マルコ11:27-33「わたしに答えなさい」(宣愛師)

2024年1月28日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』11章27-33節


27 彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、
28こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」
29 イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。
30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」
31 すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
32 だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
33 そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」



「勝手なことをされては困りますよ」

 先週の日曜日は、私とまなか先生は三重県の松阪でご奉仕するということで、盛岡は留守にさせていただきました。みなみ教会の説教については録画を通してご一緒させていただきましたが、やっぱり顔と顔を合わせて、もしくはZoomの画面を通して、お一人お一人の顔を見ながら、皆さんとご一緒に聖書を開けるのが一番だなあと思います。まずは27節と28節をお読みします。


27 彼らは再びエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長たち、律法学者たち、長老たちがやって来て、
28 こう言った。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」

 エルサレムの神殿の中を、イエス様が歩いておられました。おそらく、弟子たちと一緒にいて、歩きながら弟子たちに色々なことを教えておられたのでしょう。すると、「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」つまり、エルサレム神殿の権力者たちが、イエス様につっかかって来たんです。「おいおい、イエスさん。あんたはどうして、私たちが管理しているこの神殿で、好き勝手なことをしてるんですか? 勝手なことをされては困りますよ」というわけです。「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」

 ここでお偉いさんたちが「これらのこと」と言ったのは、数日前にイエス様が起こした事件、エルサレムでイエス様が起こした“神殿事件”のことです。11章15節から18節をお読みします。


15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。

 エルサレムの権力者たちは、神殿の中で勝手なことをするイエス様が許せませんでした。自分たちが管理している神殿の中で、勝手なことをされては困る。自分たちのテリトリーの中なのに、自分たちの言うことを聞かない奴は困る。だから、「どのようにしてイエスを殺そうか」と考えたんです。そして、イエス様を殺すために、「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けたのですか。」と質問したわけです。この質問に対してイエス様が、「わたしの権威は神から与えられている」と正直に答えれば、「そんなのは嘘だ!神に対する冒涜だ!」と言って、イエス様を死刑にする材料を手に入れられるわけです。

 私たちは、権力者たちのこういうずる賢い策略を見ると、「偉そうでわがままな人たちだなあ」と思うわけです。でも、自分のテリトリーだと思っている場所を、イエス様が自由に歩き回って、自分が頼んでもいないようなことを勝手にされてしまうとなれば、私たちだってイエス様を拒否したくなるかもしれません。私たちの人生の中に、イエス様が入って来られる。そして、頼んでもいないような色々な事件を、イエス様が勝手に起こされる。

 私たちは私たちなりに、「これは自分の領域だ」という部分があると思います。「これについては、こういうふうに進めていこう」「これは自分の得意分野だから、誰にも邪魔されたくない」と考えている領域があるわけです。それなのに、そこにイエス様が入って来て、自由に歩き回る。「イエス様、勝手なことをしないでください。私がお願いしたことだけ叶えてください。」そう言って私たちも、イエス様を自分の権威の下に置いておこうとしたくなる。「イエス様、私はあなたにそんなことはお願いしてませんよ。私がお祈りしたことだけ叶えてくださればそれでいいのです。それ以外のことについては、私の好きにさせてください。おとなしくしていてください。」


“問う権威”はどちらに

 ここで問題となるのは、本当の権威を持っているのはどちらなのか、ということです。私たちの人生について、本当の権威を持っているのは私たちなのか、それともイエス様なのか、ということです。29節と30節をお読みします。


29 イエスは彼らに言われた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。そうしたら、何の権威によってこれらのことをしているのか、わたしも言いましょう。
30 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。わたしに答えなさい。」

 イエス様は、権力者たちの意地悪な質問に対して、質問で返されました。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」この質問は、エルサレムの権力者たちにとっては、非常に答えるのが難しい質問でした。

 ところで、「ヨハネのバプテスマ」がどういうものだったか、何のためのバプテスマだったか、皆さんは覚えておられるでしょうか。1章4節に書かれていますが、ヨハネのバプテスマとは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」でした。「罪の赦しに導く」ためのものだったんです。

 しかし、エルサレムの権力者たちによれば、「罪の赦し」というのは、エルサレム神殿の中でしか与えられないはずのものでした。エルサレムの神殿に入って、ささげ物の動物を持って行って、祭司と呼ばれる人たちにお願いをして、お祈りしてもらう。「罪の赦し」を得る方法はこれだけだと、権力者たちは人々に教えていたんです。「罪の赦し」はエルサレム神殿の専売特許だと、権力者たちは思っていたんです。そんな彼らの立場からすれば、「あのヨハネという男は、神殿でもなく、エルサレムでもない、何もない荒野にあるヨルダン川のほとりで、我々の許可を得ることもなく、勝手に“罪の赦し”を教えていた!けしからん奴だ!」というわけです。

 ですから、「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか」という質問に対する、権力者たちの答えはもちろん、「人から出た」ということになります。「あんな勝手な振る舞いは認められない!罪の赦しを与える権威は、この神殿にしか与えられていない!この神殿を管理する我々にしか与えられていない!ヨハネなんて奴は、ただの人間に過ぎない!あんな勝手な奴のことを、神は絶対にお認めにならない!」これが彼らの答えだったはずです。

 ところが、権力者たちは答えに詰まってしまいます。31節から33節までをお読みします。


31 すると、彼らは論じ合った。「もし、天から来たと言えば、それならなぜ、ヨハネを信じなかったのかと言うだろう。
32 だが、人から出たと言えば──。」彼らは群衆を恐れていた。人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。
33 そこで、彼らはイエスに、「分かりません」と答えた。するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」

 自分たちの答えは決まっているのに、「分かりません」と誤魔化すことしかできない。「彼らは群衆を恐れていた」からです。群衆がヨハネを信じていたからです。結局のところ、自分たちには神からの権威が与えられていると思っていた権力者たちも、群衆たちの機嫌に左右される程度の権威しか持っていなかったわけです。または、もしかすれば権力者たちの中にも、「ヨハネは本当に、天から遣わされた預言者なのではないか」と思っていた人がいたかもしれません。しかし、それを正直に言うこともできない。今さらヨハネを信じたって、権力者としての自分の立場が脅かされるだけだと思っているからです。自分の権威にしがみついているから、答えられないんです。

 権力者たちの意地悪な質問に対して、イエス様は質問を返しました。この会話を通して明らかになったのは、本当に権威を持っているのはだれか、ということです。まことの権威を持って事を為しているのは誰か、ということです。エルサレムの権力者たちは、「自分たちこそ権威者だ。だから、あのイエスという男は、私たちの質問に答える義務がある」と思っていたのでしょう。しかし実際には、質問に答えるべきなのは、イエス様ではなく、彼ら自身でした。


「わたしに答えなさい」

 私自身もそうでしたけれども、イエス様を信じようか迷っている時や、洗礼を受けようか迷っている時、多くの人はキリスト教に対する疑問を持つものです。「キリストが復活したというのは、弟子たちの作り話じゃないのか?」「この世界を神が造ったとは本当だろうか?」「神がいるなら、なぜこの世界にはこんなにも苦しみが多いのだろうか?」そうやって、多くの疑問を持つわけです。そして、その疑問が解決されるまでは、自分はそう簡単に信じたりしないぞ、と思う。

 もちろん、疑問を持つことは悪いことではありません。むしろ、あまり深く考えずに信じてしまうよりは、疑問から逃げずにしっかり悩んだ上で慎重に信じたほうが良いと思います。そのほうが確かな信仰になると思います。ただし、そこで私たちが注意すべきことは、一方的に疑問をぶつける権利が、私たち人間の方にあると思い込んでしまうことです。

 神様にだって、私たちに質問をする権利があるはずです。いや、本当なら神様にこそ、私たちに質問をする権利があるはずなんです。「キリストの復活が、弟子たちの作り話だとしたら、どうしてその作り話のために、弟子たちは命をかけて働き、殉教までしたのか?」と問われるんです。私たちには、この質問に答える義務があるはずです。もしくは、「この世界を神が造ったのでなければ、この宇宙の最初の物質は、一体どこから生まれたのか?」とも問われるでしょう。私たち人類の最先端の科学を持ってしても、未だこの問いにはっきりと答えることはできていません。または、神様は私たちに、次のようにも問いかけておられるかもしれません。「なぜこの世界にはこんなにも苦しみが多いのかと問うあなたこそ、あなた自身の生き方が周りの人を苦しめているという事実をなぜ無視するのか?」一言で言うならば、神様は私たちにこう問うておられるわけです。「なぜ、あなたはわたしのことを罪に定めようとするのに、あなた自身の罪については無視しようとするのか?」

 このように私たちは、自分たちの疑問は神様にぶつけるのに、神様からの問いかけは無視しているんです。もしくは、問いかけられていることに気づいていたとしても、「分かりません」と言って誤魔化すんです。自分の罪を認めたくないからです。イエス様の権威を認めたくないからです。自分の人生を、自分の権威の下に置いておきたいからです。もしくは、群衆が怖いからです。周りの人たちが自分をどう思うかが恐くて、答えを出すことに躊躇しているんです。

 繰り返しになりますが、疑問を持つことは悪いことではありません。「聖書に書かれていることは本当だろうか?」と悩んでいいんです。「キリスト教は本当に信じるに値するものだろうか?」と考えていいんです。疑問に思うことは何でも、神様にお祈りしてお尋ねしてもいいし、本やインターネットで調べてもいいし、教会の人たちに遠慮なく質問していいんです。

 でも、質問をする権利があなただけにあると思わないでください。イエス様も、あなたに聞きたいことがたくさんあるんです。「あなたがわたしに質問をするなら、わたしもあなたに聞きたいことがあるよ」と言われているからです。「わたしに答えなさい」と言われているからです。「あなたはどうなの?」と尋ねられているんです。「あなたはなぜ、神の権威を認めないの?」と訊かれているんです。「今までと同じように、自分の力に頼って生きていくのか。それとも、わたしに従って生きていくのか」と問いかけられているんです。「なぜ、あなたの人生をわたしにゆだねないのか。わたしではなく、あなたが全てを支配したほうがいい理由が何かあるなら、わたしにちゃんと説明しなさい」質問をする権利は、本当は私たちではなく、イエス様がお持ちなのです。

 イエス様は、あなたを質問攻めにして困らせたいと思っておられるのではありません。あなたの正直な声を聞きたいと願っておられるのです。あなたが何を恐れて、何に怯えて生きているのか、知りたいと願っておられるのです。そして、あなたが握りしめている権威を、安心して預けてほしいと願っておられるのです。あなたが自分の力で動かしたいと願っている、あなたの人生の中を、イエス様が自由に歩き回ることを、恐れずに受け入れてほしいと願っておられるのです。

 今あなたがイエス様から問われていることは何でしょうか。問いかけられていたのに、聞こえないふりをしたことはなかったでしょうか。うやむやにしてしまったことはなかったでしょうか。あなたがこれまで逃げ続けて来た問いは何でしょうか。今週一週間は、イエス様からの語りかけに注意し、耳を澄ます一週間としましょう。イエス様と口喧嘩をしたって、勝てっこありません。誤魔化そうとしたって、見破られてしまいます。「わたしに答えなさい」という声が聞こえたなら、反論は諦めて、小細工は諦めて、正直にお答えすることにしましょう。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちの方にこそ質問をする権利があるのだと、勘違いしていました。あなたからの問いかけを無視して、答えるべきことに答えることもせずに、自分勝手に生きていました。どうか神様、私たちの人生にお入りください。私たちの人生を、あなたが願われるように、自由に、勝手に、動かしてください。どうぞ、お好きなようになさってください。自由に歩き回られるあなたに、私たちはついていきます。あなたについていって、あなたの問いかけをそばでお聞きし、その問いかけから逃げずに、精一杯お答えすることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。