第二ペテロ3:8-13「そして全てが暴かれて」(宣愛師)

2024年6月30日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ペテロの手紙 第二』3章8-13節


3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。
11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。



「すべての人が悔い改めに進むことを」

 「マルコの福音書13章が終わって、ようやく物騒な聖書個所から抜け出せたと思っていたのに、どうしてまたこんな物騒な聖書個所を開かなきゃいけないんですか!また終末論ですか!宣愛先生はこれから毎週ずっと終末論の話をし続けるつもりですか!」ご安心ください。私も皆さんと同じ気持ちです。どうして毎週毎週、「天の万象は焼けて崩れ去り」みたいな怖い聖書個所ばかり読まなければならないのでしょう。「神は愛です」とか、「あなたの隣人を愛しなさい」とか、もっと心が温まるような聖書個所が読みたい、そういう個所から説教したい、私もそう思っています。

 それにもかかわらず、どうしてこの個所を開いたのか。理由は二つあります。一つ目の理由は、この第二ペテロ3章8節から13節が、私が今年受験する正教師試験の課題箇所だからです。この聖書個所からの説教を書いて、原稿を教師試験委員会に提出しなければならないからです。しかし、「提出期限は11月なんだから、別にこのタイミングでやらなくても良いでしょう」と言われれば、それはその通りです。ですが、マルコ13章を読み終えたこのタイミングで、イエス様の“再臨”について、もう一度改めて確認しておきたかったというのが、正直な所です。というのは、この第二ペテロ3章というのは、イエス様の“再臨”について最も誤解されやすい聖書個所の一つだからです。

 マルコの福音書13章を説教する中で、私が何度も強調したことは、「神様はこの地球を滅ぼそうとしているわけではない」ということでした。「神様はこの世界を裁かれるが、この世界そのものを消し去ろうとしているのではない」ということです。ですが、第二ペテロ3章というのは、特に第二ペテロ3章10節というのは、まるでこの世界が消え去ってしまうかのような誤解を与えやすい個所なんです。だから、どうしても皆さんと一緒に、この個所を読んでおきたいと思ったんです。

 3章に入る前に、まずは3章に至るまでの文脈を確認しておきましょう。2章の1節と2節、飛んで13節と14節をお読みします。


2:1 しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。
2 また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。

……13 彼らは不義の報酬として損害を受けるのです。彼らは昼間から飲み騒ぐことを楽しみとしています。彼らはしみや傷であり、あなたがたと一緒に宴席に連なるとき、自分たちのだましごとにふけるのです。
14 その目は姦淫に満ち、罪に飽くことがなく、心が定まらない人たちを誘惑し、心は貪欲で鍛えられています。彼らはのろいの子です。

 「偽教師」と呼ばれる人々が、教会を堕落させ始めていた。これが、ペテロの手紙第二が書かれた理由でした。偽教師たちは、やりたいようにやっていました。酒に溺れ、姦淫にふけっていました。彼らもキリスト者であるはずなのに、なぜこんなにも自堕落な生活を送っていたのでしょうか。偽教師たちが自堕落な生活を選んだのには理由がありました。3章4節をお読みします。


3:4〔偽教師たちは〕こう言います。「彼〔キリスト〕の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」

 ここで「父たち」と呼ばれているのが、旧約聖書の時代の父祖たちのことなのか、新約聖書の時代の使徒たちのことなのかは、議論が分かれるところです。ただ、どちらであろうと意味は大きく変わらないと思います。いずせにせよ、偽教師たちの主張は次のようなものだったと推測できます。「キリストが来臨すると言われていたけれども、来臨なんてどこにも起こらないじゃないか!キリストが全世界を裁くと言われているけれども、裁きなんてこの世界が始まってから一度も起こっていないじゃないか!そうさ、この世界はこれからも、このまま変わらず続いていくんだ。神の裁きなんてあり得ない!だから、自由に生きよう!昼間から酒を飲んで、気持ちの良いことをして、この短い人生を楽しもう!それこそが、神がわれわれにお与えになった自由だ!」

 このような偽教師たちの教えに反論するために語られたのが、今日の聖書個所だと言えます。3章の8節と9節をお読みします。


3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 偽教師たちは、「神の裁きなんて起こらないじゃないか!だから好き勝手に生きていこう!」と教えていました。しかしペテロは、「そうやって好き勝手に生きているあなたがたのために、神は裁きを待っていてくださるのだ」と反論したわけです。「自分たちが本来なすべきことを忘れて、昼間から飲み騒いでいるあなたがたのことを、神は今すぐに滅ぼすこともできる。しかし、こんなに不道徳で惨めな生活をしているあなたがたのことさえ、神は見捨てたくないのだ。神は愛しておられるのだ。だから、今すぐ悔い改めなさい。今すぐ正しい生活を取り戻しなさい。それでもあなたがたが悔い改めないなら、主の日、神の日、裁きの日は突然やって来て、あなたがたは滅ぼされてしまうだろう。」


「地と地にある働きはなくなってしまいます」?

 さて、このような文脈で語られているのが、イエス様の“再臨”について最も誤解されやすい個所、すなわち第二ペテロ3章10節です。


10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。

 「地と地にある働きはなくなってしまいます。」新改訳2017の翻訳では、そのように書かれています。たしかに、「なくなってしまいます」という翻訳のほうが、理解しやすいかもしれません。天が消え去り、天の万象も崩れ去り、地と地にある働きも「なくなって」しまう。流れとしては理解しやすいと思います。天が消え去るのなら、地も消え去るに違いない。

 ところが実は、「なくなってしまいます」という部分は、おそらく元々は「暴かれます」という表現だったと考えられます。「地と地にある働きは暴かれます。」これが元々の表現だったんです。あとでご説明しますが、これには十分な根拠があります。それではどうして、元々は「暴かれます」だったはずなのに、 「なくなってしまいます」という表現に変わってしまったのでしょうか。

 少し複雑な話になりますが、聖書にはたくさんの「写本」というものが残されています。当時はまだ、印刷機とかコピー機とかは発明されていなかったので、手紙を色んな人に読んでもらうためには、手書きで書き写す必要があったわけです。最初にペテロが書いた手紙を、誰かが手書きで書き写して「写本」を作る。その「写本」をまた誰かが書き写して、次の「写本」を作る。こういう作業が何百年間も繰り返されて、たくさんの写本が作られていく。

 そうやって写本を書き写す人たちのことを「写字生」と言います。写字生たちは、基本的には元々のテキストをそのまま書き写そうと努力するのですが、人間が書き写すわけですから、写し間違えてしまうこともあるわけです。また、「この言葉だとよく意味がわからないから、こういう言葉に直しておこう」というように、勝手に書き換えてしまう人もいる。なので、聖書の学者たちは、そうやって作られたたくさんの写本を見比べながら、「どれが元々の言葉で、どれが書き間違いや書き換えなのか」ということを、一つ一つ判断しなければなりません。

 ここで問題となるのは、第二ペテロ3章10節の元々のテキストは「なくなってしまいます」だったのか、それとも「暴かれます」だったのか、ということです。元々のテキストが「暴かれます」だったと考えられる根拠は二つあります。第一の根拠は、「なくなってしまいます」という言葉になっているのはギリシャ語以外の翻訳写本だけで、もともと新約聖書が書かれたギリシャ語の写本には「なくなってしまいます」という言葉は一つも残っていません。それに対して、「暴かれます」というギリシャ語は、最も信頼性の高いシナイ写本やバチカン写本に残されています。第二の理由は、「なくなってしまう」よりも、「暴かれてしまう」のほうが、文脈的に不自然で分かりにくい、ということです。不自然で分かりにくい表現のほうが、元々の言葉であった可能性が高いんです。なぜなら、写字生たちは、不自然で分かりにくい言葉を見つけると、分かりやすい言葉に書き換えてしまうからです。その逆に、分かりやすい表現を、わざわざ分かりにくい表現に書き換える写字生はまずいません。なので、文脈的に分かりにくい表現である「暴かれる」のほうが、元々のテキストだった可能性が高いんです。

 では、元々の言葉が「地と地にある働きは暴かれます」だったとすれば、それはどういう意味なのでしょうか。「天」や「天の万象」は消え去ってしまうのに、どうして「地」だけは消え去らないのでしょうか。実は、聖書が書かれた当時の考え方では、「天」にはいくつかの段階があると考えられていました。一番上には“高い天”があり、その下に“低い天”があり、さらにその下に“地”がある、という風に考えられていたんです。一番上の“高い天”には神様がおられ、その下の“低い天”には太陽や月などの天の万象があり、さらにその下の“地”には人間が住んでいる。つまり、神の世界と人の世界の間に挟まれている“低い天”は、神と人の間を遮るカーテンのような役割を果たしている、ということです。

 ということは、この“低い天”が消え去ってしまったら、このカーテンが消え去ってしまったら、どうなるでしょうか。“天の万象”が崩れ去ってしまって、神様と私たちとの間に、遮るものが何も無くなるのです。この地上の全てが、私たちの全てが、神様の前に明らかになってしまう。暴かれてしまう。これが、ペテロが語っていることです。非常に分かりにくいのですが、非常に分かりにくいからこそ、これが元々のテキストだと言えるんです。

  子どもの頃、公園にある大きな石をひっくり返したら、ダンゴムシがたくさん見つかったことがありました。「暴かれる」というのは、そういうイメージかもしれません。もしくは、ジブリが好きな方には伝わると思うのですが、『借りぐらしのアリエッティ』という映画の中で、小人たちがひっそりと隠れて暮らしているところに、ある日、人間のおばさんが小人たちの家の屋根を剥がして、「見いつけた」と言う場面、あんな感じのイメージかもしれません。(神様はこんなにやな感じではないと思いますが。)

「金曜ロードショー」の X(Twitter) 公式アカウントより引用


「我らをご自身の栄光と同じ姿に」

 この世界は暴かれます。あなたのすべても暴かれます。あなたが隠している罪、あなたが隠せると思っている罪、誰も知らないあなたの罪、そのすべてが暴かれて、徹底的な裁きが行われる。11節から13節までをお読みします。


11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。
12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます

 偽教師たちは、「神の裁きなんて起こらない。何をしたって、どうせバレることはない。どうせ裁かれることはない」と考えて、好き勝手な生き方を広めていました。今の世界がいつまでも続くのだと、彼らは考えていました。しかし、「このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。」

 みなさんは今、神の裁きを受ける用意ができているでしょうか。「私は大丈夫だ。私は十分正しい人間だから」と言える人はいるでしょうか。もう一度申し上げますが、隠し事は通用しません。すべてが暴かれます。私たちの嘘も、誤魔化しも、言い訳も、見栄っ張りも、なに一つとして通用しません。それでも、神様の前で胸を張って無罪を主張できる人がいるでしょうか。

 「だめだ、私みたいな人間はきっと滅ぼされてしまう」と不安になる人もいるかもしれません。たしかに神は、あなたの罪を裁きます。あなたがこれまで犯してきた罪の数々、今も犯している罪の数々。もしかすればあなたは、他の人よりもたくさん罪を犯してきたかもしれません。他の人よりもたくさん悪い言葉を吐き、たくさん人を傷つけ、誰にも言えないような罪を繰り返してきたかもしれません。人に優しくすることができず、人を愛することができず、いつも人から距離を置いて、逃げてきたかもしれません。どうして自分はこんなに自己中心なのか。どうして自分は怒りを抑えられないのか。どうして自分は自分をコントロールできないのか。自分だって、あの人みたいな優しい心がほしかった。自分だって、もっと愛情に溢れた心がほしかった。

 たしかに、神様はあなたの罪をさばきます。あなたのすべてが暴かれます。しかし、そのとき、その裁きにおいて「暴かれる」のは、あなたの罪だけではありません。神様はあなたのすべてを知っておられます。なぜあなたは人を傷つけてしまうのか。もしかすればそれは、あなたが人から傷つけられてきたからかもしれません。なぜあなたは人を愛することができないのか。それは、あなたが人からの愛情をあまり受け取れなかったからかもしれません。そのこともすべて、神様は暴いた上で、裁きを行ってくださいます。あなたが育ってきた環境、あなたがこれまで歩んできた道のり、あなたが受けてきた苦しみ、あなたの心の中の、深い深いところにある傷、だれ一人として分かってくれなかったとしても、神様だけは分かってくださる。

 私たちが所属する日本同盟基督教団は8つの項目から成る“信仰告白”を持っているのですが、その8つ目の項目、つまり信仰告白の最後の部分は、次のようになっています。


終わりの時に、主イエス・キリストはみからだをもって再臨し、生ける者と死せる者とを審判する。主は我らをからだをもってよみがえらせ、我らをご自身の栄光と同じ姿に造りかえ、万物を新たにし、神の国を完成する。アーメン。

 私たちが今持っている「からだ」は、様々な傷を負った「からだ」です。いま私たちが持っている「姿」は、人を愛しにくい「姿」です。しかし、イエス様が再びこの世界に来られ、神の国を完成されるその時、「我らをご自身の栄光と同じ姿に造りかえ」てくださいます。

 昨日と今日の二日間、ご近所の盛岡聖書バプテスト教会では修養会が持たれていて、牧師であり心理学博士でもある丸屋真也先生が講師として招かれています。私も昨日の講演を聞かせていただきました。昨日の講演のテーマは、「心」と「脳」の関係でした。クリスチャンは「たましい」と「からだ」を別物として考えてしまうので、「心」と「脳」も別物として理解してしまうことが多い。しかし実は、「心」と「脳」には重要なつながりがある。どんなに信仰に熱心な人でも、どんなにクリスチャンとしての「心」を大切にしている人でも、脳が傷ついてしまっていると、悪い方向に進んでしまう。幼い頃に親から受けた虐待によって、脳に傷を負っている人もいる。それが原因で、感情のコントロールが難しかったり、人に対して関心や愛情を持つことが難しい人もいる。どうしても優しい心が持てなかったり、人に意地悪をしてしまうようなことがある。

 最後の日の裁きについて、C.S.ルイスが次のように書きました。少し長いですが、引用します。


 猫に対して病的な恐怖をもっている神経病患者が、思い切って猫を抱き上げて撫でてやる時、神の目にはそれが、健康な人がヴィクトリア勲章を授与されるほどの勇気を示す以上に、大きな勇気を示したものとして映るかも知れないのである。また、小さいときから変質者で、残虐な行為は正しいことだと教えられてきた男が
ほんの僅かな親切でも行なう時あるいはいつもなら当然やったであろうような残虐行為を、仲間から笑われるのを覚悟で、今回はあえてやらなかったという場合、神の目にはそれがわれわれが友だちのために生命を捨てるよりも、もっと立派な行為として映るかも知れないのである。

 このことを逆に言ってもいい。「あの人は良い人だ」と言われている人たちも、その心理的素材、すなわち良い遺伝や良い育ちを全然使わなければ、「悪魔のような奴」と言われている人たちよりも、実は、もっとたちが悪いのである。……人間の心理的素材は、おそらくその大部分が肉体に由来している。だから、肉体が死ぬ時、それらのものすべては脱落し、人間のほんとうの中心――選択を行ない、その素材を活用あるいは悪用したもの――だけが裸の姿で残ることになる。ある人の場合は、自分の良いところ――その原因を自分の人柄に帰していたのだが、実は、胃の調子の良さがほんとうの原因だった――が全部脱落してしまい、他の人の場合には、異常心理や病身に由来する意地の悪さがことごとく消え去ってしまうであろう。その時初めて、われわれはお互いのほんとうの姿を見て、さぞかし驚くことだろう。

C.S.ルイス『キリスト教の精髄』(柳生直行訳、新教出版社、1977年)149-150頁。

 私たちのからだは、私たちの脳は、傷だらけかもしれません。人を愛したくても愛せない、罪深い心かもしれません。しかし、イエス様が来られて、「ご自身の栄光と同じ姿」を与えてくださる。すべてが暴かれ、すべてが裁かれ、すべてが明らかになる。そのようにして、新しい天と地、神の国が完成します。人を愛せる私になっていきます。自分自身をも愛せる私になっていきます。すべてが明らかになり、すべてが新しくなるその日を、私たちは心から喜んで待ち望みましょう。神の裁きは、厳しい裁きであると同時に、愛と憐れみの良い裁きなのです。お祈りいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。あなたが再び来られ、世を裁かれるその日まで、私たちは隠し事の多い世界を歩むこととなります。あなたに裁かれる前に、あなたに暴かれる前に、隠し事などやめて、素直に悔い改めることができますように。私の罪は隠されています。しかし、隠されているのは、罪だけではありません。私の深いところにある傷を、人は知りません。私自身さえも知らないのかもしれません。しかし、あなたは知っていてくださいます。あなたはこの傷を暴いて、そして、傷のない新しいからだを与えてくださいます。イエス様のような美しい姿を与えてくださいます。それは、どれほど幸いなことでしょうか。その日に備えて、いつも悔い改めて、謙遜になって、あなたを待ち望む私たちとさせてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。