ヨハネ1:12-13「望まれず生まれたとしても」(宣愛師)
2024年7月28日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『ヨハネの福音書』1章12-13節
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

イエス・キリストは不倫の子?
イエス・キリストは誰の子どもか。そう尋ねられたとして、皆さんならどうお答えになるでしょうか。私たちクリスチャンは第一に、「イエス様は神様の子どもだ」と答えます。イエスは神の子である。そのように答えると同時に私たちは、「イエス様はマリアの子どもだ」とも答えます。クリスマスが伝える出来事です。マリアは神様の力、聖霊様の力によって、イエス様を身ごもった。イエス・キリストは誰の子どもかと尋ねられれば、父親は神様であり、母親はマリアである、と答えることができます。
ところが昔から、クリスマスの出来事を信じず、疑う人々がいました。今からだいたい1900年くらい前に、ケルソスという名前のローマ人哲学者がいたのですが、このケルソスという人は、キリスト教を隅から隅まで批判しまくった人でした。ケルソスは当然、クリスマスの物語も批判します。「神の力によって処女マリアが身ごもっただって? そんなの嘘に決まってるじゃないか! マリアが妊娠したのは、ローマの兵士と不倫をしたからだ。マリアはヨセフと婚約していたはずなのに、パンデラという名前のローマ兵と不倫をして妊娠したのだ。その事実をマリアや周りの人々は隠して、神の力によって妊娠した、みたいな作り話を作っただけだ。イエスは神の子なんかじゃない。イエスはパンデラの子だ。ユダヤ人とローマ人の血が混ざって生まれた、不倫の子だ。」
ケルソスのこのような主張は、キリスト教を毛嫌いした一部のユダヤ人たちの間でも広がっていきました。ユダヤ人たちの間では、不倫によって生まれた人や、外国人の血が混ざっている人のことを、「マムゼル」と呼びます。「イエスは神の子などではない。イエスは不倫の子であり、パンデラの子である。イエスは忌み嫌うべきマムゼルである。」もちろん、このような批判に根拠があるわけではありません。マリアが不倫をしていたという証拠はどこにも発見されていません。それでも、「処女が身ごもった」とか、「父親は人間ではなく神様だ」という話が信じられない人たち、信じたくない人たちからすれば、「実は人間の父親がいたのだろう」「人には言えないような事情で生まれたのだろう」と邪推するしかないわけです。
イエス様は「マリアの子」として、また「ヨセフの子」として、大人になっていきました。しかし聖書学者たちの中には、イエスは生まれを疑われながら、肩身の狭い思いをしながら大人になっていったのではないか、と考える人もいます。「お前の父ちゃん、ほんとにヨセフなのか?」「本当はお前、マムゼルなんじゃないか?」と疑いをかけられながら、嫌味を言われながら、イエス様は生きて来られたのかもしれない。当時のガリラヤは狭い社会です。一応は「ヨセフとマリアの子どもだ」ということで通っていましたが、「まだ婚約中だったのに、マリアが突然妊娠したらしい」という話を、狭い社会の中で隠し通すことは難しかったでしょう。もちろん、「聖霊によって身ごもったのだ」と説明しても、信じる人は多くありません。イエス様は神の子どもなのに、不倫の子どもという疑いをかけられながら、小さく狭いムラ社会を生き延びて来られた。
当時の社会で大切にされていたのは、出身とか、身分とか、血筋とか、家系とか、家柄とか、その人がどういうところから生まれたのか、ということです。純粋なユダヤ人の血筋を守っているのか。先祖代々由緒正しい家系に生まれているのか。そういうことが大切にされていた時代です。人間の価値は親によって決まる、家柄によって決まるのだと、本気で信じられていた時代です。もしも「マムゼル」であれば、「不倫の子」であれば、「お前みたいな奴は、生まれた時点で価値のない存在だ」と言われてしまうような、そんな言葉が平気で語られてしまうような時代に、イエス様もまた、その存在価値を怪しまれる存在として生まれ、生きて来られた。
だからこそイエス様は、同じように社会からはじき出される人たちの気持ちが、よく分かったのだと思います。生まれた時点で邪魔者扱いされてしまうような人たちの気持ちが、その寂しさが、イエス様にはよく分かった。イエス様は、そういう人たちの友となられました。社会から邪魔者だと思われ、自分でも自分を邪魔者だと思っているような人たちをイエス様は深く愛して、友だちになってくださった。神の子であるはずのイエス様が、不倫の子という汚名を背負ってくださったことによって、この世界にある種の逆転現象が起こったのです。社会の邪魔者たち、マムゼルたちが、神の子の友となっていったのです。
今の日本にも、「私生児」とか「非嫡出子」と呼ばれる人たちがいます。「隠し子」と呼ばれることもあります。父親か母親のどちらか、もしくは両方から、「私の子ども」だと認めてもらえない子どもたちです。たまたま妊娠してしまった、避妊に失敗してしまった、こんなはずじゃなかった、そんな風に思われながら、半分邪魔者扱いをされながら生まれて来る人たちです。子どもにとって、親という存在は圧倒的に重要です。「お前なんて産まなきゃよかった」と言われて、心の底から傷つく子どもたちがいます。「誰が産んでやったと思ってるんだ」という言葉によって恐怖心を植え付けられ、支配されてしまう子どもたちもいます。「お前を産んだのが人生最大の失敗だった」という悲しい言葉を吐きつけられる子どもたちもいます。「ああ、自分は生まれてきてはいけなかったのか」「自分はお父さんやお母さんにとって邪魔な存在なのか」と、本気で思ってしまう子どもたちがいます。「生まれてきてごめんなさい。」そんな思いがいつも頭の中を巡っているような子どもたちがいます。
まなか先生と結婚する前、まだお付き合いし始めて間もなかった頃、一度だけ映画館にデートに行ったことがありました。役所広司さんが主演の、『すばらしき世界』という映画でした。どんな映画なのかよく分からず、なんとなく良さそうだということで、二人で選んで観に行きました。元ヤクザの主人公が刑務所を出所する、という場面から始まりました。途中まで観て、初めての映画館デートとしては大失敗だと思いましたが、今でも考えさせられる映画の一つです。もう二度とヤクザの道には戻らないぞ、と決心した主人公が、色々な人の助けを借りながら、どうにかして一般社会に溶け込んでいこうとする。ネタバレはあまりしたくないと思いますが、主人公は一般社会の中で真面目に生きていこうとするのだけれども、怒りの感情がコントロールできず、すぐにカッとなってしまい、社会の中に溶け込むことができない。感情をコントロールできない主人公の心の奥底には、子どもの頃に親に捨てられた経験がありました。子どもの頃、母親に連れられて孤児院に行き、そのまま預けられた。母親は、「すぐ迎えに来るからね」と言って、どこかに行ってしまったきり、帰って来なかった。「違う、母ちゃんは迎えに来たはずなんだ。おれが施設を勝手に飛び出しちまったから、すれ違っただけなんだ。」そう信じて生きてきたのだけれども、心の奥底にはいつも、「やっぱり母ちゃんはおれを捨てたんじゃないか」という恐れがある。
自分は邪魔者だったのだろうか。自分は“要らない子”だったのだろうか。もっと別の子が良かったのではないか。自分がもっと親に愛されるような、愛されやすいような子どもだったら良かったのだろうか。子どもの頃に受けた傷が、大人になってもじゅくじゅくと残って、いつも不安を抱えている。親から見捨てられた経験のある子どもたち。「お前を産んだのが人生最大の失敗だった」なんて言われた子どもたち。どうすれば、自分の人生を喜ぶことができるでしょうか。どうすれば、「自分は生まれてきてよかったのだ」と心の底から信じることができるでしょうか。
「肉の望むところでも人の意志によってでもなく」
今日の聖書のみことばを改めてお読みします。ヨハネの福音書、1章12節と13節。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
私たち人間は、「血によって」生まれるものです。「血によって」という現実から逃れることはできません。ユダヤ人の血があり、日本人の血があり、その他の国の人々の血がある。外国人の血が混ざっているというだけで、差別を受ける人たちがたくさんいます。今の日本でも、そのような悲しい差別があります。しかし、イエス様を受け入れ、イエス様を信じた人々には、「血によって」生まれるということを超える特権、「神の子どもとなる特権」が与えられるのです。ヨハネの福音書を読み進めていけば分かることですけれども、イエス様は実際に、「ユダヤ人」とか「サマリア人」とかいう、お互いがお互いを差別するような人種の壁を超えて、神の家族をお造りになりました。「血によってではなく……神によって生まれた」人は、新しい家族を造っていきます。
「お前なんか産まなきゃよかった」と言われて、「どうしてそんなことを言うの?僕はこんなに良い子なのに?」と反発できればいいのですが、そんな子どもはまずいません。「お前なんか産まなきゃよかった」と言われたら、大抵の子どもたちは自分を責めるものです。「ああ、自分が悪いんだ。自分がもっと良い子だったら。自分がもっとお利口だったら。ごめんなさいお父さん、お母さん。生まれてしまってごめんなさい。」そのような罪悪感、罪意識は根深く残ります。しかも、「自分は良い子だ」と言えるほど良い子ではない自分の現実も知っているから、余計に苦しい。
では、良い子じゃなければ、生きちゃいけないのでしょうか。親に迷惑をかけず、親の望むとおりの生き方ができるお利口さんでなければ、生まれてきてはいけないのでしょうか。「肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」私たちがどんなに自分の生まれを呪ったとしても、自分の罪を責めたとしても、イエス様は赦してくださいます。生まれた瞬間から「価値なし」と判断されてしまうような人々の罪、その罪責感は、イエス様が代わりに背負ってくださいます。良い子じゃなくていいんです。イエス様が赦してくださるから、それでいいんです。「良い子じゃなくていいから、神の子になりなさい」と、招かれているんです。
「お前なんか産まなきゃよかった」と言われて、「こっちこそ、産んでくれなんて頼んでない」と反発する子どもたちもいます。「そっちの都合で勝手に産んだんでしょ。そのせいで自分はこんなに苦しい人生を生きる羽目になった」と言って、親を呪い、自分の人生を呪う、そんな子どもたちもいます。「産んでほしいなんて頼んでない。」そのように子どもから言われて、心の底から傷つく親たちもいます。「ごめんね、私のせいで。幸せにしてあげられなくてごめんね」と、親たちが罪悪感に苦しむ場合もあります。「私があの時、子どもがほしいなんて思わなければ、この子にこんな苦しい人生を歩ませることもなかったのに」と、自分の決断を責める親たちもいます。
しかし、そうやって自分を責めてしまう親たちが、根本的に勘違いしていることがあるとすれば、それは、すべての命は神様に望まれて生まれてきたのだ、ということです。神様がお望みにならなければ、神様によらなければ、生まれてくる命は一つもないのだ、ということです。ヨハネの福音書1章3節には、次のようにあります。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」そうです、イエス様によらずに生まれた命なんて、この世界には一つもないんです。究極的には、人間の意志によって生まれた命なんて一つもありません。全ては神様の意志によって生まれた命です。神様が愛したいと思ってお造りになった命です。「産んでほしいなんて頼んでない。」子どもはそう言ってあなたを責めるかもしれない。でも、「産んでほしい」と頼んだのは、願ったのは、神様です。
すべての人は、望まれて生まれたのです。親に望まれて生まれた人もいれば、そうでない人もいます。ですが、私たちが神様の愛を知る時、イエス様を受け入れる時、すべての命が望まれて生まれた命なのだと確信することができます。「産んでくれなんて頼んでない。」そう言いたくなるほど苦しんでいる子どもたちの苦悩は、親だけで背負い切れるほど小さな問題ではないでしょう。その罪は、その呪いは、神様が背負われます。本当は神様が悪いわけではないけれども、しかしその呪いを、神様が受け止めてくださる。
「特権」と翻訳されているギリシャ語の元々の意味は、「外に立つ」という言葉です。外に立つ。何かに縛られることなく、自由に外に立つことができる。親が自分を愛しているかどうか、親が自分の誕生を望んでいたかどうか、そういう現実の外に立って、そういう現実に縛られない人生を歩むことができるのが、「神の子どもとなる特権」です。私は神の子どもなのだ。神様が私を愛してくださるのだ。私はイエス様と一緒に生きていくのだ。この社会の常識から、一歩外に出て、外に立つことができる。そのとき初めて私たちは、「ああ、私は生まれてきてよかった」と、心の底から言えるようになる。自分という存在を本当の意味で喜ぶことができるようになるんです。
神の子どもとなるということは、古い価値観から飛び出して外に立つということです。しかし、外に立った時、一人ぼっちで立たされるわけではありません。神の子どもとなるということは、神様がお父さんだということです。神様がお父さんだということは、同じお父さんを持つ兄弟や姉妹がたくさん増えるということでもあります。教会から火曜日までの三日間、私とまなか先生、そしてNちゃんとMくんは、「秋田・岩手こどもキャンプ」に参加してきます。色々な教会から、色々な子どもたちが集まってきます。キャンプに行くということは、たった数日間ではありますけれども、家族のもとを離れるということです。家族という枠組みの外に立つようなことです。「盛岡みなみ教会」という枠組みを超えることでもあります。
そうやって外に立つ、外に出てみると、そこには、同じ神様を信じるたくさんの仲間たちがいます。最初は緊張します。しかし、キャンプの中で聖書のみことばを聞いて、賛美をたくさん歌って、「ああ、イエス様は僕のことを愛してくださっているんだな」と確認する。そして、同じようにイエス様に愛されている仲間たちがたくさんいることを知る。外国から集まってくる人たちもいます。そんなキャンプの中で、色々な人と関わる中で、ある種の自信を付けていくんです。そうしてキャンプから帰ってくる子どもたちは、「ああ、自分の家はつまらないな。自分の教会はつまらないな。キャンプのほうが楽しかったな」と文句を言うのではなくて、むしろますます家族を愛する人、ますます教会を愛する人になっていく。神の子どもとなるということは、生きる世界が無限大に広がることです。そして、生きる世界が広がっていくなら、巡り巡って、自分が生まれた場所を愛せる人にもなっていくんです。自分が愛されていることを知らない人は、狭い世界に閉じこもって、あれが足りないこれが足りないと文句を言います。しかし、自分が愛されていること、そして世界中に愛し合える仲間たちがいることを知っている人は、狭い世界に生きていたとしても、伸びやかな心で生きていきます。それが、「神の子どもとなる特権」を持つということです。
神の子であるイエス様が、狭い世界に降りてき、私たちの苦しみを背負ってくださいました。マムゼルの汚れを背負ってくださいました。生まれた瞬間から「価値なし」と判断される人々の苦しみを、その寂しさを、そしてその罪さえも背負ってくださいました。「生まれてきてはいけなかったのではないか」と悩む私たちの罪、良い子になりたくても良い子になれない私たちの罪も全て、イエス様が背負ってくださった。そして私たちを、この狭い世界から、広く伸びやかな神の家族の中へと招き入れてくださった。あらゆる壁を超えた神の国の一員としてくださいました。神の国は、「生まれてきてよかった!」と、どんな人でも心から言えるような世界です。「生まれてきてくれてありがとう」「産んでくれてありがとう」と、すべての人が心から愛し合える世界です。イエス様を信じて、一歩外に出てみましょう。あなたの罪は赦されます。生きていていいのです。生まれてきてよかったのです。あなたが生まれること、生きることを、仮に誰がか望まなかったとしても、イエス様がそれをはっきりと望み、喜んでくださっているのです。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。あなたを「お父様」とお呼びできることは、私たちの最高の特権です。私たちの心のうちには、いつも不安がありました。拭い去ることのできない恐れがありました。しかし、今は確信することができます。生まれてきてよかったと、心から言えます。神様が愛してくださっている自分の価値を、はっきりと認めてあげることができます。この特権をいただいていることを、決して忘れることがないように、いつも私たちの心に聖霊様を住まわせ、神の子とする信仰を与え続けてください。広い世界に飛び出す勇気のない私たちに、一歩、外に立つ勇気を、その特権を、与え続けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。