マルコ14:22-31「神の国で新しく」(宣愛師)

2024年8月4日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』14章22-31節


14:22 さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
25 まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」
26 そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。

27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。
28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。



「キラキラ かがやき続ける」 ?

 まなか先生も週報のコラムに書いてくれていますが、先週の日曜日から火曜日までの三日間、「秋田・岩手こどもキャンプ」に参加してきました。おいしいごはんをたくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん賛美を歌った三日間でした。盛岡聖書バプテスト教会の近藤愛哉先生が、聖書のお話を分かりやすく話してくださいました。「はじめに神が天と地を創造された。」この美しい宇宙、美しい地球、美しい世界は、神様がお造りになった作品なんだ。そして、私たち一人一人も、神様が大切に大切に造ってくださった最高傑作なんだ。私たちはイエス様に愛されているんだ。

 しかし、「イエス様に愛されている」という聖書のメッセージを聞いても、それを素直に受け取ることができない子どもたちもいました。「ここにいる人たちはみんな元気で、明るくて、キラキラしてて、イエス様に愛されているんだと思う。でも、私はそんな人じゃない。こんな私がイエスさまに愛されているとは思えない。キラキラした人たちの中に、私みたいな人がいちゃいけないんじゃないかと思ってしまう。」そんなふうに、正直な気持ちを話してくれた子どももいました。

 今回のキャンプで繰り返し歌ったのは、「キラキラ」という賛美でした。こんな曲です。


会えたんだ イエスさまに 愛されて 赦された

どんなに かなしいときも 愛されて 赦された

イエスさまが この心に 光くれた  イェイ!×4

キラキラ かがやき続ける イエスさまの光 いっぱい受けて

ウキウキ 心がおどり出す イエスさまのかがやき 受けて

 私も子どもの頃から何度も歌っている賛美歌です。元気で楽しい、素晴らしい曲です。でも、もしかすると、こういうテンションについていけない子どもたちもいるのかな、とも思う。自分はこんなふうに歌えないよ、「イェイ!×4」なんて気分じゃないよ、と辛くなってしまう子どもたちもいるのかもしれない。こんな自分がイエス様に愛されているとは思えない。自分みたいな人間が、自分みたいに汚い人間が、「キラキラ 輝き続ける」なんて歌えない。

 この賛美歌は素晴らしい曲なんですが、「キラキラ」とか「ウキウキ」という部分だけが子どもたちに伝わってしまったとすれば、そこは今回のキャンプの反省点だったかもしれません。賛美のリードをしたのは私だったので、私自身の反省点でもあります。イエス様を信じることで、私たちの人生が輝いていくことは事実です。しかし、それがイエス様ではなく、私たち自身の光であるかのように見えてしまうとすれば、私たちクリスチャンの何かが間違っているのかもしれません。

 マルコの福音書、14章の22節から26節までをお読みします。


14:22 さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
25 まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」
26 そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。

 「聖餐式」と呼ばれる儀式です。イエス様の「からだ」と「血」をいただく、厳かな儀式です。盛岡みなみ教会では二ヶ月に一度、秋山先生が来てくださる日曜日に行なっています。聖餐式は、クリスチャンとそうでない人が最もはっきりと分かれる儀式だとも言えます。すでに洗礼を受けている人たちだけが、パンとぶどうジュースを口にすることができるからです。もし、「クリスチャン=キラキラした人たち」という理解を前提とするなら、聖餐式はクリスチャンたちが最もキラキラする瞬間だとも言えます。

 ところが実際には、私たちクリスチャンが聖餐に与るときに、「ああ、今日もおれたちキラキラしてるぞ」と思うことは、まずありません。「今日もキラキラしてるぞ。今日も聖餐式を受けるに相応しいぞ」なんてことは全く思わない。普段の生活の中では、「あ、おれってちょっとキラキラしてるかも」と勘違いすることはあります。でも、少なくとも聖餐に与るときだけは、間違っても自分がキラキラしているなどとは思えません。なぜなら聖餐式とは、私たちの罪の赦しのために行なわれるものだからです。自分の罪に向き合う時間だからです。イエス様の赦しを頂かなければ、自分の中にある真っ黒な罪をどうすることもできない、そのことを確認する時間だからです。

 イエス様がご自分のからだと血をお与えになったのは、弟子たちが素晴らしい人間だったからでしょうか。弟子たちがイエス様に従う忠実なクリスチャンだったから、イエス様は聖餐の恵みを与えてくださったのでしょうか。まったく違います。むしろその逆です。弟子たちは、キラキラ輝くクリスチャンではありませんでした。最後の晩餐が終わって間もなく、イエス様を裏切ってしまうことになる弟子たちです。イエス様を見捨てて逃げ去ることになる弟子たちです。クリスチャンを名乗るに相応しくない罪人たちのために、イエス様はこの聖餐の儀式を用意してくださった。

 25節でイエス様は次のように仰りました。「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」「神の国で新しく飲むその日」とは、神の国が完成したときの、完成パーティのことです。この世界が神の国として完成することを祝う祝宴です。打ち上げです。そしてここで重要なことは、イエス様がここで言われた「神の国で新しく飲むその日」というのは、弟子たちと一緒に飲む日だ、ということです。並行箇所のマタイ26章29節では次のように書かれています。


26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

 「あなたがたと新しく飲む」と言っているんです。イエス様は、これからイエス様を裏切ろうとしている弟子たちと、裏切り者の弟子たちと、もう一度一緒にぶどう酒を飲むおつもりなんです。パーティをやりたいと思っているんです。神の国が、父の御国が完成したその時、弟子たちをその祝宴に招こうとされているんです。「あなたがたと新しく飲む」。このことばにも、イエス様の深い深い愛と赦しが見えてきます。これからイエス様を裏切ろうとしている弟子たちに対して、「おまえたちと一緒に飲む日まで、わたしはぶどう酒はしばらく飲まない!」と言ってくださるんです。弟子たちを置いてけぼりにして、イエス様だけで祝宴を開くようなことはなさらないんです。「だって、おまえたちと一緒に飲まないとつまんないじゃん! おまえたちがいない神の国なんてつまんないじゃん! おまえたちと一緒に神の国を祝いたいんだ!」と言ってくださるんです。本当に、どこまで愛したら気が済むんだろうと思うくらいに、弟子たちを愛し続けるイエス様です。


「しかしわたしは……ガリラヤへ」

 マルコの14章に戻って、27節と28節をお読みします。


27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。

28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 「つまずく」と訳されているギリシャ語は、σκανδαλίζω(スカンダリゾー) ということばです。scandal(スキャンダル)という英語の語源になったと言われれば、少しイメージがしやすいかもしれません。スキャンダル。不祥事。何事もうまくいっていると思われていた人が、大きな罪を犯してしまう。順調に、まっすぐ歩んでいると思われていた人が、突然つまずいてしまう。倒れてしまう。前に進めなくなってしまう。

 「あなたがたはみな、つまずきます。」つまずく人もいれば、つまずかない人もいますよ、ではなくて、「みな、つまずきます。」ひとり残らず全員、前に進めなくなる。イエス様と一緒に歩み続けてきた弟子たち、イエス様の隣で順調に歩んできたはずの弟子たちが、つまずいてしまう。弟子たち全員がイエス様を見捨てて、イエス様を裏切って、散り散りになってしまう。

 「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」私は子どもの頃から教会で聖書を学んでいましたが、「ガリラヤ」という言葉がなかなかうまく発音できなかった記憶があります。たぶん、「ガラテヤ人への手紙」の「ガラテヤ」と「ガリラヤ」がこんがらがってしまって、「ガラリヤ」とか「ガヤユラ」と言っていた時期もありました。少なくとも、普通の日本人には馴染みのない地名だと思います。当時の世界でも、特に有名な場所ではありませんでした。むしろ、田舎町だとして馬鹿にされてしまうような場所でした。しかし、イエス様とその弟子たちにとっては、「ガリラヤ」は大切な故郷でした。彼らの生まれ故郷であり、イエス様と弟子たちが初めて出会った場所でもありました。そのガリラヤで、また会おう、と言われた。「わたしたちが出会ったあの場所で、わたしが先に行って待っているから、あなたがたも必ず来なさい。」

 28節でイエス様は、「しかし」と仰りました。「あなたがたはみな、つまずいてしまう。わたしを裏切って、わたしを見捨てて逃げてしまう。しかし、ガリラヤでまた会おう。」やがてイエス様を裏切ってしまう弟子たち。「ああ、もうイエス様に顔向けなんてできない。イエス様だって、もうおれたちなんかに会いたくないだろう」と落ち込むことになる弟子たちに、「しかし、また会おう」とあらかじめ言ってくださった。ここにもイエス様の深い愛情が見えてきます。裏切り者をも見捨てないでくださるイエス様の、愛情に溢れた「しかし」なのだと思います。

 ところが弟子たちは、そんなイエス様の愛情に気づいてか気づかずか、イエス様のことばそのものを否定しようとしました。29節から31節までをお読みします。


29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。

 「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」そうやって言い張るペテロたち、弟子たちは、必死でした。「あなたがたはみな、つまずきます」というイエス様のみことばを、なんとかして打ち消そうと必死でした。彼らの無駄な努力を見て、イエス様は何を思われたでしょうか。

 私はこれまで何人かの方に、“洗礼を受けない理由”を尋ねたことがあります。なぜ洗礼を受けないのか。ある人は、「まだまだ聖書の勉強が足りないからです」と答えてくれました。「家族に反対されているからです」と答えてくれた人もいました。理由は人それぞれです。こんなふうに答えてくれた人もいました。「もし洗礼を受けても、いつかイエス様を裏切ってしまうかもしれないから。」真面目な人でした。「洗礼を受けて、聖餐も受けさせていただくようになっても、もしイエス様を裏切ってしまったら、信仰を捨ててしまうようなことがあったら、それが一番申し訳ない。それが一番やってはいけないことだと思う。だから、私はまだ洗礼は受けられないんです。」

 裏切ってしまうくらいなら、最初から洗礼なんて受けないほうが良い。「イエス様に一生ついていきます」なんて、最初から言わないほうが良い。たしかに、その通りかもしれません。ただ、イエス様はどう言われるでしょうか。「わたしのことを裏切るくらいなら、最初からわたしの弟子になんてなるな」と、イエス様は仰るでしょうか。イエス様は、裏切ると分かっている弟子たちのために、聖餐式をお与えになったんです。「あとでわたしを裏切るような奴らには、わたしの大切なからだや血は与えたくない!」とは言わなかったんです。むしろイエス様は、裏切られると分かっていたからこそ、聖餐式を与えてくださった。裏切られると分かっていたからこそ、弟子たちが離れていってしまうと分かっていたからこそ、弟子たちと固い契約を結んでおきたかったんです。弟子たちが帰って来れる場所を作っておきたかったんです。「またガリラヤで会おう」と約束しておきたかったんです。イエス様が結んでくださった新しい契約、聖餐式の契約は、裏切りを乗り越えていくための契約でした。

 「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」そうやって高らかに宣言したペテロは、見事にイエス様を裏切ってしまいます。「おまえもイエスの仲間だな」と問い詰められて、自分も十字架にかけられてしまうのが怖くなって、「違う、そんな人は知らない。そんな人は会ったこともない」と、イエス様と自分の関係を否定した。そして、鶏が鳴いて、ペテロは泣き崩れた。

 ペテロは、イエス様を裏切らないことが、イエス様と一緒にいられる絶対条件だと勘違いしていました。自分がイエス様を裏切らなければ、自分はイエス様と一緒にいられる。自分がイエス様を裏切ってしまえば、もうイエス様と一緒にいることはできない。ペテロの信仰は熱く燃えていました。キラキラしていました。周りを圧倒するような信仰でした。しかし、ペテロの信仰は結局のところ、自分次第の信仰でした。ペテロがイエス様を裏切らずにいられるかどうか、ペテロがイエス様を見捨てずにいられるかどうか、全てがペテロにかかっている信仰でした。そんな信仰は簡単に崩れてしまう。すぐにつまずいてしまう。でも、本当の信仰は違います。本当の信仰は、イエス様が私たちを見捨てずにいてくださるかどうか、ただそれだけにかかっています。

 「イエス様を裏切ってしまうかもしれないから、だからまだ洗礼は受けません。」それは立派な志にも聞こえます。誠実な態度のように思えます。しかしそれはつまり、「イエス様を絶対に裏切らないほど強い信仰が手に入ったら、その時に洗礼を受けます」ということなのでしょうか。「イエス様を絶対に裏切らないと確信できたら、私は洗礼を受けられる」ということなのでしょうか。もしそうだとすれば、その人はペテロと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。自分次第の信仰を手に入れようとしているだけなのではないでしょうか。イエス様の赦し抜きで、聖餐式の恵みなしでやっていける信仰を手に入れようとしているだけなのではないでしょうか。

 私たちが洗礼を受け、聖餐の恵みに与るのは、イエス様を二度と裏切らないと確信できたからではありません。私たちが洗礼を受け、聖餐の恵みに与るのは、イエス様を何度も何度も裏切ってしまう私たちが、それでもイエス様から離れずにいられるためです。何度も何度もイエス様を裏切ってしまう私たちが、それでもイエス様に赦していただいて、イエス様と一緒にいさせていただくためです。

 そのために結ばれた「契約」です。私たちが「契約を結びましょう」と頼んだわけではなかった。イエス様のほうから、「取って食べなさい、取って飲みなさい」と言ってくださった。イエス様のほうから「契約」を結んでくださって、私たちを逃がさないようにしてくださったんです。「キラキラしてなくていいよ。汚れたままでいいよ。強い信仰なんて持ってなくていいよ。ただわたしと契約を結びなさい。ただわたしの家族になりなさい。裏切るんだろう? 分かっているよ。わたしは全部知ってるよ。でも、あなたを赦す準備はできているから、そのために十字架にかかったのだから、だから、立ち直ったら、またわたしのもとに帰って来なさい。」

 「神の国で新しく飲むその日まで」、イエス様と一緒に神の国の完成をお祝いするその日まで、私たちは、何度も何度もイエス様を裏切りながら、しかし何度も何度も赦しをいただきながら、イエス様とともに歩み続けていきます。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」なんて強がる必要はないんです。スキャンダルは起こるでしょう。「もう何年も教会に通っているのに、そんな罪を犯したの?」と周りからドン引きされてしまうような、そんな大失敗もやらかすでしょう。罪を犯しても良いということではありません。でも、自分が二度と罪を犯さないなどと意気込むことは危険ですし、周りを萎縮させてしまうだけだと思います。

 キラキラしていると思われていた私たちが、実はそんなことなくて、むしろだれよりも赦しを必要としている人だったんだとバレてしまっても、それでいいんです。「私みたいな人がいちゃいけないんじゃないか」と思ってしまうような人たちに、「ああ、私でもここにいていいんだ。私でもイエス様を信じていいんだ」と思ってもらえるような教会になっていくのだから、それでいいんです。何度でも何度でも、イエス様の食卓に、聖餐の恵みに、新しい契約に戻って来ましょう。ペテロも、ほかの弟子たちもみんなそうだったんです。みんな恥ずかしい失敗をして、大失敗をして、でも赦されて、もう一度やり直したんです。それこそが教会の姿です。それこそがイエス様を信じる信仰の道です。そのようにして私たちは、神の国の完成に向かって、イエス様が用意してくださる祝宴の日に向かって、転んでばかりの拙い歩みだとしても、赦されてばかりの情けない歩みだとしても、少しずつ少しずつ、前に進ませていただきいきたいと思います。お祈りをします。


祈り

 私たちの父なる神様。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」と宣言したがるような、そんな私たちの強がった信仰が、いつの間にか周りの人たちを威圧してしまい、教会から遠ざけてしまっているとすれば、それほど申し訳ないことはありません。「たとえ皆がつまずかなくても、私はつまずきます。だからイエス様、あなたの赦しをください」と言えるような、謙遜な信仰を持つことができますように。そのようにして周りの人々に、本当の輝きとは何かを、お伝えすることができますように。「こんな自分でも、こんな自分だからこそ、イエス様を信じていいんだ」と思ってもらえるような、そんな教会の姿を、赦された罪人としての信仰者のあり方を、隠すことなくお伝えすることができますように。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。