マルコ12:18-27「生きている者の神」(宣愛師)

2024年2月25日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』12章18-27節


18 また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
19 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。
21 次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。
22 こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。
23 復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」
24 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
25 死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
26 死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」



「サドカイ人たち」:なぜ復活を否定したのか?

 一昨年の墓前礼拝の日、2022年10月30日に、マルコではなくマタイの福音書でしたけれども、今日の聖書箇所と同じ場面から説教をしました。なので、今回は読み飛ばして次の箇所に進んでしまったほうが良いかなとも考えたのですが、たとえ同じ場面だとしても、二年前の盛岡みなみ教会と、今日の盛岡みなみ教会とでは、聞き取るべき神様のみことばも違ってくるはずだと思いました。まずは18節をお読みします。


18 また、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

 「サドカイ人」と呼ばれる人々が登場します。彼らはなぜ、復活を否定していたのでしょうか? この人たちが復活を否定するのには、ちゃんとした理由がありました。サドカイ人というのは、お金持ちの貴族たちでして、今の自分たちの生活に満足していた人たちです。現世で十分すぎるほどの幸せを味わっている人たちです。ですから、彼らは「復活」なんて必要としていなかったんです。復活を信じるということは、新しい世界を信じるということです。ただ単に死んだ人が生き返るということだけではなく、この世界も新しくなるということです。お金持ちで裕福なサドカイ人たちは、新しい世界なんて望んでいませんでした。

 そんなサドカイ人たちにとって、復活というのは邪魔でさえありました。もし、復活なんてものを民衆が信じ始めてしまったら、どうなるでしょうか。権力者たちによる脅しが通用しなくなるんです。「我々に逆らう奴はどうなっても知らんぞ」と脅しても、復活を信じる人々は、脅しを恐れないんです。たとえ殺されてしまったとしても、神様が新しい命を与えてくださると信じているからです。権力者たちの脅しに負けずに、闘い続けることができるんです。だからサドカイ人たちは、なんとしてでも復活を否定しようとしました。

 彼らは、聖書の中で「復活」について書かれている部分も否定しました。旧約聖書は「モーセ律法」と「預言書」の二つに分けることができますが、サドカイ人たちは「モーセ律法」だけを聖書として認め、「預言書」は聖書として認めなかったんです。「預言書」には、金持ちたちが貧しい人々を苦しめるような世界を、神様が必ず造り変えてくださると書かれています。この理不尽な世界を、弱く貧しい人々が苦しみ続ける世界を、神様が必ず、復活の力によってつくり変えてくださると、預言者たちは語り続けています。金持ちのサドカイ人たちにとっては、預言者たちの言葉は、都合の悪い教えです。そんなものを聖書だとは認めない。

 そんなサドカイ人たちが、イエス様にこんな質問をしました。19節から23節をお読みします。


19 「先生、モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』
20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。
21 次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。三男も同様でした。
22 こうして、七人とも子孫を残しませんでした。最後に、その妻も死にました。
23 復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。七人とも彼女を妻にしたのですが。」

 当時の人々にとって、子どもがいないということは大問題でした。なぜなら、もし子どもがいないままで死んでしまったら、自分の財産や、自分の血筋や、自分の名前、つまり“自分という人間がこの世界に存在した証し”を残してくれる人がいない、ということになるからです。ですからモーセの律法では、もし子どもがいないままで死んでしまった人がいたら、その人の兄弟がその人の妻と再婚して、代わりに子どもを残さなければならない、と命じられていたんです。今の私たちの感覚からすれば、ちょっと信じられないような命令ですけれども、少なくとも当時の人々にとっては重大な問題でした。当時の人々に対する神様のご配慮だったとも言えるでしょう。

 しかし、この命令を守ったにも拘わらず、七人の兄弟が皆、子どもを残さずに死んでしまった。そして最後に、その妻も死んでしまった。実際にこんなことが起こるとは思えませんが、あり得ない話でもない。サドカイ人たちはイエス様を問い詰めます。「もし復活なんてものがあるとすれば、おかしなことになりますよね? “財産は誰のものになるのか”とか、“誰のことを一番愛しているのか”とか、ややこしいことになっちゃいますよね? どうですか、答えられないでしょう?」


「生きている者」:明らかに死んでいるのに?

 理屈をこねて復活を否定しようとするサドカイ人たち。彼らの嫌味な質問に対するイエス様のお答えは、どのようなものだったでしょうか。24節から27節までをお読みします。


24 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
25 死人の中からよみがえるときには、人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
26 死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。
27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたがたは大変な思い違いをしています。」

 「死人の中からよみがえるときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。」このことばを聴くたびに、少し不安になってしまいます。「まなかちゃんと僕の結婚はどうなっちゃうの? 復活の世界では、ただの他人同士になっちゃうの?」と心配になるわけです。しかし、いらぬ心配です。イエス様が言いたかったのは、「復活の世界では夫婦はバラバラになる」ということではなく、「結婚」という一対一に限定された愛の関係や、他の人々を排除してしまうような愛の関係から、より完全で、より包括的な愛の関係へと広がっていくということだからです。夫婦に限らず、親子や友人やそれ以外の人々とも、今まで以上に深く愛し合える関係になる、ということです。

 復活の世界では、財産を相続するためとか、血筋を守るためとか、名前を残すためとか、そういうことのための「結婚」という枠組みは必要がなくなります。今の世界の感覚で言えば、特に日本人の感覚で言えば、結婚をしないとか、子どもがいないということは、ものすごく大問題であるかのように思われやすいかもしれません。もちろん聖書にも、「人がひとりでいるのは良くない」とあって結婚が祝福されていますし、子どもが生まれるということは神様からの最大の祝福として語られています。しかし、だからと言って、結婚をしなければ幸せになれないとか、子どもがいなければ人生に意味はないとは、イエス様は言いません。むしろ復活の世界には、それらの祝福を超えた祝福があるのだと、イエス様は仰るんです。

 26節と27節のイエス様のみことばも、一度聞いただけでは理解することが難しい箇所です。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」これはどういうことでしょうか。なぜ、明らかに「死んだ者」であるはずのアブラハムたちが、「生きている者」だと言えるのでしょうか。アブラハムたちが、死を超える特別な力を持っていたということでしょうか。そうではありません。アブラハムもイサクもヤコブも、間違いなく死にました。死を超える特別な力など、彼らは持っていませんでした。それでは、どうして彼らは「生きている者」なのでしょうか。

 人類は昔から、永遠の命を求め続けてきました。自分という存在が消えてしまわないように、忘れられてしまわないように、あらゆる手段を尽くしてきました。魔術や呪術を行う人々もいました。ピラミッドを作り、ミイラになった人々もいました。もしくは、ユダヤ人たちのように、子どもを生むことによって、自分の存在を永遠に残してもらおうと考えた人々もいました。現代では、マイナス196度の液体窒素を使って、死体を冷凍保存している人たちがいるそうです。100年くらい経って科学技術が発展すれば、いつか人間を生き返らせることができるようになるかもしれないから、その時まで自分の身体を冷凍しておくのだそうです。何百万円ものお金を専門業者に払って、100年間の保存という契約を結ぶのです。

 そうやって大金をはたいている方々には失礼かもしれませんが、私たちは、そんな面倒なことはしなくていいなあと思います。魔術のやり方なんて分からなくていいし、ピラミッドもミイラも作れなくていい。子どもも家族もいなくて、誰からも覚えられずに死んでいくとしても、私の名前を呼んで、「わたしはあなたの神だ」と言ってくださる方が、私を生かし続けてくださるんです。「わたしはあなたの神だ」と言ってくださる神が、今日も明日も生きておられて、私を愛して、生かしてくださるんです。


「大変な思い違い」:生きる力が湧いてこない?

 「あなたがたは、聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか」と、イエス様はきついことを言われます。私たちはどうでしょうか。「聖書を知っている」と言えるでしょうか。聖書の色々なことに詳しくても、実は聖書が分かっていないということがあります。サドカイ人たちのように、聖書に書かれた細かいルールをこねくり回して人の揚げ足をとることはできるけれども、本当に肝心なことが分かっていないということもあり得るわけです。

 聖書とは何でしょうか。聖書には何が書かれているのでしょうか。もちろん聖書には、色々と細かいルールも書かれています。上手に生きていくための知恵も書かれています。しかし究極的には、聖書において語られているのはたった一つのことです。それは、“死すべき人間と永遠の契約を結ばれた神”のことです。どんなに熱心に聖書を読んでも、この契約の素晴らしさが分からないなら、ほとんど意味はないとさえ言えます。聖書を読むということは、あれこれと知識を得て、詳しくなって、なんだか少し生きるのが上手になる、ということではありません。人間力が増す、ということでもありません。死すべき自分を生かし続けてくださる神を知るということです。

 本日午後の教会総会の資料にも書きましたけれども、2023年の盛岡みなみ教会の歩みは、どちらかと言えば、生き生きとしたものではなかったと思います。“精力的に活動した”と言えるような一年ではなかったと思います。教会メンバーそれぞれに困難があり、生き生きと教会活動ができるような状況ではなかった。エネルギーが足りていなかった。今もそうかもしれません。

 しかし、それでも確かに、この一年間も、教会は生きていたと思います。死んではいなかったと思います。私たちの内側に、困難を乗り越えるエネルギーがあったからではありません。隠れた力があったからではありません。むしろ、私たちの内側には何もありませんでした。空っぽでした。しかし、神様が生きておられました。そして、私たちは神様を礼拝し続けました。聖餐式を通して、この神様が私たちと結んでくださった、いのちの契約を確かめ続けました。

 「生活」という言葉があります。「生きて活動する」と書きます。「信仰生活」とか「教会生活」という言葉もあります。「生きて活動する」というのは、実は難しいことです。生活さえままならないことがあります。それは当然のことです。私たち人間は、死にゆく存在だからです。生まれながらにして、死に傾いている存在だからです。

 私たちは、「生きる力が湧いてこない」と悩むことがあります。「エネルギーが湧いてこない」と思い悩みます。しかし、そのとき私たちは、「大変な思い違い」をしているのです。生きる力が、自分自身の中から湧き上がってくるものだと、勘違いをしているのです。私たちの中には、生きる力がなくてもいいんです。死んだように生きてしまうような毎日でもいいんです。生きる力は、私たちの内側から湧き上がるものではありません。ただ、復活の主から来るものです。復活の力によって死の力を打ち破った、イエス・キリストだけが与えてくださるものです。

 私たちは、死んだように生きて、死んだように眠ります。死んだようにしか生きられない自分に嫌気が差すこともあります。しかし、それで当然だし、それで十分なんです。私たちではなく、イエス様が生きておられるからです。「わたしがあなたを生かすから、あなたはあなたを生かせなくてもいい」と言ってくださるからです。死すべき私たちが為すべきことは、この方から離れないことだけです。この方にしがみつき、この方を礼拝し続けることだけです。そこにこそ、私たちの“生活”があるからです。

 最後に、使徒パウロの手紙の中から、二つのみことばをお読みして、本日の説教を閉じたいと思います。ローマ書の8章11節と、ガラテヤ書の2章20節です。


イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなたがたのうちに住んでおられるなら、
キリストを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。
(ローマ人への手紙 8章11節)

もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きているいのちは、
私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、
神の御子に対する信仰によるのです。
(ガラテヤ人への手紙 2章20節)

 お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。私たちのうちには、私たちを生かす力はありません。死んだように生きることしかできなくなることもあります。しかし、それが当然なのだと分かりました。思い違いをしていました。私たちの内側に希望を探し求めることは、もうやめにします。生きておられるあなたを礼拝し続けます。冷凍保存なんてしなくても、子どもがいなくても、誰からも忘れられて死んでいくとしても、私の名前を呼んで、「わたしはあなたの神だ」と言ってくださる方が、私を見捨てず、生かし続けてくださる。この事実のゆえに、この信仰のゆえに、死すべき私たちは今日も生きることができます。死んだようにしか生きられない、惨めな日々にこそ、あなたの愛と恵みが伴っていてくださいますように。復活の主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。