ルカ12:32「小さな群れよ、恐れるな」(宣愛師)
2024年5月26日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ルカの福音書』12章32節
32 小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。
「小さい者」たちの「小さな群れ」
盛岡みなみ教会の創立20周年、おめでとうございます。そして、この20年間、盛岡みなみ教会を守り導いてくださった、私たちの主イエス・キリストの御名を賛美いたします。今日はお祝いの日です。めでたい日です。もちろん、そもそも日曜日の礼拝というのは、イエス様の復活をお祝いするものですから、日曜日の礼拝はいつでもめでたいものなんですが、それでも今日は特別なお祝いの日、特別な喜びの日です。20年間、イエス様が私たちを守ってくださった。
しかし、この特別な喜びの日にあっても、私たちは本当に喜べているかと問われると、どうでしょうか。喜んでいる場合だろうかと、心のどこかで思ってしまうところがあるかもしれません。めでたく20周年を迎えることができた。でも、これからあと何年やっていけるだろうか。人数も決して多くはない。経済的にも厳しい状態が続いている。このままいけば、繰越金もあと数年で底を突く。イエス様は、「小さな群れよ、恐れることはありません」と言われた。しかし果たして、私たちはこの言葉を素直に信じられるでしょうか。
「小さな群れ」であるということは、単に人数が少ないというだけではありません。この教会に集められている私たち一人一人が「小さい者」だ、ということでもあります。今日はお祝いの日です。めでたい日です。しかし、この楽しい時間が終わってしまったら、月曜日になってしまう。「小さい者」である私たちは、またあの憂鬱な日常に引き戻されていく。お祝いの日であっても、素直に喜ぶことができない私たちの生活があるかもしれません。「小さな群れよ、恐れることはありません」と言われても、喜んで受け入れることができるでしょうか。
「小さい」という言葉、μικρός(ミクロス)というギリシャ語は、ルカの福音書のキーワードだと言って差し支えないだろうと思います。たとえば、ルカの福音書9章には、次のような話が記録されています。9章46節から48節までをお読みします。
9:46 さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
47 しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、
48 彼らに言われた。 「だれでも、 このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、 わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者(μικρός)が、一番偉いのです。」
「だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」岩手県の小学校や中学校では、運動会や体育祭が行われる季節になっています。身体を思い切り動かす喜びや、仲間と一緒に頑張る喜びを味わえるという意味では、運動会や体育祭には一定の意義があるだろうと思います。しかしそこで、「だれが一番偉いか」という議論が始まってしまう。「だれが一番足が速いか」「だれが一番活躍したか」ということになってしまう。ただ単に「勝って嬉しい」「負けて悔しい」だけなら良いでしょう。しかし、「自分のおかげで勝った」とか、「あいつのせいで負けた」という争いや陰口が生まれる時に、「悔しい」という次元とは全く異なる苦しみを味わわされる子どもたちがいるわけです。
しかし、イエス様が王様として治める「神の御国」では、「だれが一番偉いかという議論」は消え去ります。「一番小さい者が、一番偉いのです」というイエス様のみことばに従うところでは、すべての人が「小さい者」となることを求められます。「だれが一番偉いか」ではなく、「一番小さい者が、一番偉いのです。」そこに生まれるのは、見苦しい争いではなく、互いに愛し合う神の家族です。イエス様が「小さい者」を受け入れてくださったように、私たちも互いを受け入れ合う。足が速いとか遅いとか、能力があるとかないとか、優秀な人間かどうかとか、そんなことは全く関係のないところで、「小さい者」たちが互いを受け入れ合い、愛し合う。
このことを考える時に、どうして神様は、「小さな群れ」に「御国を与えてくださる」のか、ということも分かってくるはずです。「小さな群れ」だからこそ、「小さい者」たちが集まる群れだからこそ、そこが「御国」となっていくんです。もっと正確に言えば、すでにそこで「御国」が始まっているんです。「あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださる」という翻訳は間違っていないのですが、「与えてくださる」と聞くと、今はまだ与えられていない、という印象が強くなってしまいます。しかし、ギリシャ語から直訳をすれば、「あなたがたの父は、あなたがたに御国を与えることを喜ばれた」。たしかに、「御国」はこれから与えられるものです。まだ完成してはいない。しかし、今すでに与えられているものでもある。「小さな群れ」だからこそ、「小さい者」たちが愛し合う群れだからこそ、すでにそこは、「小さい者」を愛する神の御国となっている。
ところで、皆さんに勘違いしていただきたくないのですが、「小さい者」というのは、子どものことだけではありません。「イエス様は小さい者を愛される」と聞くと、「自分はもう子どもじゃないからなあ」と諦めモードになってしまう大人たちもいるかもしれません。「自分はもう子どもじゃないから、イエス様に優しく手を取っていただくようなことは期待しちゃいけない」なんて思ってしまう人がいるかもしれません。でもそれは勘違いです。大人であっても、イエス様の目には「小さい者」です。ルカの福音書にはもう一人、「小さい者」が登場します。19章1節から7節までをお読みします。
19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かった(μικρός)ので、群衆のために見ることができなかった。
4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
ザアカイは取税人の親分でした。お金持ちでした。純粋無垢な子どもとは似ても似つかない、むしろ正反対の存在だと言ってよいでしょう。しかしルカの福音書は、おそらく意図的に、彼は μικρός(ミクロス)だったと語るんです。単に「背が低かった」ということを説明したかっただけではないと思います。ルカの福音書はあえて、彼のこの「小ささ」に注目して、彼が μικρός だったということに注目して、深い意味合いを込めてこの言葉を使っているのではないかと思うんです。
人々はザアカイを「罪人」と呼んでいました。「取税人」という仕事は、人々から「罪人」だとして嫌われていました。差別されていました。イエス様の姿を一目見たいと思っても、だれ一人、ザアカイのために道を開けてくれる人はいませんでした。「ザアカイ、こっちに来れば、イエス様のことがよく見えるぞ!」と言って、場所を空けてくれるような、そんな優しい友達もいません。ところがイエス様は、イエス様だけは、この人を迎え入れた。金持ちで、嫌われ者のザアカイ。周りの人たちは文句を言います。しかしイエス様にとっては、彼もまた「小さい者」でした。
イエス様の福音は、子どもたちだけではなく、ザアカイのような大人たちにも、同じように必要です。人々から差別され、「社会不適合者」と呼ばれて見下されるような人たちのためにこそ、「小さな群れ」は存在しています。お金があっても、社会的には成功しているように見えても、心許せる友達がいなくて、寂しい暮らしをしている人たちがいるでしょう。もしくは、「だれが一番偉いか」ばかりを争っている社会に疲れてしまって、安らぎの場を求めている人たちもいるでしょう。「大きな群れ」「大きさを競い合う大きな人たちの群れ」に、疲れてしまった人たちがいる。彼ら彼女らが必要としているのは、「小さな群れ」なのかもしれません。小さい者たちが、互いの小ささを受け入れ合い、小さいそのままの姿で愛し合うことのできる、小さな小さな群れです。
For the Bible tells me so.
先ほど子どもたちがハンドベルで演奏をしてくれた、『主われを愛す』という讃美歌は、日本で最初に日本語に翻訳された讃美歌の一つだと言われています。「主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ」という翻訳が有名です。これもとても素晴らしい、そして親しみやすい翻訳なんですが、しかし、残念ながら元々の歌詞にあった大切な要素が抜けてしまっています。元々の歌詞を直訳すると、次にようになります。
Jesus loves me! This I know,
For the Bible tells me so.
Little ones to Him belong;
They are weak, but He is strong.イエスは私を愛している! これを私は知っている
聖書が私にそう語るから
小さき者らは彼に属する
彼らは弱いが、彼は強い
この歌詞を書いたアンナ・バートレット・ワーナー(1822-1915)というアメリカ人女性は、若い人々に聖書を教え続け、実に60年間も聖書を教え続けた人だったそうです。Jesus loves me! This I know, for the Bible tells me so. この曲の最も大切な部分は、for the Bible tells me so の部分だろうと思います。なぜ、「イエスは私を愛している」と言えるのか。なぜ、「これを私は知っている」と言えるのか。その根拠は何か。それは、「聖書が私にそう語るから。」
それで今回は、私たちが慣れ親しんだ「主われを愛す」の翻訳ではなく、特別Ver.ということで、コーラスの部分も含めて、次のように訳してみました。「弱い私も 愛されている それを教えてくれる みことば 聖書は言う イエスさまは 愛されます この私を」。説教の後に、もう一度ハンドベルチームに演奏していただいて、今度は皆さんとご一緒に声を合わせて歌いたいと思っています。
ある人に、「あなたはあなたのことが好きですか?」と質問をしたことがあります。その人は、「いや、好きじゃありません」と答えました。「どうしてですか?」と尋ねると、その人は少し悩んだ後、こう言いました。「自分はいつも人に迷惑をかけているし、明るい性格でもないし、人の喜びや悲しみに共感するのも苦手だから。だから、自分は自分のことが好きじゃありません。」そこで、私はもう一つ質問をしました。「じゃあ、神様はあなたを愛していると思いますか?」その人は、今度は即答で、「いや、思いません」と言いました。「どうして?」と尋ねると、その人は先ほどと同じような自己評価を繰り返しました。「いつも人に迷惑をかけるし、明るい性格でもないし、共感するのが苦手な自分を、神様は愛していないと思うし、むしろ怒っていると思う。」
こんな自分のことが好きになれない。もちろん、こんな自分が神に愛されているはずはない。この人の自己評価や自己分析について、上から目線で何かを言いたいとは思いませんでした。ただ、その人に伝えたいことがあったとすれば、「あなたがあなたを好きかどうかということと、神があなたを愛しているかどうかということを、分けて考えてみてほしい」ということです。そして、もう一つ伝えたいことがあったとすれば、「聖書を読んでほしい」ということです。いや、すでにその人は昔から聖書を読んでいるのですが、しかし、もっと読んでほしいと思ったんです。あなたがあなたについてどう思うかではなく、聖書には何と書いてあるのか。あなたがあなたについてどう感じているかではなく、神があなたに何と語っているのか。
ローマ人への手紙には、次のように書かれています。ローマ人への手紙、5章の6節から8節。
5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
周りの人に迷惑をかける人は、神に愛されない。聖書にはそう書いてあるでしょうか。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」。ここが私たちの出発点です。神があなたを愛しておられるかどうかを、あなたが勝手に決めてはいけない。あなたの自己分析は、聖書よりも偉いのですか。あなたの感覚、あなたの自己評価、あなたの罪悪感は、聖書が語ることよりも優先されるべきですか。もう一度考えてみてほしい。というか、考えてみるだけではなくて、聖書を読んで考えてみてほしい。
私たち人間の自己評価は、人から言われた言葉によって形作られます。家族から言われた言葉、クラスメイトから言われた言葉、知らない誰かから言われた言葉によって、私たちの自己評価は形作られていく。「おまえはダメな奴だ」「おまえは使えない奴だ」。人の言葉が、私たちを形作る。人の言葉に傷ついて、自分には価値がないのだ、自分は消えてしまったほうが良い存在なのだ、としか思えなくなる。でも、その人たちは神ですか。神ではないでしょう。
盛岡みなみ教会はこの20年間、聖書を読み続けてきました。神の言葉を聞き続けてきました。それでももっと、私たちはこれからもっと、聖書を読まなければならないと思います。人間の言葉ばかりを気にして、恐れてしまう私たちは、聖書が言うことをもっと聞かなければならない。神の言葉を聞いていなければ、人の言葉が気になってしまうのは当たり前です。神の言葉を聞いていなければ、教会はあっという間に、神の教会ではない、別の何かに変わってしまいます。
改めて、ルカの福音書12章32節をお読みします。
12:32 小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。
20周年を迎えた盛岡みなみ教会。今度は30周年を目指したいけれど、あと10年やっていけるだろうか、と心配になります。毎月の役員会で、Mさんが会計報告を出してくださるたびに、「これであと何年持つだろうか」と不安になります。同盟教団からいただいている毎月5万円の教会支援費も、再来年には終わってしまう予定です。礼拝堂の借入金もまだまだ残っています。あと10年やっていけるだろうか、あと何年やっていけるだろうか。
人間の言葉ではなく、神のみことばを信じるんだと思っていても、たとえばもし、Mさんが会計報告をじーっと眺めながら、小さな声で「これはもうダメだな…」と呟いているのを聞いてしまったとしたら、私だって「そうだよな、もうダメだよな…」と心配になります。動揺します。もちろん本当は、伝道師ですから、「いいやMさん、大丈夫ですよ。神様がなんとかしてくれます」とかっこよく言いたい。でも、むしろその逆のほうがあり得るかもしれません。伝道師なのに、信仰がぐらついてしまう。すると役員の皆さんが、教会の皆さんが、「宣愛先生、大丈夫ですよ。神様がなんとかしてくださいます」と励ましてくださる。それもまた、「小さい者」たちが支え合う教会の姿なのだと思います。
教会の現状を考える。今後の予測を立てる。そして対応策を考える。それが役員会の仕事です。辛い仕事です。それも大切、それも大切なんだけれども、しかし、私たちはやはり、何よりもまず、神の言葉を聞く者でありたいと思うんです。もちろん、計画を立てて、やれることはやる。私たちにできる最善を尽くす。けれども、私たちは何よりもまず、「小さな群れよ、恐れるな」と言われたみことばを信じたいと思うんです。私たちの自己評価は壊滅的かもしれない。私たちの未来予想は絶望的かもしれない。しかし、私たちがどう思うかではなく、聖書は何と言っているのか。イエス様はどのように考えておられるのか。そこが出発点となる時に、私たち盛岡みなみ教会のこれからの歩みは、何をも恐れることのない歩みとなっていきます。
私たちは、私たちの現状を喜べないかもしれません。でも、まず神が喜んでくださっている。私たちは、私たち自身の能力の小ささに絶望するかもしれません。しかし、神は「小さい群れ」を心から愛しておられる。だから、盛岡みなみ教会は、たしかに苦しい現状だけれども、きっとなんとかやっていける。30周年だって、迎えることができるはずです。なぜそのように言えるのか。なぜそのように確信できるのか。伝道師や牧師がそう言ったから、ではありません。「あれ、なんだか宣愛先生が頼もしく思えてきたから、これからも大丈夫な気がする」ということでもありません。(頼もしくないですよ!)For the Bible tells me so. 聖書がそう語るからです。聖書にそう書いてあるからです。これがすべてです。これが盛岡みなみ教会のすべてです。私たちはこれからも、聖書に従って歩んでいきます。聖書のみことばを聞き続け、聖書のみことばによって励まし合っていきます。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」ご一緒にお祈りしましょう。
祈り
小さな者を愛するがゆえに、私たちのような者をも愛してくださる、憐れみ深い父なる神様。人の言葉ばかりを気にして、間違った自己評価を下してしまいます。もうダメだ、こんな自分には価値がないと思ってしまいます。周りからの評価を恐れます。先の見えない人生を恐れます。しかし神様、みことばを聞かせてください。私たちに対するあなたの愛を教えてください。私たちの将来に対するあなたのご計画を教えてください。私たち盛岡みなみ教会が、みことばから迷い出てしまわないよう、これからも力強くお導きください。あなたのみことばを聞くことを忘れて、人間の言葉ばかりを聞いてしまう時、どうか神様、私たちをあるべき所へ引き戻してください。どうか神様、盛岡みなみ教会を、ほかの誰か、ほかの何かではなく、ただあなたのみことばに信頼する教会として、ただあなたのみことばによって励まし合う教会として、これからも導き続けてくださいますよう、心よりお願い申し上げます。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。