マルコ14:32-42「わたしの望むことではなく」(宣愛師)
2024年8月11日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』14章32-42節
14:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40 そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
41 イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
42 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
「ここにいて、目を覚ましていなさい。」
私は今年、日本同盟基督教団の正教師試験を受験するので、まず7月に「出願書」を提出したのですが、それに併せて、「自己評価書」というものも提出しなければなりませんでした。自己評価書というのはその名の通り、自分自身について評価をつけるものです。学校の通知表のようなものを、自分で自分につけるわけです。牧師になるための試験に、どういう評価項目があるか。たとえば、「あやまる心」という項目があります。「リーダーシップ」とか、「金銭管理力」という項目もあります。これらの項目について、自分で「A」「B」「C」の評価をつけるわけです。「A よいと思う」「B 普通」「C 乏しい」とつける。全部で39の項目を見ながら、自分自身の長所や短所を自分で見極めて、正直に記入をして、出願書と一緒に提出する。なかなか大変な作業でした。
その自己評価書の最初に書かれていたのが、「祈り」という項目でした。私は恥ずかしながら、「C 乏しい」とつけざるを得ませんでした。ある一日は、朝起きたらちょっと祈る、食事の前にちょっと祈る、寝る前にちょっと祈る。いざ数えてみれば、一日の合計は5分くらい。24時間、1440分のうち、たった5分しか祈っていない。伝道師でありながら、そんな情けない日もあるような、祈りに乏しい者です。皆さんは、毎日どのくらい祈っているでしょうか。そもそも、祈りとは何でしょうか。私たちはなぜ祈るのでしょうか。今日はこの祈りということについて、イエス様のお姿から学びたいと思います。まずは32節から34節をお読みします。
14:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
「ゲツセマネ」というのは、アラム語で“油しぼり”という意味です。この場所は「オリーブ山」という山のふもとにあったので、おそらくオリーブオイルを絞る場所という意味で、“油しぼり”と呼ばれていたのでしょう。ヨハネの福音書の18章1節を見てみると、この場所は「園」だったとも書かれているので、キリスト教会はこの場所を「ゲツセマネの園」と呼ぶようになりました。
マルコの福音書1章35節には、次のように書かれています。「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」また、同じくマルコの6章46節には次のようにあります。「そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。」これまで私たちが見てきたイエス様というのは、どちらかと言えば、一人で祈るイエス様でした。一人で静かな場所に行き、一人で山に登り、一人で祈りをささげるイエス様。
しかし今回は違いました。弟子たちとともに、ゲツセマネの園に向かわれた。しかも、三人の弟子に至っては、祈りをささげる場所のすぐ近くまで連れて行かれた。なぜイエス様は一人で祈らなかったのでしょうか。十字架にかかる直前のご自分の姿を、弟子たちに見せておきたかったのでしょうか。理由は色々考えられるかもしれませんが、もっと単純なことだったのではないかとも思います。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」イエス様は、不安だったのだと思います。一人でいるのが怖かった。愛する弟子たちと一緒にいてほしかった。一緒に祈っていてほしかった。
NHKの朝ドラ『虎に翼』、相変わらず夫婦揃って楽しみに観ています。いつか皆さんにも観ていただきたい名作だと思っていますので、なるべくネタバレを避けながらお話ししますが、先週の物語の中で、こんなナレーションがありました。
NHK連続テレビ小説『虎に翼』第19週(93話)「悪女の賢者ぶり?」(2024年8月7日放送)より。
航一はその後、何も喋らずに、黙々と書類を読み続けました。
その沈黙が、不思議と寅子の気持ちを軽くしていきました。
具体的にどんな場面だったのかは、皆さんの想像にお任せしますが、あえて詳しくご説明せずとも、なんとなくご理解いただけるのではないかと思います。主人公の寅子が、裁判官の仕事の中で壁にぶつかり、悩みや罪悪感が心に重たくのしかかっていた時に、「何も喋らずに」ただ一緒にいてくれるだけの航一。何かアドバイスをするわけでもない。ただ一緒にいてくれる。それが、悩み苦しむ人には、何よりの助けとなる。イエス様も、弟子たちに何かアドバイスや励ましの言葉を求めたわけではありませんでした。ただ、ここに座っていてくれ、ここにいて目を覚ましていてくれ、と頼んだだけでした。それが、死ぬほど苦しいイエス様が求めていたことでした。
誰かが困っている時、私たちは、特に私のような牧師や伝道師は、何か気の利いたことを言ってあげたいと思ってしまいがちです。何かアドバイスをしてあげよう、解決策を見つけてあげよう、と考えがちです。もちろん、アドバイスが必要な時もあります。一緒に解決策を考えてあげることが助けになることもあります。しかし、残念ながら多くの場合、すぐにアドバイスをしたがる人というのは、「相手を助けたい」という願いの裏に、「自分が役に立つ人間だと思ってもらいたい」という願いが隠れているものです。「良いアドバイスができる人間」だと思われたいから、アドバイスをしたがるんです。それよりも、私たちがまずしなければならないことは、「何も喋らずに」、その人の悩みを受け止めて、その人のそばで、もしくはその人のいない場所で、その人のために祈ることかもしれません。それが、最も大きな助けになることもあるのではないかと思います。
“送信”の祈り、“受信”の祈り
続いて、マルコ14章の35節と36節をお読みします。
35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
「この時」、「この杯」。十字架の苦しみ、人々の嘲り、愛弟子の裏切り、耐え難い痛み。「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」イエス様の切実な願いでした。私たちが経験するどんな苦しみよりも、はるかに苦しい、はるかに切実な願い。
先週の礼拝でもご報告しました「秋田・岩手こどもキャンプ」で、私は小学6年生の男子部屋を担当したのですが、その男の子たちにこんな質問をしてみました。「みんなが神様を忘れちゃう時って、どんな時?」すると、秋田から来ていた一人の男の子が、面白い答えをしてくれました。「ん~、楽しい時かなあ?」なかなか本質的な答えだと思いました。楽しい時に、私たちは神様を忘れてしまう。神様抜きで生きていけるかのような錯覚をしてしまう。でも、苦しくなると、辛い状況に陥ると、神様を思い出す。普段の祈りはテキトーなのに、お腹が痛くなった時にトイレの中で祈る祈りは誰よりも熱心。そして痛みが収まったら、また神様を忘れてしまう。まさに、“苦しい時の神頼み”というやつです。それが私たちの信仰かもしれません。
イエス様の祈りは、“苦しい時の神頼み”ではなかった。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」たしかにイエス様は、“神頼み”をしました。「この杯をわたしから取り去ってください」と祈りました。しかしイエス様は、最終的には、自分の願いではなく、神様の御心を求めた。「これをしてください」「あれをしてください」と祈る祈りではなく、「あなたがお望みになることが行われますように」という祈りをささげた。
私たちの祈りと、イエス様の祈りとの違いは何でしょうか。私たちの祈りは多くの場合、“自分の願いに合わせて神様を動かそうとする祈り”です。「神様、どうしてこんな苦しい目に遭わなければならないのですか。どうして私をこんなにも苦しめるのですか。早くこの苦しみを取り去ってください」と言って、神様を動かそうとする。神様の考えを変えようとする。しかしイエス様の祈りはその逆です。“自分の願いに合わせて神様を動かそうとする祈り”ではなく、“神様の御心に自分を合わせる祈り”です。「早くこの苦しみを取り去ってください」ではなく、「この苦しみをあえて取り去らないあなたの御心を、わたしが理解できるように助けてください」という祈りです。
もちろん、「これをしてください」と祈る祈りも大切です。パウロもピリピ人への手紙の中で、「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(4:6)と書きました。私も伝道師として、たくさんの願い事を神様に祈ります。「神様、教会のあの人が大変な状況にあります。どうか助けをお与えください」と祈ります。でも、その祈りをささげる中で、「ああ、大変な状況にあるあの人のために、自分にはこのことができるかもしれない」と気づく。気づくというより、神様に気づかされる。それもまた祈りであろうと思うんです。神様に願い事を“送信”するだけでなく、自分がなすべきこと、自分にもできることを、神様から“受信”する。それもまた祈りであるはずです。
「もう十分です。さあ、行こう。」
続いて、37節から42節までをお読みします。
37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40 そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
41 イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
42 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
「一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。」いやいやイエス様、一時間も祈っていたんですか、そりゃ弟子たちだって眠ってしまうでしょう、と言いたくなります。徹夜で過越の食事をして、パンやお酒でお腹いっぱいの弟子たちです。しかしイエス様は、一時間くらい平気だというくらいに、祈っておられた。しかも、一度ではありません。たぶん、同じくらい長い祈りを、二度、三度と繰り返し祈っていく。なぜイエス様はそんなにも長く、熱心に祈られたのでしょうか。そこまで熱心に、長く祈り続けなければならない理由は何だったのでしょうか。
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」イエス様はペテロに語りかけます。お叱りの言葉でもあったかもしれません。しかしイエス様は、眠ってしまったペテロを見下したりはしなかったと思います。「おまえは弱い人間だから、起きていられないんだ。わたしのように強い意志を持って、目を覚まして祈りなさい」と上から目線で叱りつけたわけではなかったと思います。むしろイエス様は、ペテロたちの弱さをよく分かってくださっていたはずです。イエス様ご自身も、弱さを持つ人間だったからです。イエス様も誘惑と闘っていた。誘惑に負けないためには祈るしかなかった。目を覚まして祈っていないと、神様の御心を求め続けないと、すぐに誘惑に負けて、自分の望みを優先させてしまいそうになるから。「霊は燃えていても肉は弱いのです。」この言葉は、弟子たちだけでなく、イエス様ご自身にも向けられた言葉だったのだと思います。
41節の「もう十分です」は、「もうたくさんだ!」という、弟子たちに対する怒りとか、「おまえたちはもう十分眠っただろう?」という皮肉としても解釈できます。しかし私はむしろ、「もう十分です」というイエス様の言葉は、「わたしはもう十分祈りました」という宣言ではないかと思います。三度の祈りを経て、一時間近い祈りを三度も繰り返して、ついにイエス様の心は定まった。「時が来ました。……さあ、行こう」と言えるようになった。逆に言えば、一時間近い祈りを三度も繰り返すまで、イエス様の心は定まらなかったんです。それほど長く祈らなければ、イエス様でさえ、誘惑に勝てなかった。私たちも、「もう十分です」と言えるようになるまで、神様の心と自分の心が一つになったと言えるようになるまで、絶えず祈り続ける者でありたいと思います。
先日の教会ミーティングで、盛岡みなみ教会の厳しい経済状況について分かち合いました。このままではまずい、だから祈っていきましょう、と確認しました。しかしそれは、「神様、お金をください」と祈るだけの祈りではなくて、「神様、この厳しい状況で、あなたは私たちに何を教えようとされているのですか」と尋ね求める祈りでありたいと思います。「こうなったらいいのにな」という私たちの願いを神様に押し付ける祈りではなくて、「こんな信仰者になってほしい」という神様の願いを聞き取るための祈りをささげたいと思います。私たちの父なる神様、「アバ、父よ」と私たちがお呼びする優しい神様は、どんなことでもできる神様です。いざとなれば、何百万円でも、何億円だろうと、必要なものはすべて与えることのできる神様です。しかし、それをなさらないとすれば、神様には必ずご計画がある。最善の御心がある。それは、私たちの信仰を奮い立たせるための試練かもしれません。私たちがますます互いに愛し合うための訓練かもしれません。私たちが自分の弱さや罪に気づくためのチャンスかもしれません。神様の願いと私たちの願いが一つになるまで、苦しい状況の中でこそ、私たちは祈り続けたいと思います。あのゲツセマネの園で必死に祈られた、あのイエス様の御姿に倣って、私たちの祈りを整えていきたいと思います。
最後に、「ある兵士の祈り」という名前で知られているポエムをご紹介します。とても心に響く詩であり、大切な真理を教えてくれる言葉です。
大きなことを成し遂げるために、力を神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった。偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに、
良きことができるようにと、病を与えられた。幸せになろうとして、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧しさを授かった。世の称賛を得ようとして、成功を求めたのに、
高慢にならないようにと、失敗を授かった。人生を楽しもうと、多くのものを求めたのに、
人生を味わうようにと、素朴な生活を与えられた。求めたものは何一つ与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられていた。私はあらゆる人の中で、
もっとも豊かに祝福されていたのだ。
この兵士の心が神様の心と一つになって、この詩が書けるようになるまでには、きっと多くの困難があり、人生の終わりに差し掛かってしまうくらい長い時間がかかったのだと思います。私たちもまた、神様の心と一つになるためには、多くの苦しみを通らなければならないかもしれません。長い時間がかかるかもしれません。それでも最後の瞬間には、「願いはすべて聞き届けられていた」と告白して人生を終えられるような、そのような信仰へと導かれていきたいと思います。きっと、神様は導いてくださるはずです。私たちが信じる神は、なんでもできる全能の神であり、私たちのために必ず最善を成してくださる、優しいお父様だからです。お祈りをいたしましょう。
祈り
いかなる時も最善を為してくださる、私たちの愛する天のお父様。私たちがささげる祈りが、「これをしてください」「あれをしてください」と一方的に語るような祈りではなく、あなたの御前に静まり、あなたからの語りかけを何時間でも待ち続けるような祈りとなりますように。また、助けを必要としている人がいる時に、「神様、あの人を助けてあげてください」と願うだけの祈りではなく、自分にできることは何か、神様が私たちに求めておられることは何か、その人のために本当に語るべき言葉は何か、語るべきでない言葉は何か、それらを教えていただくための祈りをすることができますように。すぐに誘惑に負けてしまう、自分の願いばかりを優先してしまう私たちが、目を覚まして祈り続けることができるように、霊は燃えても肉の弱い私たちを励まし、あなたと深く交わる祈りの中へと導き続けてくださいますように、これもまたお願いになってしまいますけれども、あなたの御心を求めるための祈りとして、どうか聞き上げてくださいますように、心から祈り願います。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。