マルコ13:24-31「しかし、わたしのことばは」(宣愛師)
2024年6月16日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』13章24-31節
13:24 しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、
25 星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。
26 そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。
27 そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
28 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
29 同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
30 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
31 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

「ひっくり返るもんのために、死んじゃならんのだ。」
普段はニュースくらいしかテレビを見ないので、テレビドラマを見ることは少ないのですが、今シーズンのNHKの朝ドラ『虎に翼』はなかなか面白く、夫婦揃って毎日欠かさず見ています。忙しくて見る時間がなかった時は、パソコンで見逃し配信を見ています。主人公のモデルとなった三淵嘉子さんは、日本初の女性弁護士の一人であり、女性として初めて判事(裁判官)になった人でもあり、女性として初めて家庭裁判所の所長になった人でもあります。そんなわけでこのドラマでは、当時の男女差別の問題であったり、日本の憲法や法律に関する様々な逸話が取り上げられていまして、とても興味深く勉強になるわけです。
少しネタバレになってしまいますが、このドラマの中でぜひご紹介したい一つのエピソードがあります。ある一人の判事・裁判官が、栄養失調で死んでしまった。この裁判官は「食糧管理法」という法律に関する裁判を担当していました。「食糧管理法」というのは、戦争の影響で食糧不足が起きていた日本において、全国民に食糧が行き渡るようにと定められた法律です。国から配給される食糧以外を買ってはならない、というわけです。しかし、配給される食糧だけでは到底生きていけないので、人々は「闇市」と呼ばれる場所でこっそり食糧を買って、なんとか生き延びていた。法律違反だとは分かっていたけれども、そうしなければ生きていけなかった。
しかしその裁判官は、「食糧管理法に違反した人々を裁く立場にある自分が、闇米を買うわけにはいかない。そんなことでは正しい裁きを下すことはできない」と考えて、配給された食糧以外は受け取らず、配給の分も二人の子どもに食べさせていたので、最後には栄養失調で死んだ。ドラマだけの話ではなく、実際に起こった事件です。山口良忠という人でした。1947年に朝日新聞が報じた内容によれば、山口さんが死の直前に書いていた日記には、「食糧管理法は惡法だ、しかし法律としてある以上、國民は絶対にこれに服從せなければならない」と書かれていたそうです。
法律を守って命を落とした、一人の裁判官。彼の死は当時の社会に衝撃を与え、様々な意見が飛び交いました。「裁判官として相応しい死に様だ。他の裁判官も彼に見倣うべきだ」と言って、彼の死を称賛する人もいました。しかし他方で、「法律を守るために死ぬなんて、そんな死に方はあってはならない」と言う人たちもいました。ドラマの中では、次のように語られていました。
NHK連続テレビ小説『虎に翼』第55回より
人間、生きてこそだ。国や法、人間が定めたもんは、あっという間にひっくり返る。ひっくり返るもんのために、死んじゃならんのだ。法律っちゅうもんはな、縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が、幸せになるためにあるんだよ。幸せになることを諦めた時点で矛盾が生じる。彼がどんなに立派だろうが、法を司る我々は、彼の死を非難して、怒り続けねばならん。
「ひっくり返るもんのために、死んじゃならんのだ。」その通りかもしれません。その通りでしょう。どうせ生きるなら、ひっくり返らないもののために生きていきたい。ひっくり返らないもの、永遠に続くもののために、この人生を使うことができたら、どれだけ満足のいく人生を生きられるでしょうか。夜、布団に入って、「ああ、今日も何もできなかった」と落ち込むこともあるでしょう。「こんな自分が生きていて何の意味があるんだろうか」と、自分で自分を責めてしまうこともあるでしょう。しかし、たった一日でもいい、今日一日だけでもいい、永遠に続く何かのために、生きることができたなら、どれだけ満足して眠りにつくことができるでしょうか。では、ひっくり返らないものとは、一体どこにあるのか。
滅びゆく国々と、永遠の神の国
マルコの福音書13章、24節と25節をお読みします。
13:24 しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、25 星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。
太陽が暗くなる。月は光を放たなくなる。星は天から落ちる。まるで、この地球や宇宙が滅びてしまうかのような光景です。しかし、ここでイエス様が語っておられるのは、地球滅亡や宇宙滅亡というようなことではありません。旧約聖書のイザヤ書13章には、次のように書かれています。
13:1 バビロンについての宣告。……9 「見よ、主の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が。
地は荒廃に帰し、主は罪人どもをそこから根絶やしにする。
10 天の星、天のオリオン座は その光を放たず、
太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない。……19 こうして、諸王国の誉れ、カルデア人の輝かしい誇りであるバビロンは、
神がソドム、ゴモラを滅ぼしたときのようになる。……」
イザヤ書13章が語っているのは、「バビロンについての宣告」でした。当時の世界を支配していたバビロン帝国を、神がついに滅ぼされるという宣告です。日本語でも「驚天動地の大事件」という表現があるように、あのバビロン帝国が滅びるということは、あの最強の帝国が滅びるということは、まさに世界がひっくり返るような「驚天動地」の出来事だったわけです。
そこでイザヤ書が語ったのは、「天の星、天のオリオン座は その光を放たず、太陽は日の出から暗く、月もその光を放たない」という表現でした。もちろんイザヤが言いたかったのは、実際に太陽や月が暗くなるということではありませんし、地球や宇宙が滅びてしまうということでもありません。イザヤが語ったのは、バビロンが支配する今の世界がひっくり返って、新しい世界が始まろうとしている、ということでした。
それと同じように、マルコの福音書でイエス様が語ったことも、地球や宇宙の滅亡ではありません。これまでの説教でも繰り返し確認したように、イエス様がマルコ13章で語っているのは、地球や宇宙の滅亡ではなく、エルサレムの滅亡です。聖なる神の都であったはずのエルサレムが、バビロンのように堕落し、罪の都となってしまった。だから、バビロンが滅ぼされたのと同じように、このエルサレムも滅ぼされる。これが、イエス様が語られたことでした。そして実際に、イエス様のこの予告から40年後、エルサレムの神殿とその都は、ものの見事に滅ぼされた。
バビロンも滅びる。エルサレムも滅びる。いつまでも続くと人々が信じているものも、いつかは消え去る。しかし、ひっくり返らないものがある。マルコ13章の26節と27節をお読みします。
26 そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。
27 そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。
人の子が来る。これも、しばしば誤解されている言葉かもしれません。「人の子」とはイエス様のことです。ここを誤解する人はあまりいないでしょう。しかし、“人の子が来る”と聞くと、多くのクリスチャンは、イエス様が再びこの地上に降りて来ることだ、イエス様の再臨のことだ、と思うわけです。しかし、ここでイエス様が語っておられるのは、イエス様が地上に降りて来る、ということではないんです。旧約聖書のダニエル書をお読みします。ダニエル書7章13節と14節。
7:13 私〔ダニエル〕がまた、夜の幻を見ていると、
見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。
その方は『年を経た方』〔神〕のもとに進み、その前に導かれた。
14 この方〔人の子のような方〕に、主権と栄誉と国が与えられ、
諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
ダニエルが見た幻は、「人の子のような方が 天の雲とともに来られた」という不思議な光景でした。イエス様はこのダニエルの幻について語っておられるわけです。ここで重要なのは、「人の子のような方」はどこに来たのか、ということです。先ほども申し上げたように、私たちキリスト者は普通、「人の子が来る」ということばを聞くと、イエス様が天から地上に降りて来られる、ということを想像します。しかしダニエル書が語っているのは、「『年を経た方』のもとに」来る、ということです。天から地上に降りて来るのではなく、天におられる神の御前に来るのです。
つまりマルコ13章でイエス様がお語りになった、「人の子が……来る」というのは、イエス様が再び天から地上に来られる“再臨”のことではなく、十字架で死んで復活したイエス様が、地上から天に昇られて、父なる神の右の座に座られたこと、つまり“昇天”と“着座”のことなんです。天上から地上に「来る」ではなく、地上から天上に「来る」なんです。
大切なのは、イエス様の昇天と着座によって、神の国はすでに始まっている、ということです。ダニエル書7章14節に書かれているように、「この方〔人の子のような方〕に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」イエス様が十字架で死に、復活され、天に昇られ、神の右の座に着かれた時から、神の国はこの世界を支配し始めている。
ちなみに、マルコ13章27節で「御使い」と訳されている ἄγγελος というギリシャ語は、「使者たち」とも訳せる言葉ですから、必ずしも“天使たち”とは限りません。パウロやペテロのような宣教師たちのことかもしれません。彼らはまさに、「選ばれた者たちを四方から集め」ました。エルサレムが滅びた時にはすでに、彼らの働きによって、キリスト教会は世界中に広がっていました。
私が東京基督教大学で勉強していた頃、男子寮の先輩たちがこんな話をしていたことを、今でもよく覚えています。「もし神の国がすでに始まってるんだとしたら、神の国ってショボすぎない? だって、戦争とか貧困とか全然なくなってないじゃん!」どうやらその先輩たちの話によると、「神の国が始まるのは、イエス様が再びこの地上に来られた時だ。イエス様が再臨された時に、神の国は始まるのだ」ということでした。当時の私は、「たしかに、神の国がすでに始まっているとすれば、この世界はもっと良い世界になっていてもおかしくないよなあ」なんて思っていました。特に、キリスト教の十字軍のような悲惨な事件を思い起こしてみても、イエス様がこの世界を支配しておられるなどとはとても信じられないような気もしました。
しかし、それからも少しずつ学びを進めていく中で、キリスト教がこの世界に与えてきた様々な良い影響についても知るようになりました。たとえば、ウィリアム・ウィルバーフォースやアブラハム・リンカーンの運動によって、奴隷制という悪しき習慣は廃止されました。そこに様々な政治的思惑が混じっていたとしても、それは明らかにキリスト教精神によるものでした。また、男女差別の撤廃や女性の地位向上も、キリスト教の影響によって世界中に広がりましたし、たとえば今では当たり前となった“病院”という制度も、キリスト教によって誕生したと言われています。(Alvin J. Schmidt, How Christianity Changed the World (Zondervan, 2009), 155p)
たしかに、今もこの世界からは、戦争も差別も貧困も無くなってはいません。しかし、イエス様の教えによって、キリスト教会の働きによって、この二千年間、この世界はひっくり返され続けてきました。長い時間はかかっています。それは、私たち人間の罪があまりにも深刻だからです。争いを止めようしない罪、差別を止めようとしない罪、貧しい人々を助けようとしない罪が、私たち人間の中から消えないからです。まだまだこの世界には、罪の支配、悪魔の力による支配が残り続けています。しかしその一方で、イエス様がこの世界を変え続けていることは間違いない。天の御座に着いておられるイエス様は、たしかに今も、この世界を支配し、治めておられる。
「しかし、わたしのことばは」
マルコ13章の28節から31節をお読みします。
28 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
29 同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
30 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
31 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
今日は特に、最後の31節に注目したいと思います。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」このことばも、「この地球は消滅する」という意味で理解されることがありますが、そういう意味ではありません。おそらくイエス様は、イザヤ書の二つの預言を思い起こしておられるのでしょう。イザヤ書の40章8節と65章17節18節です。
40:8 草はしおれ、花は散る。
しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18 だから、わたしが創造するものを、
いついつまでも楽しみ喜べ。
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
その民を楽しみとする。
バビロンのように堕落したあのエルサレムは、滅ぼされようとしている。神の御心に逆らい、貧しい者たちを虐げ続けた、あの古いエルサレムは必ず消え去るだろう。しかし、古いエルサレムが滅ぼされた時、新しいエルサレム、新しい天と地が創造される。新しいエルサレムとは、神様のみことばに従う新しい民、すなわち教会のことです。神のみことばを聞く私たちのことです。
アンパンマンの作者であるやなせたかしさんが、生前にこんなことを言っていました。
「「アンパンマン」は“正義の味方”への違和感から生まれた」( 「週刊朝日」 2012年3月16日号)https://dot.asahi.com/articles/-/8863?page=1
俺自身、ドンパチはやらなかったけど、中国の民衆を助けるって、戦争に行った。それが、戦争が終わったら「悪魔の軍隊」だよ。正義はひっくり返るんだ。要するに、戦争自体が、すでに悪なんだ。じゃあ、ひっくり返らない正義って何かっていったら、飢えている人を助けることじゃないか。そして、正義は自分が傷つくことなしに行えない。それで、自分の顔を少しずつ食べさせるスーパーマンを作ったんです。
「アンパンマンのモデルはイエス様だ」と言う人もいます。それが本当かどうかは、やなせさん本人に聞かないと分かりませんが、「正義は自分が傷つくことなしに行えない」という言葉を聞いて、イエス様を思い出すことは間違いではないでしょう。十字架にかけられてもなお、「父よ、彼らをお赦しください」と祈った、あのイエス様の生き様と死に様こそが、まさに「ひっくり返らない正義」です。イエス様は、自らのいのちを差し出して、私たち罪人に食べさせてくださった。
ある人は、「自分は国家のために生きる」と言います。「お国のために」という言葉もあります。しかし、どんなに偉大な国家であっても、いつかは消え去るものです。支配者も変わります。法律も変わります。文化も変わります。人間が作るものは、必ず消え去ります。バビロンも、エルサレムも滅びました。ローマ帝国も大日本帝国も消え去りました。時代は変わり、世代は過ぎ去る。
ある意味では、教会だって同じです。「盛岡みなみ教会」という教会も、ある意味では人間の作る組織であり、そのような意味では、永遠に続くわけではないでしょう。パウロが手紙を書き送った、ローマの教会、コリントの教会、ガラテヤの教会、エペソの教会、ピリピの教会、そのほか新約聖書に出てくる様々な教会も、この二千年間、そのまま組織として残り続けているものなんて一つもありません。私たちそれぞれの人生ももちろん、永遠には続かない、儚いものです。
しかし、永遠に続くわけではない私たちは、永遠に続くもののために生きることならできる。私たちが今こうして、聖書のみことばに耳を傾けているということは、永遠ではない私たちの人生が、永遠の世界と触れ合っている、ということです。「ひっくり返るもんのために、死んじゃならんのだ。」そのとおりです。私たちは、ひっくり返らないもののために生き、ひっくり返らないもののために死にましょう。それこそが、本当に満足のいく人生を生きる秘訣です。
大したことはできないかもしれません。ほんの小さなことしかできないかもしれません。でも、まずは聖書を一ページ読む、ということから始めてみても良いでしょう。自分が抱えている罪を一つ見つけて、神様に悔い改めの祈りをする、ということでも良いかもしれません。最近連絡を取っていなかったあの人に、疎遠になってしまっていたあの人に、一言連絡をしてみる、ということでも良いかもしれません。たった一日でもいい、たった一つのことでもいい、永遠に続く神の国のために、ほんの少しでも私たちの人生を献げることができたなら、それだけで永遠の価値を持つ一日です。「ああ、神の国のために生きられてよかった」「こんなちっぽけな自分だけど、ほんの少しでも、永遠に続くもののために生きられてよかった」と言える、そんな毎日を、そんな人生を歩みたいと思うんです。イエス様から学びましょう。永遠の正義を、永遠の愛を、永遠の価値を、聖書のみことばから学びましょう。イエス様に従うことこそ、永遠の神のみことばに従う人生こそ、私たちの短く儚い人生の最高の生きがい、最高の満足となるからです。お祈りします。
祈り
父なる神様。私たちの人生は儚く、草のように、花のように、あっという間に消え去ります。だからこそ、短い人生だからこそ、永遠に続くもののために生きていきたいと思います。「今日も永遠の世界に触れることができた」と、満足して眠ることのできる人生を歩みたいです。どうか、イエス様の生き様を学び、みことばを学ぶことができますように。変わりゆくこの世界にあって、変わらないみことばを握って生きることができますように。空しく消え去っていくような人生ではなく、「ああ、このことのために生きられてよかった」と胸を張って言えるような、そんな人生を歩み続けることができますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。