黙示録10:8-11「開かれた巻物」(宣愛師)
2024年5月19日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの黙示録』10章8-11節
8 それから、前に天から聞こえた声が、再び私に語りかけた。「行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」
9 私はその御使いのところに行き、「私にその小さな巻物を下さい」と言った。すると彼は言った。「それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10 そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
11 すると私はこう告げられた。「あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない。」
「迫害が終わるように」?
本日はペンテコステ記念礼拝です。ペンテコステというのは、簡単に言えば、キリスト教会が世界中に広がり始めた日です。イエス様の福音が世界中に広がり始めた日です。ですから、私たちが所属する日本同盟基督教団では、毎年このペンテコステの日を、「国外宣教デー」としています。世界宣教のために、海外で働いている宣教師たちのために、特別に祈る日としているわけです。
週報にも毎週、順番に祈祷課題を載せていますが、現在、同盟教団からは4つの国に宣教師が派遣されています。ブラジルには浜田先生ご夫妻、タイには長谷部先生、モンゴルには矢田先生、そして東南アジアには林先生ご夫妻が派遣されています。しかし、なぜ林先生ご夫妻だけ、国の名前ではなく、「東南アジア」という曖昧な表現なのでしょうか。それは、東南アジアにあるこの国では、イスラム政府によるキリスト教徒への迫害があり、国の名前を公にすることは危険だからです。
私が東京基督教大学で学んでいた頃、東南アジアとは別の地域でしたが、やはり迫害が非常に厳しい国の一人の牧師が大学に来てくださり、お話を聞く機会がありました。「私たちのために祈ってほしい」と、その牧師は言いました。私はてっきり、「迫害が終わるように祈ってほしい」という話だろうと予想していました。ところがその牧師は、「迫害が終わるように祈ってほしい」ではなく、「迫害の中でもイエスを証しし続けられるように祈ってほしい」と言ったんです。
私たちはどうでしょうか。「迫害」とまで言えることは無いかもしれませんが、私たちも様々な苦難に遭うでしょう。そのとき私たちは、「神様、この苦しみを取り去ってください」と祈るわけです。もちろん、その祈りは間違っていないと思います。しかし、私たちがまず祈るべき祈りは、「苦難を取り去ってください」ではないのかもしれません。むしろ私たちは、「苦難の中でもあなたを証しできますように」という祈りをささげられるようになる必要があるのかもしれません。
迫害の中にあっても、苦しみの中にあっても、イエス・キリストを証しし続ける。いや、迫害や苦しみの中でこそ、イエス様の福音は輝いていく。キリスト者のこのような生き方について、普通の人とはどこか違っている、キリスト者の人生観について、今日はヨハネの黙示録からご一緒に学んでいきたいと思います。
「イエス・キリストの“啓示”」
先日、KGKの学生たちとのミーティングがありまして、「次の聖書研究会で、聖書のどの書物を学ぶか」について話し合ったところ、「ヨハネの黙示録を学ぼう」ということに決まりました。「一人で読んでもよく分からない」と言った学生もいました。みなさんの中にも、「黙示録は読んだことはあるけど、何が言いたいのかよく分からなかった」という方がいるかもしれません。
今日の説教だけで黙示録の全体を学ぶことなど到底できませんが、「結局のところ何が言いたいのか」ということを、少しでもご説明できればと願っています。まずは1章1節をお読みします。
1:1 イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。
ここで「黙示」と訳されているギリシャ語は、「啓示」とも訳せる言葉です。「啓示」というのは、「隠されていたものを啓いて示す」ということです。「黙示」と訳してしまうと、逆に「はっきり言わない」とか「隠してしまう」みたいな印象を受けるかもしれませんが、本当はその逆なんです。「黙示」という翻訳が間違っているわけではないんですが、「啓示」のほうが正確だと思います。
では、一体何が明らかにされていくのでしょうか。実は1章1節には、この「啓示」が示されていく順番が書かれています。その順番というのは、「神」→「キリスト」→「御使い」→「ヨハネ」→「しもべたち」という順番です。神からキリストへ、キリストから御使いへ、御使いからヨハネへ、そしてヨハネからしもべたちへ。「しもべたち」というのは、私たちキリスト者のことです。
そして実は、ヨハネの黙示録の中には、この順番で手渡されていく、ある物が登場するんです。それは何かと言いますと、「巻物」と呼ばれるものです。5章の1節から4節までをお読みします。
5:1 また私は、御座に着いておられる方[神]の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。
2 また私は、一人の強い御使いが「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げているのを見た。
3 しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。
4 私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。
天におられる神が「巻物」を持っておられる。そしてこの「巻物」の中に、神の「啓示」が書き記されている。ところが、「その巻物を開くことのできる者」がいなかったので、ヨハネは激しく泣いてしまいます。すると、次の場面で状況が変わります。5章の5節から7節をお読みします。
5:5 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」
6 また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。
7 子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。
「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」そして「屠られた……子羊」と呼ばれるお方、つまり、十字架にかかったイエス・キリスト。この方だけが、「巻物」の封印を解くことができる。なぜ、イエス様だけがこの「封印」を解くことができるのでしょうか。なぜ、イエス様以外には、この封印を解くことができないのでしょうか。その理由については、後ほどご説明したいと思います。
イエス様が七つの封印を解いていく様子は、6章から8章に記されています。今日はその部分は割愛してしまいますが、大切なのは、封印が解かれた「巻物」はどうなったのか、ということです。「巻物」はどこへ行ったのか、ということです。10章8節から11節までを改めてお読みします。
10:8 それから、前に天から聞こえた声が、再び私に語りかけた。「行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」
9 私はその御使いのところに行き、「私にその小さな巻物を下さい」と言った。すると彼は言った。「それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10 そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
11 すると私はこう告げられた。「あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない。」
イエス様が封印を解いた「巻物」は、御使いの手に渡されていました。そしてこの御使いが「開かれた巻物」を、ヨハネのところへ持って来るんです。1章1節に書かれていた通り、「巻物」はまず「神」から「キリスト」に渡され、「キリスト」から「御使い」へ渡され、そして「御使い」から「ヨハネ」へと渡された。ここで、ついにヨハネは「しもべたち」に、つまり私たちキリスト者のために、「啓示」を語ることができるようになるんです。「それを取って食べてしまいなさい」と言われたヨハネは、言われたとおりにその巻物を食べました。ここからいよいよ、「巻物」の中身が明らかになっていきます。ここからが本番です。皆さん、ついてきてくださいね。
「開かれた巻物」 のメッセージ
「開かれた巻物」には、何が書かれているのでしょうか。「巻物」の内容を理解するためには、ヨハネが「巻物」を食べる前と食べた後の違いを比べる必要があります。まず、ヨハネが「巻物」を食べる前に預言したことを見てみましょう。9章の20節と21節をお読みします。
9:20 これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということをせず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。
21 また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。
ヨハネが「巻物」を食べる前に預言していたのは、神の裁きとしての「災害」と、この「災害」を目の当たりにしても悔い改めなかった人々の姿でした。どんなに厳しい裁きを受けても、人々は悔い改めない。むしろ、ますます悪事を行うようになっていく。神の裁きだけでは、人々を悔い改めに導くことはできない。これが、「巻物」を食べる前にヨハネが預言したことでした。
しかし、ヨハネが10章で「巻物」を食べた後は、預言の内容が大きく変わっていきます。神の裁きだけではない、別の重要な要素が加えられていくんです。11章1節から4節をお読みします。
11:1 それから、杖のような測り竿が私に与えられて、こう告げられた。「立って、神の神殿と祭壇と、そこで礼拝している人々を測りなさい。
2 神殿の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはいけない。それは異邦人に与えられているからだ。彼らは聖なる都を四十二か月の間、踏みにじることになる。
3 わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」
4 彼ら[二人の証人]は、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台[教会 (1章20節参照)]である。
「四十二か月」とか「千二百六十日」という言葉の意味についても、今日はお話ししません。ここで注目したいのは、「二人の証人」とは誰のことか、ということです。4節を見てみると、「彼らは……二つの燭台である」と書かれています。1章20節には、「燭台」というのは「教会」のことだと書かれているので、「二人の証人」とは「教会」のことです。では、なぜ「二人」なのかと言うと、だれかの罪を裁判で裁く場合には、二人以上の証人が必要だ、と旧約聖書に書かれているからです(申命記17章6節など)。「二人の証人」とは、証人として働く教会のことなんです。
それでは、教会はどのようにして、証人としての使命を果たすのでしょうか。11章の7節と8節、飛んで11節から13節をお読みします。
11:7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
……11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。
13 そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。
「二人の証人」すなわち教会は、「獣」の力によって殺されてしまいます。「獣」とは何か、ということについても、今日は詳しくお話ししませんが、神様に反逆する存在だということは、なんとなく分かっていただけると思います。この「獣」によって、教会は迫害を受けて殺されていく。十字架にかけられて殺されたイエス様と同じように、権力者たちによって押し潰されていく。
しかし、それでも教会はよみがえり、再び立ち上がります。「獣」が教会をどれだけ迫害しても、教会を滅ぼすことはできないんです。神様がよみがえらせてくださるからです。迫害されればされるほど、教会は力強く広がっていきます。今、岩手県にいるキリスト者は5000人くらいだそうですが、キリシタン大迫害の時代には数万人のキリシタンがいたと言われます。迫害を受けても神を信じ続けるその誠実な信仰に、多くの人々は真理を見出したのではないでしょうか。
教会の証しと殉教と復活を見て、人々はついに悔い改めます。ヨハネが「巻物」を食べる前に預言したことは、神の裁きだけでは人々は悔い改めない、ということでした。しかし、ヨハネが「巻物」を食べた後に明らかになったことは、迫害の中でもイエス様を信じ続ける教会の証しによって、人々は悪事を悔い改めて神を礼拝するようになる、というメッセージでした。
「腹には苦いが…口には蜜のように」
ここまで考えてみると、なぜ巻物の封印を解くことができたのがイエス様だけだったのか、ということも分かって来るはずです。十字架にかかられたイエス様だけが、この巻物を開くことができる。罪人たちの策略によって十字架にかけられてもなお、「父よ、彼らをお赦しください」と祈られたイエス様だけが、この巻物の封印を開くことができる。黙示録が語っているメッセージは、とても難しく分かりにくいものですが、ある意味ではシンプルなことなんです。私たち教会が模範とすべき生き方を指し示すことができるのはイエス様だけだ、ということです。
黙示録が語る「啓示」の内容を理解したとき、私は、あの牧師が言っていたことの意味が分かったような気がしました。「迫害が終わるように」ではなく、「迫害の中でもキリストを証しし続けられるように祈ってほしい」と言った、あの牧師の覚悟が、ほんの少しかもしれませんけれど、分かったような気がしました。また、東南アジアの林先生ご夫妻のように、迫害の厳しい国へと向かう宣教師たちの覚悟が、やはりほんの少しだけかもしれないけれど、分かったような気がしました。
迫害が厳しいからこそ、本物の証しができるんです。苦難の中で語られ続ける福音だからこそ、人々の心を動かす真実の言葉となるんです。私たちはどうでしょうか。迫害を受けてはいないかもしれません。でも、それぞれに苦難があるはずです。それぞれに罪の誘惑を受けているはずです。その苦難や誘惑の中でこそ、私たちが信じる福音が本物なのかどうかが明らかになるはずです。
学校ではどうでしょうか。クラスメイトの中に、周りの人から仲間外れにされ、いじめられているような人がいるかもしれません。その人と仲良くすれば、自分も巻き込まれてしまうかもしれない。自分も仲間外れにされてしまうかもしれない。しかしそのような時にこそ、私たちが信じている福音が本物であるかどうかが、周りの人々の目に明らかになるのではないでしょうか。
職場ではどうでしょうか。不正を行なったほうが、ズルをしたほうが、自分たちにとって利益になると思える時に、それでも誠実に働く道を選ぶ。たとえ自分たちの不利益になるとしても、誠実な仕事を行い続ける。「バレなきゃいいじゃないか」と、周りの人々は言うかもしれません。しかし、そのような状況でも誠実に生き続けようとするキリスト者の姿を見たときに、「この人が信じる神は本当に存在するのかもしれない」と気づいてくれる人が現れるのではないでしょうか。
改めて、10章8節から11節をお読みしたいと思います。
10:8 それから、前に天から聞こえた声が、再び私に語りかけた。「行って、海の上と地の上に立っている御使いの手にある、開かれた巻物を受け取りなさい。」
9 私はその御使いのところに行き、「私にその小さな巻物を下さい」と言った。すると彼は言った。「それを取って食べてしまいなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10 そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
11 すると私はこう告げられた。「あなたはもう一度、多くの民族、国民、言語、王たちについて預言しなければならない。」
この「巻物」が語るのは、「多くの民族、国民、言語、王たちについて」です。この言葉は実は、「多くの民族、国民、言語、王たちに向かって」とも訳すことができます。東南アジアのあの国でも、そのほか厳しい迫害がある世界中の国々でも、人々に向かって福音を証しし続ける宣教師たち、牧師たち、キリスト者たちがいます。私たちは、「迫害が終わるように」と祈ります。しかしそれと同時に、「迫害の中でも教会が主の道を歩み続けられるように」とも祈りたいと思います。
また、この盛岡の地にある私たちも、同じ道を歩んでいきたいと思うんです。苦しみの中にあっても、いや、苦しみの中にある時こそ、この福音を証しし続けたいと思うんです。「早くこの苦しみを終わらせてください」とも祈ります。そう祈らざるを得ないほど苦しい日々があります。しかし、それと同時に私たちは、「この苦しみを通して、あなたの福音を輝かせてください」と祈れる私たちへと成長していきたい。苦しみを避けようとするだけの私たちではなく、苦しみの中でこそ輝く十字架の福音を信じる私たちにならせていただきたい。そして、苦しむ人、痛む人が周りにいるなら、見て見ぬふりをして避けるのではなく、その苦しみを共に苦しむ私たちになっていきたいと思うんです。
「巻物」によって啓示されたメッセージは、「腹には苦いが……口には蜜のように甘い」と書かれています。日本語ではむしろ「良薬口に苦し」なので、黙示録の言い方とは逆なんですが、意味はだいたい同じです。苦いものの中にこそ、本当に良いものがある、ということです。ヨハネが受け取った「巻物」は、胃もたれしてしまうような、簡単には消化できないような「啓示」でした。しかし、その苦さの中にこそ、福音の喜びが明らかになる。苦みを知らなければ味わうことのできない、真の幸いがある。この苦みと甘み、苦しみと喜びを分かち合うところにおいてこそ、私たち盛岡みなみ教会の宣教は、真理の言葉として、信頼できる言葉として、人々の心に届いていくのではないでしょうか。お祈りをいたします。
祈り
天の御座についておられる、私たちの父なる神様。世界中で働く仲間たち、特に迫害の中にある仲間たちのことを思えば、「迫害が終わりますように」「苦しみが終わりますように」とばかり祈ってしまう私たちです。苦みなしの甘み、迫害なしの福音ばかり願い求めてしまう私たちです。どうか、まず祈りの言葉において、私たちを成長させてください。「苦しみの中でこそ、あなたの福音を証しできますように」と祈ることのできる私たち、そしてその祈りにおいて、仲間たちを励ますことのできる私たちとさせてください。十字架にかけられてもなお罪人たちを愛し続けてくださったイエス様だけが、私たちの真の生き方を示してくださいます。ただイエス様の道を歩み、イエス様の生き様を証しし続ける私たちとさせてください。 イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。