マルコ13:32-37「目を覚ましていなさい」(宣愛師)

2024年6月23日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』13章32-37節


13:32 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。
33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。
34 それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。
35 ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。
36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。
37 わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」



「すべての人に言っているのです」:エルサレム崩壊か、再臨か?

 二ヶ月前から少しずつ読み進めて来ましたマルコの福音書13章も、今日でいよいよ最後の部分となりました。32節と37節を改めてお読みします。


13:32 ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。

37 わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」

 「その日、その時」とは、一体何を指しているのか。聖書学者によっても大きく意見が分かれる難しい部分です。「その日、その時」とは、紀元70年に起こる、エルサレムの崩壊のことなのか。それとも、この世界の歴史の最後の日に起こる、イエス様の“再臨”のことなのか。

 ある聖書学者は、23節まではエルサレム崩壊のことで、24節からは再臨のことだと考えます。別の学者は、31節まではエルサレム崩壊で、32節からは再臨だと考えます。私の立場はどうかと言いますと、マルコの福音書13章は最初から最後まで、基本的にはエルサレム崩壊の話だと考えていますが、それと同時に、13章の最初から最後まで、“再臨”に関する話でもある、と考えます。

 37節でイエス様は、「わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです」と仰いました。エルサレムでまず最初に起こることが、エルサレム以外の町々や国々でも、次々と起こっていく、あらゆる時代に起こり続ける、そういうことなのだろうと、私は理解しています。エルサレムが滅び、ローマ帝国が滅び、オスマン帝国が滅び、ドイツ帝国や大日本帝国が滅びる。「わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。」マルコ13章に書かれているのは、エルサレム崩壊の予告であると同時に、あらゆる国々に関する予告でもあり、それと同時に、最終的な再臨のことでもある。そのように考えるべきではないかと思います。それはつまり、イエス様のこの予告から約二千年後の日本に住む私たちも、決して無関係ではない、ということです。この国も、私たちが生きている今の世界も、いつまで続くかわからない。

 「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。」ここで私たちが驚くべきことは、「子も知りません」つまり、イエス様も知らない、という部分です。神の子であるイエス様に、知らないことなどあるのだろうか、と私たちは驚きます。全知全能の神であるはずのイエス様に、知らないことがあって良いのだろうか、そうだとしたら、イエス様は不完全な神だということになってしまうのではないか。

 私たちは、何事であっても「知らない」ということはダメなことだ、と考えるかもしれません。「え~、知らないの~?」と言われて、ムカッとしたり落ち込んだりする私たち。もしくは、「いや、別に知ってるけど?」とムキになったりする私たちでしょう。何でもかんでも、とにかく知っていないと、把握しておかないと、不安になる私たちでもあるでしょう。ましてや、この国はいつ滅びるのか、今の世界はいつまで続くのか、そんな重大なことについて全く知らないとすれば、不安になるかもしれません。自分はこれからどうなるのだろうか。自分の人生はどうなっていくのだろうか。先行きが見えないと、「知らない」ことがあると、不安になってしまう私たちです。

 しかしイエス様は、「えっ、わたしも知らないよ?」と言ったわけです。「知らないけど、別に良くない?」と。そう、私たちはすべてを知らなくてもいい。父なる神様が知っていてくだされば、それでいい。父なる神への信頼がある限り、無知であることは必ずしも悪いことではないんです。「知らない」ということは、不完全だということではない。むしろ、「私は知らないけれど、天におられる私の父がすべてを知っていてくださる」という信仰こそが、私たち人間を完全な者とする。たしかにイエス様には、「知らない」ことがありました。しかしそれは、イエス様にとって、何の問題もないことでした。


「目を覚ましていなさい」(※ただし、交代制で)

 続いて、33節から36節までをお読みします。


33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。
34 それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。
35 ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。
36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

 「目を覚ましていなさい。」目を覚ましているというのは、難しいものです。学校の授業中、礼拝の説教中、聞く気があってもつい眠ってしまう、ということもあります。私が東京基督教大学に入学してすぐ、菊池実先生の「旧約聖書概論」という授業がありました。内容も充実していて面白く、学生たちに人気のある授業でした。ただ、お昼ごはんの直後、午後1時からの授業でした。真面目な学生だった私は、50人くらい入る教室の最前列、教授の目の前の席に座って、やる気に満ち溢れて授業を受けていました。ところが、気が付くと菊池先生が私のことを見ていて、「ノアくん?」と優しく声をかけていました。笑顔でした。私にやる気があることは、先生も分かってくださっていたのでしょう。やる気があっても、目を覚ましているというのは、難しい。

 主人が旅に出た。おそらく、楽しく愉快な旅行ではなかったと思われます。当時の世界では、旅をするというのは危険なことでもありました。旅の途中で強盗に襲われる可能性も低くありませんでした。大切な用事のために出かけていった主人と、お留守番をするしもべたち。主人が遊びに行ったわけではないのなら、しもべたちもただ遊んで待っているわけにはいきません。

 「仕事を割り当てて責任を持たせ」と翻訳されている部分を、ギリシャ語から直訳してみると、「彼の仕事と権威を与えて」となります。しもべたちに与えられたのは、単なる「仕事」ではなく、「彼の仕事」、主人の仕事でした。いつもは主人が自らやっていたであろう仕事の数々を、しもべたちに任せた。「これはね、普段はこういう風にやっているんだ。しっかり頼むよ」と、一つ一つ説明してから出かけたのかもしれません。しかも、ただ仕事の説明をするだけではなく、主人の「権威」も与えた。ギリシャ語では、「権威」も「責任」も同じ言葉です。

 先週の日曜日は「父の日」でした。ある方々には「父」としての「権威」と「責任」が与えられています。子育てというものは、本当に難しいと思います。「いや、宣愛先生にはまだ子育ての経験はないでしょう」と言われてしまうでしょうが、お父さんお母さんたちの話を聞くだけでも、そしてほんの少しお手伝いさせていただくだけでも、その大変さ、その難しさが伝わってきます。子育ては、本来は神様の仕事、イエス様の仕事だと思います。しかし、その仕事が親たちにゆだねられた。そのための「権威」と「責任」を与えられた。「イエス様が直接育ててくれたら良いのになあ」と思うこともあるかもしれません。しかし、イエス様は父たちに、母たちに、その仕事をお与えになった。子育てだけではありません。私たちそれぞれに、イエス様から任されている仕事があるはずです。

 しもべたちの中には、「門番」という役割を任される者もいました。門番の仕事は主に、皆が寝静まった夜です。他のしもべたちが眠っている時間に、家の安全を見守る。「夕方」「夜中」「鶏の鳴くころ」「明け方」という四つの時間は、門番が交代をする時間だったとも言われます。A勤、B勤、C勤、D勤、みたいな感じです。おそらく、一晩中一人でずっと目を覚ましていなければならない、ということではなかったのでしょう。仲間たちと交代しながら、主人の留守を守る。一人ですべてをやろうとする必要はない。皆が助け合いながら、主人の帰りを待つ。

 そのような意味では、「目を覚まして」いるための秘訣は、自分の当番ではない時間にしっかり眠っておくことだ、とも言えるでしょう。私たちはついつい、疲れが溜まってくると、しっかり眠って疲れを取らなければならないと分かっていても、ダラダラと起きてしまうことがあります。特に用事もないのにスマホをいじったり、テレビを見たり、時間を浪費して、休むべき時間なのに、十分に休むこともできない。自分の当番ではない時に、しっかり眠っておかなかった人は、自分の当番が来た時に眠りこけてしまいます。しっかり眠るということもまた、目を覚ましているための秘訣なのかもしれません。


「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」

 では、“目を覚ましている”とは、具体的にはどういうことなのでしょうか。“目を覚まして主人の帰りを待つ”とは、どのようなことなのでしょうか。マルコの福音書には、具体的なことはあまり書かれていませんが、マタイの福音書やルカの福音書には、“目を覚まして主人の帰りを待つ”ということについて、その具体的な内容が書かれています。まずはマタイの福音書25章の31節から46節まで、長い箇所ですが、聖書の中でも最も大切な箇所の一つです。


25:31  人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。
35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
44 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」


 “目を覚まして主人の帰りを待つ”ということは、お腹を空かせた人たちと食べ物を分け合う、ということです。“目を覚まして主人の帰りを待つ”ということは、行き場のない旅人を泊めてあげる、ということです。“目を覚まして主人の帰りを待つ”ということは、病院や牢屋にいる人々を訪ねる、ということです。お腹を空かせた人がいると分かっていながら、何もせずにぼーっとしていてはいけない。私たちはいつでも、目を覚ましていなければならない。助けを必要としている人たちに気付けるよう、目を覚ましていなければならない。目を覚ましていなければ、自らの仕事を放棄してしまうならば、「永遠の刑罰」に入ることになります。目を覚ましているということは、それほどに重要なことです。いつでもどこでも、私たちに託された仕事があります。

 マタイの福音書だけではなく、ルカの福音書にも、“目を覚まして主人の帰りを待つ”ということについて、具体的な指示が書かれています。ルカの福音書21章34節から36節まで。


21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。
35 その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。
36 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

 私はほとんどお酒を飲まないんですが、そう話すと驚かれることがあります。「なんで飲まないんですか?」「なんか、宗教的なヤツですか?」たしかにイエス様は「深酒」を禁じていますが、お酒自体を禁じているわけではないので、そういう意味では、宗教的な理由ではありません。お酒を飲む牧師や神父さんたちもいます。ホントの話かわかりませんが、ある教団の牧師会は乾杯から始まるそうです。私の場合、お酒を飲まないのは、単にお酒よりジュースのほうが好きだという理由もありますが、一番大きな理由は、たとえば教会の誰かから突然電話がかかってきた時に、いつでもすぐに駆けつけるためです。「お酒を飲んだのですぐには行けません。酔いが覚めるまで待ってください」とは言えません。それは、ある意味では宗教的な理由だとも言えるかもしれません。

 「いつも目を覚まして祈っていなさい。」ルカの福音書では、イエス様はそのように命じておられます。マタイの福音書に書かれていることと矛盾するわけではありません。お腹を空かせた人に食べ物を分かち合うことと、祈ることとは、矛盾しません。祈っているからこそ、助けを求めている人々の存在に気づきます。祈っているからこそ、自分が本当になすべきことが見えてきます。

 祈りは信仰生活の基本です。しかし、祈ることができない、祈る気力が沸かない、そういうこともあるでしょう。それこそ、人を助けている場合ではない。自分自身が「生活の思い煩いで押しつぶされて」いる。あれやこれやが心配になって、プレッシャーになって、身動きが取れない。祈ることもできず、聖書を開くこともできず、布団に倒れ込む。かと言って、不安でよく眠ることもできず、結局朝まで時間を浪費してしまう。祈っていないから調子が悪いのか、調子が悪いから祈っていないのか。たぶん両方なのでしょう。でも、そんな時にも、誰かが私のために祈っている。私のために、私の代わりに、私の分まで、誰かが祈ってくれている。今は目を覚ましていることができなくても、誰かが目を覚ましていて、「今はおれの番だ。お前は休んでいてくれ」とか、「私が力尽きたら、今度は頼みます」とか言い合いながら、皆で主人の帰りを待っているんです。

 「目を覚ましていなさい」というイエス様の教えを直接聞いた、最初の弟子たちも、ずっと目を覚ましていられたわけではありませんでした。弟子たちも眠ってしまうことがよくありました。イエス様が十字架にかかられる前の夜、イエス様が弟子たちに「一緒に祈っていてくれ」と頼んで、イエス様が必死に祈っておられるのに、弟子たちは疲れてぐうすかと眠ってしまうこともありました。イエス様が逮捕されて連れて行かれる時にも、弟子たちは怖くなって、イエス様を裏切って逃げてしまいました。彼らも、目を覚ましていられない時があった。眠りこけてしまう時があった。しかし、イエス様はそんな彼らを見捨てたりしないんです。ルカの福音書22章31節と32節。


22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 「シモン」というのは、一番弟子のペテロのことです。ペテロの信仰も眠りやすい信仰でした。でも、イエス様がペテロのために祈っておられた。ペテロが目を覚ましていられない時、イエス様が目を覚まして祈ってくださった。だからペテロも、目を覚ましたら、誰かのために祈るんです。ずっと目を覚ましていられる人なんていません。でも、必ず誰かに祈られています。必ず誰かが、あなたのために祈っています。目を覚ますことのできない自分の代わりに、目を覚ましていてくれるしもべ仲間たちがいることを、私たちは忘れてはいけない。起き上がれない時は、立ち直れない時は、休んでいていいんです。むしろ、しっかり休まなければなりません。そしていつの日か、立ち直ることができたなら、もう一度目を覚ますことができたなら、今度はあなたが祈るんです。起き上がることのできない仲間たちを、今度はあなたが支えていくんです。

 そのようにして私たちは、イエス様の帰りを待ち続けます。盛岡みなみ教会の仲間たちがいます。日本同盟基督教団の仲間たちも、いつも私たちのために祈ってくれています。カナダにも、シンガポールにも、私たちのために祈ってくれている人たちがいます。私も、いつも皆さんのために祈っています。私が祈れない時もあります。でも、教会の誰かが祈ってくれていると信じています。そのようにして私たちは、互いに支え合いながら、互いに励まし合いながら、イエス様が帰って来られるその日まで、「目を覚まして」歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。どんなにやる気があっても、それだけでは目を覚ましていられない、信仰の弱い私たちです。すぐに倒れてしまいます。すぐに立ち上がれなくなります。祈り続けることもできません。困っている人を助けたいと思っても、疲れ果ててしまいます。しかしあなたは、「今は任せて、休んでいて」と言ってくれる仲間たち、祈れない私の代わりに祈っていてくれる仲間たちを与えてくださいました。だから私も、倒れたとしても、起き上がることができたなら、仲間たちのために祈りたいと思います。誰かを力づけたいと思います。そのようにして、皆で助け合いながら、主人の帰りを待つ教会として歩むことができますように。何よりもまず、イエス様が私たちのために祈ってくださる、このことのゆえに私たちも、互いのために祈り合う教会として、愛し合って歩み続けることができますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。