。

佐藤による現代語訳及び一部意訳。なお、遺書の全容については諸説ある。ここでは
【辞世の句最期のことばデーター倉庫】「長野 政雄 遺書(塩狩峠の英雄)」(http://saigonokotaba.blog.fc2.com/blog-entry-821.html?sp)のものを参照した。

 私たちは、長野さんのような人格者ではないかもしれません。長野さんのように熱心な信仰もなければ、人から尊敬されるほど真面目に働いているわけでもないかもしれない。しかし、今日私たちが心に留めたいのは、長野さんの熱心さや真面目さではなく、“いのちについての考え方”です。客車の暴走が始まり、ブレーキが効かないと分かった時、自らのいのちを犠牲にするという決断ができたのは、彼の熱心さや真面目さによるものというよりも、「生きるにしても死ぬにしても、自分のいのちは神様のために使うものだ」という覚悟によるものだと、私は思います。


いのちの正しい使い方

 もう一度、34節から37節までをお読みします。


34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

 イエス様は私たちに、“いのちの正しい使い方”を教えてくださいました。全世界を手に入れることよりも重要なこと、ほんとうの意味での“いのちの正しい保ち方”を教えてくださいました。私たちが自分のいのちを、本当に自分のものとして保ち続けるための唯一の方法を、イエス様ははっきりと教え、そしてご自身が先頭を切って、その険しい道を進んでくださいました。

 たとえ熱心でないとしても、たとえ勤勉でないとしても、普段は飄々としていて、真面目なクリスチャンではないとしても、いざという時にはイエス様のためにいのちを献げられる。私たちは、この覚悟を心のうちに燃やしていたいと思います。自分は何のために生きているのか。自分は何のためにいのちを献げるのか。このことを知っている人の人生は、生き生きと輝いているはずです。

 今週も、このいのちを生きてまいりましょう。イエス様のために、福音のために、この世界の救いのために、用いていただきましょう。「今こそあなたのいのちを使う時だ」とイエス様が語ってくださるその時まで、「今こそあなたの人生の目的を果たす時だ」という声が聞こえる時まで、自らの生き方と死に方を心に留めていましょう。そうやってイエス様の御跡に従う私たちには、この世界の何よりも貴い、まことのいのちが約束されています。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神さま。修道士テレマクスは、この世界がより良い世界となるために、自らのいのちを投げ出しました。長野政雄さんは、隣人のいのちを救うために、自らのいのちを犠牲としました。私たちはこのいのちを、何のために用いていただけるでしょうか。自らの生き方を見つめ直し、また自らの死に方に思いを馳せつつ、今週もイエス様に従うことができますように。どうぞ神様、私たちのいのちを、あなたの愛する誰かのために用いてください。イエス様の御国を広げるために、私たちの全てを用いてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。