マルコ11:1-11「子ろばに乗った王」(宣愛師)
2023年10月29日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』11章1-11節
1 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。
2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。
7 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。
祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。
ホサナ、いと高き所に。」11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
「子ろばをほどいたりして、どうするのか」
“世界の歴史において最も重要な町”とはどこでしょうか? “重要”という言葉がどういう意味かによるとは思いますが、古代世界に遡るなら、バビロニア帝国の首都バビロンとか、ローマ帝国の首都ローマなどが、“最も重要な町”の候補に挙がるでしょう。今の世界では、ニューヨークやロンドンやパリなどが世界都市として有名です。しかし、古代から現代にかけて、いつの時代にも重要であり続けた町という意味では、「エルサレム」という町が筆頭に挙がるだろうと思います。
エルサレムは非常に特別な町です。ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、アジア大陸という三大陸を結ぶ場所にあり、政治的にも宗教的にも重要な町であり続けています。エルサレムとその周辺の土地は、ユダヤ教徒にとっても聖地であり、キリスト教徒にとっても、イスラム教徒にとっても聖地です。ユダヤ人がエルサレムとその一帯を支配していた時期もあれば、キリスト教徒が支配したこともあり、イスラム教徒が支配したこともあります。たとえばキリスト教の「十字軍」は、イスラム教徒からエルサレムを奪い返そう、という目的によって始められた軍事活動です。
要するに、エルサレムという町は、世界史において最も頻繁に戦争の舞台となった町なんです。エルサレムという町を巡って、世界中の人々が争い、馬や戦車を走らせた。そのエルサレムに、イエス様がやって来られました。世界で最も重要であり、そして最も危険な都に近づいて来られた。世界一危険な町で、イエス様は何をなさろうとしていたのか。まずは1節から3節までをお読みします。
1 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。
2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
エルサレムという特別な町を手に入れるために、世界中の国々や支配者たちが、馬や戦車に乗ってこの町に侵入してきました。数え切れないほど多くの権力者たちが、圧倒的な軍事力を誇示しながら、この町に乗り込んで来ました。しかし、イエス様がこの町に入ろうとされたとき、イエス様が必要とされたのは、馬や戦車ではありませんでした。「まだだれも乗ったことのない子ろば……それをほどいて、引いてきなさい。」
弟子たちは、イエス様の言われたとおりに出かけて行きます。4節から8節をお読みします。
4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。
7 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
弟子たちが子ろばを見つけて勝手に連れて行こうとすると、当然のことながら、「子ろばをほどいたりして、どうするのか」と言われてしまいます。ただ、ちょっと面白いなあと思うのですが、弟子たちは「おい、泥棒!」とか、「何してるんだお前たち!」と怒られたのではなく、「そんなことをしてどうするのか」と不思議に思われたんです。
もし弟子たちが、たとえば立派な馬を勝手に連れて行こうとするとか、馬でないとしても、大人のろばを勝手に連れて行こうとしたなら、「おい、この泥棒!」と怒られたでしょう。しかし、まだ大人にもなっていない、何の役に立つかも分からない小さな子ろばを連れて行こうとしているので、「おいお前ら、泥棒…なのか?泥棒にしては、変な奴らだなあ。なんでそんなことするんだ?」と不思議がられてしまった。
イエス様に言われた通り、弟子たちは話してみました。「主がお入り用なのです。」この言葉をギリシャ語で見てみると、「彼」という言葉が入っています。「彼」というのは子ろばのことです。動物ですから、「それ」と翻訳しても良いわけですが、私はあえて「彼」と訳したいと思います。そのほうが、イエス様の思いがよく伝わる気がするからです。
ただ、そこで問題となるのは、「彼」という言葉がどこに入るのか、ということです。「主がお入り用なのです」という言葉は、「主が彼を必要としているのです」と訳すこともできますし、「彼の主が必要としているのです」と訳すこともできるからです。ギリシャ語の文法的には、どちらの翻訳も可能です。どちらかと言えば私は二つ目の翻訳が好きだなあと思いますが、両方を合わせてみるのも良いかもしれません。「彼の主が、彼を必要としているのです。」
私たちクリスチャンは、祈りや賛美歌の中で、「用いてください」という言葉をよく使います。「用いてください」というのは、イエス様のために私を使ってください、ということです。そして私たちは、イエス様に用いていただくためにはどうすればいいのだろうと考える。「もっと優秀な人間になれば、イエス様に用いていただけるのではないか」と思うこともあるかもしれません。「もっと立派な人間になれば、イエス様の役に立てるのではないか」とも考えるかもしれません。
でも、イエス様に用いられる人というのは、必ずしも優秀な人や立派な人とは限らないんです。誰にも必要とされなかった子ろばが、「お入り用」とされました。「なぜそんなことをするのか」と不思議がられてしまうような小さな存在が、イエス様に必要とされました。「用いてください」と祈る私たちに、本当に必要な資質とは何でしょうか。それは優秀さや立派さではなく、子ろばのように自分の身を低くする謙遜さでしょう。自分ではなく、イエス様が主人であるということを認める謙遜さでしょう。「えっ、こんな私を必要とされるのですか?」と、自分自身も驚いてしまうような小さな存在こそ、イエス様は尊く用いてくださるんです。
二つのパレード:ピラトかイエスか
子ろばに跨ったイエス様は、ついにエルサレムへ向かいます。8節から11節まで。
8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。
祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。
ホサナ、いと高き所に。」11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
エルサレムへ向かうイエス様の周りでは、多くの人々が喜び叫んでいます。この人々はエルサレムの人々ではなく、ガリラヤの人々です。ガリラヤからずっと、イエス様について来た人々です。エルサレムという都に住めるようなお金持ちではありません。むしろ、ガリラヤという田舎町でせっせと働いていた貧しい農民たちです。
この貧しい人々が、「ホサナ」と叫んでいる。「ホサナ」とはどういう意味の言葉でしょうか。「ホサナ」というのは、「私たちを救ってください」という意味の言葉です。「イエス様、私たちを救ってください。貧しく小さな私たちのために、神の王国をもたらしてください。ダビデの来たるべき国をもたらしてください。イエス様、あなたこそ私たちの王です。」希望に満ちた賛美の声、喜びの声が響いていました。
ある学者によれば、イエス様がエルサレムに入られたちょうどこの日に、エルサレムの反対側では、もう一つ別のパレードが行われていたと言います。それは、ローマ総督であるポンティオ・ピラトが率いる、ローマ帝国の軍事パレードです。
軍事パレードと言えば、ときどきニュースで流れる北朝鮮の軍事パレードが思い起こされます。たくさんの戦車やミサイルが自慢気に披露され、その周りには大勢の兵士や民間人が拍手喝采をしている。こういう軍事パレードは、「我々の言うことを聞かないと、どうなるか分かっているな?」という脅迫です。それと同じように、「このエルサレムを支配しているのは我々ローマ帝国なんだぞ?」ということを思い知らせるために、拍手喝采を浴びながらローマの軍隊がエルサレムに入城するんです。重そうな武具を身に着けた兵士たちが、屈強な軍馬に乗って来るんです。こういう軍事パレードは、エルサレムの祭りの時期が近くなると、毎回のように行われていました。
ポンティオ・ピラトのパレードと、イエス様のパレード。多くの軍馬に跨る屈強な兵士たちの隊列と、小さな子ろば一匹の隊列。この二つの隊列が、同じ時期に、もしかすれば全く同じ日に、エルサレムに入って来るんです。皆さんは、どちらのパレードに加わりたいと思いますか。どちらの仲間になりたいでしょうか。圧倒的な力によって反対者を黙らせ続ける軍隊か。それとも、子ろばに乗った王の行列か。私たちはどちらのパレードを、真の支配者として認めるでしょうか。
今も、エルサレムを取り巻くあの地域は、戦争の舞台となっています。パレスチナのガザ地区を支配するハマスという団体はなぜ、イスラエルに攻撃を仕掛けるのでしょうか。それは彼らが、「エルサレムとその周辺地域は、ユダヤ人のものではなくアラブ人のものだ。ユダヤ人がアラブ人からあの土地を奪ったのだ」と主張しているからです。それに対してイスラエル側も、「いや、あの土地は昔からユダヤ人が住んでいたのだ。私たちは正当な手段であの土地を手に入れたのだ」と主張して、ハマスの攻撃に反撃します。エルサレムを取り巻くあの土地は、昔も今も変わらず、戦争の地であり続けています。軍馬や戦車が走り回り、「ここはおれたちのものだ!」と主張し続けてきました。力づくで奪われれば、力づくで奪い返すという、復讐の連鎖を続けてきました。
しかし、この世界でたった一人だけ、馬にも乗らず、戦車にも乗らずに、エルサレムに乗り込んだ人がいたんです。旧約聖書の預言者たちは、この方の到来を次のように予告していました。ゼカリヤ書9章9節と10節をお読みします。
9 娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、
柔和な者で、ろばに乗って。
雌ろばの子である、ろばに乗って。10 わたしは戦車をエフライムから、
軍馬をエルサレムから絶えさせる。
戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、
その支配は海から海へ、
大河から地の果てに至る。
私が東京基督教大学の学生だったとき、イスラエルとパレスチナの平和を祈る祈祷会を友人と一緒に始めました。イスラエル・パレスチナ問題に関する専門書も、少しは意識的に読んできたつもりです。もちろん、勉強不足は承知の上ですが、今回のハマスとイスラエルの衝突に限って言えば、人質を盾に侵攻を開始したハマス側のほうに非があると、私は考えています。今回のハマスの行動は人道的に明らかな不正行為だと思います。
しかし、その不正行為に対してイスラエルが、「今度こそハマスを力づくで壊滅させる」と意気込んでいることについては、私はどうしても賛成できません。それは正当な自衛権の行使かもしれませんが、真の平和への道とは思えないんです。たしかに、ハマスが作っている地下トンネルを破壊したいというイスラエル側の言い分は分かります。ハマスを壊滅させることができれば、もっと平和な時代が訪れると考えるイスラエル人がいるのも分かります。しかし、もしここでイスラエルがハマスを叩き潰したとしても、アラブ諸国の怒りを買い、「イスラエルは悪者だ」という彼らの主張をますます強化することになってしまうでしょう。復讐の連鎖を悪化させることになるでしょう。イスラエルの反撃は正当ではあるかもしれません。しかしそれが正解だとは思わない。
ユダヤ人たちもアラブ人たちも、聖書に書かれた神様を信じているはずです。私たちと同じ、唯一の神様を信じているはずなんです。しかし、彼らは真の神の御心に気づいていません。彼らは“子ろばに乗った王”を受け入れることができません。イエス様を拒否し続けているユダヤ人たちやアラブ人たちが、イエス様を救い主として認めない限りは、エルサレムに平和が訪れることも、ゼカリヤ書の預言が実現することもないと思います。
もちろん、私たちキリスト教徒も、ユダヤ教徒やイスラム教徒を一方的に批判できる立場にはありません。十字軍を始め、キリスト教会が行ってきた数々の悪事は、“子ろばに乗った王”とは似ても似つかない、自分勝手な罪人の姿を示しています。私たちキリスト教会も、馬から降りる必要があります。戦車を捨てる必要があります。それは愚かに見えるかもしれませんけれども、長期的に考えるならば、そして聖書的に考えるならば、真の平和への道はそこにしかありません。
私たちの日常生活の中でも、馬に乗って、自分の権力や正しさを見せつけて、相手を支配したくなることがあると思います。自分の主張を相手に受け入れさせるために、相手の弱点をついて、自分の思いどおりにしたくなることがあると思います。夫婦の喧嘩も、家族や親戚のいざこざも、そのほか様々な人間関係のトラブルも、根本的な原因は、力によって相手を押さえつけ、自分が攻撃されないように身を守ろうとする、私たち人間の根強い罪です。自己保身と臆病の罪です。
そんな私たちだからこそ、イエス様と同じ決断をするようにと招かれているんです。馬から降りて、小さな子ろばに乗り換えることができるかどうか。これが問われていることだと思います。馬を降りることは怖いことです。武器を捨てることは怖いことです。相手がまだ馬に乗っているのに、自分が先にろばに乗り換える。これがどれだけ難しいことであるかは、私たちにもよく分かるでしょう。相手がまだ自分を攻撃するつもりでいるのに、自分が先に武器を捨てるのです。これが本当に難しい。怖いことです。無傷では済まないでしょう。無防備になって攻撃を受けることもあるでしょう。やっぱり反撃しておけばよかった、こっちから歩み寄ったりしなければ良かったと思うこともあるかもしれない。
でも、もしも私たちがその招きに応えるなら、馬から降りて、小さなろばに乗ることを選ぶなら、イエス様が私たちの味方となってくださいます。臆病で自己保身に走ってしまう私たちを、イエス様が守ってくださいます。私たちは安心して、小さなろばに乗り換えましょう。乗り換えましょうなんて言うと、なんだか携帯ショップの店員みたいですが、ぜひ、勇気を出して乗り換えてみましょう。強い人間ではなく、柔和な人間として生きる道を選んでみましょう。
「ホサナ。私たちをお救いください。」私たちはこの言葉を、ローマ帝国のパレードに向かって叫ぶのでしょうか。それとも、ガリラヤの田舎町からやって来た王様に向かって叫ぶのでしょうか。「ホサナ。私たちをお救いください。」エルサレムを救うことができるお方は、子ろばに乗った王様だけです。どんなに強大な軍隊も、争いを終わらせることはできません。この方だけが、私たちの真の救いです。この方だけが、この世界を救う真の救い主です。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、 柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。私たちには、武器を捨てることのできない頑なさがあります。臆病さがあります。ろばに乗り換える勇気がありません。イエス様のパレードについて行く勇気がありません。結局は力が物を言うのだと、心の何処かで思ってしまうのです。どうか、私たちに信仰をお与えください。戦いを終わらせ、憎しみの連鎖を終わらせるための、真の信仰をお与えください。どうか、エルサレムを聖地として慕うすべての人々が、イエス様を真の救い主として認める日が来ますように。「ホサナ。私たちをお救いください」という叫びを、軍馬の行列に向かってではなく、子ろばの上におられる方に向かって叫ぶ人々が、一人でも増やされていきますように。どうか神様、人の目には愚かに見えても、信じる人々には神の力である十字架の福音が、この世界に真の平和をもたらしてくださいますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。