No.116【弁証論⑦:一神教は不寛容か?】
◆「いろいろな神様を認める“多神教”は寛容だけど、一人の神様しか認めない“一神教”って不寛容だよね」―――たしかに、「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)と語ってしまうキリスト教は、“不寛容”な宗教なのかもしれません。
◆ところが「世界価値観調査」によると、“他宗教に寛容な多神教の国”であるはずの日本は、「他宗教の信者を信頼する」「他宗教の信者も道徳的と考える」と答えた人の割合が最下位。「(日本人は)外来宗教との接触が少ないから、自分たちは寛容だと思い込んでいるだけだ」と森本あんり教授(宗教学)は指摘します。そういえば、まなか先生が最も愛するインド映画『バジュランギおじさんと小さな迷子』でも、ヒンドゥー教徒(多神教)のインド人たちは、イスラム教徒(一神教)のパキスタン人たちに対して、ぜんっぜん寛容じゃありませんでした。
◆一神教でも多神教でも無神論でも、そもそも人間は不寛容。だからこそ、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教え、十字架上でそれを完成させたイエス様に従う道以外には、分断多きこの世に「救いはありません」と思ってしまうのです。