マルコ12:1-12「愚かな主人の愛」(宣愛師)
2024年2月4日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』12章1-12節
1 それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。
3 ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。
4 そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。
5 また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
6 しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
7 すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』
8 そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
9 ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。
10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」12 彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。
愚かな農夫たちのたとえ
本日の聖書箇所は、「ぶどう園の農夫のたとえ」と言われたり、「邪悪な農夫たちのたとえ」と言われたりする箇所です。「愚かな農夫たちのたとえ」と呼んでも良いかもしれません。あまりに酷すぎると言わざるを得ないような、邪悪さと愚かさを持った農夫たちの話です。まずは、1節から5節までをお読みします。
1 それからイエスは、 たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。 垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。
3 ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、 何も持たせないで送り返した。
4 そこで、 主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。
5 また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
現代を生きる私たちにとっては、「イエス様は何の話をされているのだろうか?」「ぶどう園は何を表しているのだろうか?」と思うような話かもしれません。しかし、当時のイスラエルの人々にとっては、よく分かる話でした。このたとえ話の背景には、イザヤ書5章のみことばが鳴り響いていたからです。イザヤ書5章の1節と2節、飛んで7節をお読みします。
5:1 「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。
そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。
わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。
2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、
そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、
その中にぶどうの踏み場まで掘り、
ぶどうがなるのを心待ちにしていた。
ところが、酸いぶどうができてしまった。
〔・・・・・・〕
7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。
ユダの人は、主が喜んで植えたもの。
主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。
正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。
イザヤのことばは、イエス様のたとえ話とは細かいところで違っていますが、ポイントは同じです。「ぶどう畑」「ぶどう園」とは、イスラエルのことです。神様はイスラエルという国を、まるで新しいぶどう園を作るように、大切に大切に造られました。そこで「正義」と「公正」が行われ、すべての人々が幸せに暮らし、周りの国々にも祝福を広げていくようにと、このイスラエルという国を大切に大切にお造りになったんです。
それなのに、「見よ、流血。……見よ、悲鳴。」イスラエルの人々は、幸せな国を作るどころか、人殺しや偽りの正義に溢れてしまいました。もちろん神様は、そのままで放ってはおかれません。「悔い改めなさい」と、預言者たちを遣わしました。しかし、イスラエルの人々は、預言者たちの声にも耳を傾けませんでした。エレミヤ書の7章25節と26節もお読みします。
7:25 あなたがた〔イスラエル〕の先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わしたが、
26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けもせず、うなじを固くする者となり、先祖たちよりも悪くなった。
これが、イエス様のたとえ話の背景でした。ぶどう園の主人から遣わされた「しもべたち」。これは、神様から遣わされた預言者たちのことです。この預言者たちの言葉を聞いても、イスラエルの人々は悔い改めず、それどころか彼らを辱め、殺してしまった。しかも、それだけで彼らの悪事は終わらなかったんです。マルコの12章に戻って、6節から8節までをお読みします。
6 しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
7 すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』
8 そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
どうして農夫たちは、この息子を殺せば「相続財産は自分たちのものになる」なんてことを考えたのでしょうか。もしかすれば農夫たちは、怒った主人がやって来てもおかしくないところを、息子だけが一人でやって来たのを見て、父親がすでに死んでしまったものと思い込んだのかもしれません。そうだとしても、愚かすぎると思います。愚かで、邪悪で、心の底からねじ曲がっています。まさに、「邪悪な農夫たちのたとえ」であり、「愚かな農夫たちのたとえ」です。
愚かな主人のたとえ?
しかし、このたとえ話の中で最も愚かだったのは、この農夫たちではないと思うんです。たしかに、遣わされてきたしもべたちを殺し続け、最後には息子さえも殺してしまった、この農夫たちの愚かさは常軌を逸しています。ところが、この農夫たち以上に愚かであったのは、むしろこの主人ではないでしょうか。殴られても殺されても、自分のしもべたちを送り続けた。そして最後には、「私の息子なら敬ってくれるだろう」などという、あまりに楽観的なことを考えているこの主人。邪悪な農夫たちが、今度こそ反省してくれるのではないか、悔い改めてくれるのではないかと、この期に及んでまだ信じようとしているんです。「私の息子を遣わせば、今度こそ彼らも分かってくれるかもしれない。」この主人こそ、この物語の中で、最も愚かな人物に違いありません。
もちろん、この主人も最後には、農夫たちを滅ぼすことになります。9節から12節まで。
9 ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」12 彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。
愛する息子を殺された主人は、もうそれ以上は、農夫たちの悪行を忍耐しませんでした。「仏の顔も三度まで」と言うように、主人の忍耐にも限界が来たのでしょうか。いや、正確に言えば、主人の忍耐に限界が来たというよりは、「ここまで来たら、この農夫たちが悔い改めることはありえない」と、この主人でさえ諦めざるを得なかったということでしょうか。
「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」という言葉は、詩篇118篇からの引用です。エルサレムの権力者たちが、自分たちにとっての邪魔者だと思って殺してしまったイエス様こそが、実は真のメシアであった、実はイスラエルの「要の石」であった、という意味です。ところがエルサレムの人々は、聖書が語るこの真実に気づかず、イエス様を殺そうとし続けます。
私たち人間は、“勧善懲悪”の物語が好きだと思います。テレビドラマでも、映画でも、小説や漫画でも、「最後の最後で、悪者が痛い目に遭う」というような物語が人気になりやすい。古典で言えば桃太郎もそうですし、「半沢直樹」のドラマシリーズなんかは、もう見ていて爽快ですね。悪い奴らが最後に痛い目に遭って「めでたしめでたし」という話を、私たちは心のどこかで求めているのでしょう。ですから、このぶどう園のたとえを聞いても、最後にこの農夫たちが殺されたという結末部分で、どこかスカッとする思いになるのではないでしょうか。
しかし、農夫たちを滅ぼしたぶどう園の主人は、私たちと同じようにすっきりとした気持ちになったのだろうか、とも思うんです。「私の息子なら敬ってくれるだろう」とまで言って、農夫たちが悔い改めてくれることを最後まで信じていた主人は、結局は農夫たちを滅ぼすことになって、「ああ、良かった」と納得したのでしょうか。最後の最後まで、農夫たちが反省してくれることを待ち望んでいたこの主人は、この農夫たちが滅ぼされるという、私たちからすれば当然の結末にさえ、悲しみを覚えていたのではないかと思うんです。
ペテロの手紙第二の3章9節には、次のような言葉が書かれています。
3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
ここで、「約束」と言われているのはおそらく、“イエス様を殺してしまったエルサレムは、必ず滅ぼされる”という約束のことです。イエス様が十字架で殺されたのは紀元30年頃で、エルサレムが滅ぼされたのは70年頃。そして、このペテロの手紙が書かれたのは65年頃だと考えられます。そうすると、この手紙が書かれた時代には、「なぜ、イエス様を十字架にかけて殺したエルサレムが、まだ滅ぼされずに残っているのか」という疑問が起こったはずです。「イエス様が十字架で殺されてから、すでに何十年も経っているのに、なぜ神様は、あの邪悪なエルサレムを滅ぼさないでおられるのか?」
ロシアとウクライナの戦争や、イスラエルとハマスの紛争を見て、多くの命が奪われ続けている凄惨な現状を見て、私たちもまた、「なぜ神様はさばきを遅らせておられるのか?」と考えます。「なぜ神様は、一日も早く、あの邪悪な人々を滅ぼされないのか?」と。“勧善懲悪”の物語が大好きな私たちは、「今すぐにでも、あの指導者が殺されてしまえばいいのに」などと、口には決して出さないとしても、心のどこかで思っているかもしれません。
しかし、「死んでしまえばいいのに」と私たちが軽く考えてしまうその指導者たちのことさえ、神様はまだ信じ続けようとされているのかもしれないんです。最後まで悔い改めなければ、いつかは彼らも、滅ぼされてしまうでしょう。さばきを受けることになるでしょう。しかし、彼らを滅ぼしてもなお、神様の心は晴れることなく、むしろ悲しみながら、涙を流しながら、彼らをさばかれるのではないでしょうか。このような悲しみが、私たちには全く見当もつかない感情なのだとすれば、私たちの心はまだまだ、神の御心と一つになっているとは言い難いでしょう。
今日の聖書箇所は、「邪悪な農夫たちのたとえ」や、「愚かな農夫たちのたとえ」と呼ばれるような箇所です。しかし、私がこの箇所を改めて読んで思うのは、むしろこのたとえは、「愚かな主人のたとえ」とも呼べるのではないか、ということです。そして、この主人の愚かさが分からなければ、それを拒否し続けた農夫たちの愚かさも分からないはずです。なぜなら、これほどまでに忍耐し続けてくれた主人の愛に気づかず、拒絶し続けたということにこそ、この農夫たちの本当の愚かさがあるからです。そしてさらに言えば、この主人の愚かさが分からなければ、その愚かなまでの愛が分からなければ、なぜイエス様が、殺されると分かっていながらこの世界に来てくださったのか、そのことも理解できないはずです。
「わたしがあなたがたを愛したように」
以前、ある人と話していた時、その人がこんなことを言いました。「私が人に頼れないのは、人を信じられないからなんです。辛くて苦しい時に、誰かを信じて、誰かに頼って、でもその人がいなくなってしまったら、その人に見捨てられてしまったら、さらに悪い状況になる。どん底のどん底まで落ちてしまう。だから、人を信じられないんです。」その言葉は遠回しに、その時その人と話をしていた私のことも、心の奥底では信じることができないのだ、という意味でもありましたから、正直ちょっと落ち込んだことを覚えています。
「いつか見捨てられてしまうのではないか」と不安になり、人を信頼することができない。「今は優しくしてくれているこの人も、これ以上迷惑をかけられたら、自分を見捨てるのではないか。」「今は優しくしてくれているこの人も、本当の自分の姿を知ったら、自分の悪いところや、自分のダメなところを知ってしまったら、いつかは呆れて、いなくなってしまうのではないか。」そうやって不安になって、いや、実際にそんな経験を繰り返して、人を信じられなくなった。
私は、どうすればこの人に信じてもらえるのだろうか、と考えました。どうすればこの人に、心から信頼してもらえるのだろうか。そして、今日の聖書箇所を読む中で気付かされたことは、「この人に信じてもらえるまで、私がこの人を信じ続けられるかどうかだ」ということでした。「この人の悪いところやダメなところを知ったとしても、私がこの人を信じ続ける。この人が変わっていくことを信じ続ける。そうすることでしか、この人に信じてもらうことはできない」と。
そしてそのとき私は、ぶどう園の主人の凄さが分かったような気がしました。その愚かなまでの愛の理由が分かった気がしたんです。しもべたちを殺され続けてもなお、農夫たちが変わってくれることを信じ続けた主人の愛です。最後の一人になるまで、しもべたちを遣わし続け、最後には息子まで惜しまずに遣わしてしまうほどの愚かな愛です。
今月末には、年に一度の教会総会が行われます。新しい年度に向けて、様々な話し合いをすると同時に、過ぎた一年間の教会の歩みについて振り返る会議です。盛岡みなみ教会の今年度のテーマ聖句は、ヨハネの福音書13章35節でした。一つ前の34節と一緒にお読みします。ヨハネ13章、34節と35節。
13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」
「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、イエス様が弟子たちにどれだけ裏切られたとしても、それでも弟子たちを愛し続けたように、ということです。これは、ぶどう園の主人が、最後まで農夫たちを見捨てなかったように、ということでもあるかもしれません。農夫たちの偉そうで頑なな態度を見てもなお、彼らが悔い改めることを信じて、愛する息子まで送ってしまった、そのような愛です。これほどまでに、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい、と言われたんです。ぶどう園の主人の愚かさを、あなたがたも互いに持ちなさい、と言われたんです。それでこそわたしの弟子だ、と。
「人を信じられない」と言ったあの人に、信じてもらえるような愛を、この一年間、私たち盛岡みなみ教会は示して来たでしょうか。この愛が、私たちの間に確かに存在していたでしょうか。一度でも裏切られれば、咄嗟に愛することを止めてしまうのが、常識的な感覚でしょう。一人目のしもべが、傷だらけの姿で帰って来た。その時点で、すぐに農夫たちを滅ぼしてしまおうというのが、当然の反応でしょう。でも、それでも主人は、愛することを止めなかった。それは、私たちの常識からすれば、明らかに愚かなことです。しかし、それが神の愛だったのです。
だから、イエス様の弟子とされた私たちは、たとえ拒絶されたとしても、そこで愛することを諦めません。一度や二度裏切られたくらいでは、私たちは愛することを止めません。私たち自身もまた、この方を何度も何度も裏切ったのに、そのたびに見捨てられずに愛され続けて来たからです。私たち自身もまた、誰のことも信じられず、誰のことも心から頼ることができなかったのに、この方の愛なら信じても良いと思えたんです。父なる神様が遣わしてくださった、神のひとり子によって私たちに示された愛です。
このひとり子の愛こそ、私たち盛岡みなみ教会を支えている「要の石」です。私たちキリスト教会は、この「要の石」によって建てられた、新しいイスラエルだとも言えます。私たちの教会が拠り所としている「要の石」は、裏切られても愛し続けてくださった、愚かなまでの愛の持ち主であるイエス・キリストです。私たちは、この方の弟子とされているのです。私たちは、この方の愛を、この方の愚かさを、この盛岡の地に表すために建てられた教会なのです。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。「あんな奴らは滅びるべきだ」などと簡単に決めつけてしまう私たちは、それでも彼らを愛そうとされる、あなたの愛を理解できませんでした。あなたの愚かさを理解できませんでした。しかし、私たちが今日まで滅ぼされずここにいて、イエス様を信じるという恵みに与ることができているのが、あなたのその愚かなまでの愛によるものだと知った今は、人を簡単に滅びに定めることはできなくなりました。神様、人を見捨てず愛し続ける愛を、私たちにもお与えください。裏切られても、人を信じ続ける愛を与えてください。そうして私たち盛岡みなみ教会が、人を信じることができないと悩むあの人にも、信じてもらえるような愛の教会となれるように、今一度、あなたの弟子として導いてください。御名によって祈ります。アーメン。