2024年6月

週報コラム
No.117【弁証論⑧:なぜ神は悪を許容するのか?】

◆“キリスト教弁証論”の中でも最も難しく、しかし避けては通れない問い。それは、「なぜ神は悪を許容するのか?」という問題です。「なぜ戦争や貧困や災害などを許容するのか? そのような神は結局、存在しないか、冷酷であるか、無力 […]

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聖書の説教
第二ペテロ3:8-13「そして全てが暴かれて」(宣愛師)

・・・・・・自分だって、あの人みたいな優しい心がほしかった。自分だって、もっと愛情に溢れた心がほしかった。たしかに、神様はあなたの罪をさばきます。あなたのすべてが暴かれます。しかし、そのとき、その裁きにおいて「暴かれる」のは、あなたの罪だけではありません。神様はあなたのすべてを知っておられます。なぜあなたは人を傷つけてしまうのか。もしかすればそれは、あなたが人から傷つけられてきたからかもしれません。なぜあなたは人を愛することができないのか。それは、あなたが人からの愛情をあまり受け取れなかったからかもしれません。そのこともすべて、神様は暴いた上で、裁きを行ってくださいます・・・・・・

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週報コラム
No.116【弁証論⑦:一神教は不寛容か?】

◆「いろいろな神様を認める“多神教”は寛容だけど、一人の神様しか認めない“一神教”って不寛容だよね」―――たしかに、「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)と語ってしまうキリ […]

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聖書の説教
マルコ13:32-37「目を覚ましていなさい」(宣愛師)

・・・・・・祈りは信仰生活の基本です。しかし、祈ることができない、祈る気力が沸かない、そういうこともあるでしょう。……「生活の思い煩いで押しつぶされて」いる。あれやこれやが心配になって、プレッシャーになって、身動きが取れない。祈ることもできず、聖書を開くこともできず、布団に倒れ込む。かと言って、不安でよく眠ることもできず、結局朝まで時間を浪費してしまう。祈っていないから調子が悪いのか、調子が悪いから祈っていないのか。たぶん両方なのでしょう。でも、そんな時にも、誰かが私のために祈っている・・・・・・

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週報コラム
No.115【弁証論⑥:"父なる神"は男尊女卑か?】

◆( 「父の日」 に相応しくないかもしれませんが!)今回取り上げたい“キリスト教批判”は、「“父なる神”という教えは男尊女卑ではないか?」です。実際には、神様を“母”として描く聖書箇所もあるのですが(イザヤ66:13など […]

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聖書の説教
マルコ13:24-31「しかし、わたしのことばは」(宣愛師)

・・・・・・法律を守って命を落とした、一人の裁判官。……「裁判官として相応しい死に様だ。他の裁判官も彼に見倣うべきだ」と言って、彼の死を称賛する人もいました。しかし他方で、「法律を守るために死ぬなんて、そんな死に方はあってはならない」と言う人たちもいました。……「人間、生きてこそだ。国や法、人間が定めたもんは、あっという間にひっくり返る。ひっくり返るもんのために、死んじゃならんのだ。……」……ひっくり返らないもの、永遠に続くもののために、この人生を使うことができたら、どれだけ満足のいく人生を生きられるでしょうか。では、ひっくり返らないものとは、一体どこにあるのか・・・・・・

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週報コラム
No.114【弁証論⑤:イエスは実在したのか?】

◆「抑論」と書いて「よくろん」ではなく「そもそもろん」と読むそうです。物事を根本から考え直す「抑論」はあらゆる分野で重要ですが、「抑論」であればあるほど、意外と答えるのは難しいかもしれません。そこで今回扱いたいテーマは、 […]

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聖書の説教
ヨハネ4:31-38「目を上げて畑を見なさい」(まなか師)

・・・・・・たしかに、実りを見ることなく、種を蒔くことに徹する者もいます。旧約の預言者たちもそうでした。バプテスマのヨハネもそうでした。彼らが労苦した実りは、ほかの人たちが刈り入れました。私たちの労苦は、10年後、20年後、いや何百年も後の人たちが、刈り入れをすることもある。しかしそのとき、蒔く者は、「私が蒔いたものなのに、あの人に横取りされた」と文句を言うのではなく、刈る者とともに喜ぶというのです・・・・・・

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週報コラム
No.113【弁証論④:献金は牧師の営利事業か?】

◆「ぼく知ってるよ。献金って、神様に届けるんじゃなくて、牧師の給料になるんでしょ?」―――とある小学生の発言に、神学生だった僕は素直に感心しました。小さな教会の場合、支出の大半は牧会者への“報酬”です。それなのに、神様へ […]

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聖書の説教
マルコ13:14-23「山へ逃げなさい」(宣愛師)

・・・・・・その人が洗礼を受けない理由はいくつかあるらしいのですが、大きな理由の一つは、「もし迫害を受けるようなことがあったら、自分は信仰を捨ててしまうと思うから」とのことでした。……たしかに、洗礼を受けるということは、そのような覚悟をすることでもあります。しかし、その逆のこともあるんです。イエス様への信仰を守り通し、イエス様のみことばに従ったことによって、一時的には苦しむことになったけれど、結果的には大きな苦しみから逃れることができた、ということもあるんです・・・・・・

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