ヨハネ4:39-42「聞いて分かったのです」(まなか師)

2024年8月25日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』4章39-42節


39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」



はじめに

 この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。

 先々週、そして先週は、宣愛先生のコロナ罹患で、皆さんに大変ご心配をおかけしました。東京での療養中は色々大変なこともありましたが、ご覧のとおり、いまは回復しています。お祈りありがとうございました。また、盛岡に戻ってきてからは、食料や薬を届けてくださった方々もおられ、とても助けられました。本当にありがとうございました。

 そもそもなぜ東京に行ったかと言うと、これも皆さんのお祈りに覚えていただいていたことですが、同盟教団の青年宣教大会フロンティアが東京で開催されたからでした。盛岡みなみ教会からは私たち夫婦を含めて5名が参加しました。大会はとても祝福され、恵みにあふれる4日間でした。多くの青年や中高生が、神様の招きに答えて、信仰や献身の決心をしました。また、全国から集まってきた仲間たちと親しくなり、友だちになり、交わりを楽しみました。

 実は、大会のテーマは「LOOK UP!」で、今日開いているヨハネの福音書4章からのテーマでした。4章35節に「目を上げて畑を見なさい」というイエス様のみことばがあります。この「目を上げよう」を、英語で言うと「LOOK UP!」ですね。大会全体を通しても、4章1節から38節までのみことばから、メッセージが語られました。

 神様の不思議な導きでしょうか。私の前回の説教でも、4章38節までをお開きしました。特に私が狙ったわけではなく、かと言って、ただの偶然とも思えません。神様のお取り計らいに感謝して、今日は続く39節から42節をご一緒に開いてまいりましょう。


問いは信頼の始まり

 39節を改めてお読みします。


39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。

 イエス様が、一人のサマリア人の女性に出会うと、女性は驚いて、町の人々を呼びに行きました。そのときの女性の言葉を、少し戻って確認したいと思います。4章29節と30節をお読みします。


29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。

 女性は「来て、見てください」と叫びました。そして「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」とも問いかけました。イエス様がキリストであることに、まだ自信がなかったのだろう、と解釈する人もいますが、それだけではないと思います。もし彼女が「この方こそキリストです」と言い切っていたら、人々は腰を上げなかったかもしれません。彼女の問いかけは、人々に、自分の目で見て、確かめるよう促しました。「来て、あなたの目で、キリストを見てみてください」。「本当にキリストなのかどうか、確かめてみてください」。

 私はフロンティアで、高校生のグループを導くリーダーのような奉仕をさせていただいたのですが、ある一人の男子高校生が、こんなことを分かち合ってくれました。自分は教会にいると教会モードになるから、思い切り神様を賛美することもできるし、説教を聞いたら心に響くものがある。でも日常の中では、神様のことがよく分からない。だから試しに、今日のメッセージは、教会モードをオフにすると決めて聞いてみた。そうしたら、何も感じなかった。何も響かなかった。メッセージ後の賛美も歌えなかった。日常モードだと、聖書や教会に批判的な考えばかり持ってしまうんです。どうしたらいいですか。疑ってしまう自分自身をどうしたらいいですか。こんな自分は嫌なんですけど、どうしたらいいんでしょうか。

 とても素直な思いを分かち合ってくれたなあと思いつつ、私はこう答えました。「そういう自分をフロンティアで発見できたのは、とても良かったと思うよ。批判的な意見や疑問を持つことはちっとも悪いことではない。むしろそういうものに蓋をしないでほしい。もっともっと疑問を持ってほしい。疑問に蓋をして、疑問を押し殺して、最終的にイエス様の前から立ち去ってしまうほうが、イエス様にとって悲しいことだと思う。だから、疑ってしまう自分なんてだめだ…と思うのではなくて、その疑いをどんどん聖書に、教会に、イエス様に、ぶつけてほしい。」

 その男の子は「分かりました」と言ってくれました。私の思いがどこまで伝わったか分かりませんし、疑問を素直に出すのはそう簡単なことではありませんが、彼にとってここからが再出発になるといいなと願いつつ、祈りに覚えています。

 フロンティアでは、講師の先生がメッセージの中でもこうおっしゃっていました。「問いを持つことは信頼の始まりです。みんながイエス様にお会いしたら聞いてみたいことはなんですか? もし問いが一つも浮かばないとしたら、疑問を一つも持っていないとしたら、それはイエス様に興味がないからです。」そのとおりだと思いました。また先生はこんなこともおっしゃいました。「疑問を持つのは信仰成長のプロセスです。聖書に疑問をぶつければ、答えは必ず返ってきます。そしてその答えに対して、私たちがまた応答するというのが、イエス様と向き合い、イエス様と一緒に生きていく関係です。私たちのほうに応答する気があるなら、イエス様は必ずはっきりと語ってくださいます」。

 サマリアの人々もそうでした。一人の女性から「来て、見てください」と招かれ、「この方がキリストなのでしょうか」と問われて、実際に確かめてみようとやって来た。「私がしたことを、すべて私に話した人がいます」という女性の言葉を聞いて、本当かどうか確かめるために、イエス様のところにやって来た。39節には、サマリアの人々が「女のことばによって、イエスを信じた」とあります。これこそまさしく信頼の始まり、信仰の始まりです。ただ、そこに疑いが全くないわけではありません。むしろ彼らは「この方が本当にキリストなのだろうか」と疑問を持ちながら、やって来た。イエス様を直接見て、イエス様のことばを直接聞いて、確かめようとやって来た。

 さらに言うならば、疑問をぶつけるというのは、相手への信頼がわずかでもなければ、できないことです。相手が疑問に答えてくれるという信頼が1ミリでもあるからこそ、私たちは疑問をぶつけることができる。そういう意味でも、問いは信頼の始まりです。皆さんには、イエス様に尋ねてみたいこと、イエス様にぶつけてみたい問いがあるでしょうか。それとも、どうせ答えてくれはしない、そもそも別にイエス様になんて興味はない、とお考えになるでしょうか。


「滞在」 するイエス様

 続く40節をお読みします。


4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。

 ここで「滞在する」と訳されているギリシャ語は、「とどまる」「居続ける」とも訳されます。ヨハネの福音書の鍵となる言葉のひとつです。ヨハネ15章のイエス様の有名な言葉をお読みします。ヨハネ15章4節と5節。


15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 イエス様はおっしゃいました。「わたしにとどまりなさい」。それは「わたしのところに滞在しなさい」「わたしのもとに居続けなさい」「わたしの中に居座りなさい」ということです。少しの間だけ、イエス様と挨拶をして、ちょっと会話をして、また今度…というような関係ではなくて、イエス様の中にすっかり滞在するということです。そしてイエス様もまた、私たちの中にどっしり滞在してくださるということです。お互いの中にとどまり続ける交わりが、イエス様と私たちの間にある。

 今回の宣愛先生のコロナ罹患に伴い、私たちが盛岡に帰ってきてから今日まで、Nちゃんが我が家に滞在しました。Nちゃん自身はあまり大きな症状も出ず、抗原検査も陰性ではあったのですが、Nちゃんのご家族に持病があり、Nちゃん経由でコロナに感染してしまうリスクを考えて、我が家でしばらく過ごすことにしたんです。

 私たち夫婦は、これまでもNちゃんと一緒にたくさんの時間を過ごしてきましたが、今回、中野教会での療養期間も含めると、約10日間、寝食を共にしました。もちろん感染予防のために別々の部屋で過ごすこともありましたが、でも、普段教会やチャーチスクールで一緒に過ごしているときよりずっと、いろんな話をしたと思います。これまでよりさらに仲良くなりました。お互いのことを知ることができました。Nちゃんがどう思っているかは分かりませんが(笑)私にとってはとても楽しい時間でした。家に滞在する、とどまる、居続けるというのは、結果として深い交わりを生むのだと、実感しました。「とどまる」ことの醍醐味を、思いがけず、今回のハプニングを通しても味わうことができたなあと感じています。

 フロンティアではNちゃんも、「問いを持つことは信頼の始まり」という言葉が印象に残ったようで、「いろんなことを質問してもいいんだ、むしろ質問することが大事なんだ」と思えたそうです。なのでNちゃんは私に、聖書や信仰、教会についての質問もたくさんしてくれました。宣愛先生のコラムでも触れられていますが、「なんで教会は家族なの?」とか、他にも「なんでイエス様を信じなければ救われないの?」「なんで聖書には旧約と新約があるの?」「なんで賛美のときに手を挙げる人がいるの?」などなど、色々な質問をしてくれました。私も一緒にあれやこれやと考えながら、楽しくおしゃべりをし、時には真剣な話もしました。

 イエス様もサマリアでの二日間、誰かの家にお泊まりになったと思います。食卓を一緒に囲まれたと思います。サマリアの人々は、イエス様にいろんな質問を投げかけたことでしょう。「どうしてあの女性のことを知っていたんですか」「あなたは本当にメシア、キリストなんですか」。また、サマリア人はユダヤ人とは違う聖書や、礼拝場所を持っていましたから、「私たちの聖書って実際どうなんですか」とか、「エルサレム神殿じゃないところで礼拝するのはありなんですか」とか、「メシアが来られたからには、これから何を信じていけばいいですかね」とか、いろんなことを質問したのではないかと想像します。あるいは、あの女性のように、自分の後ろ暗い過去についてイエス様に話した人がいたかもしれません。自分の罪をイエス様の前に悔い改めた人もいたかもしれません。イエス様のほうも、ご自分についてたくさん話をされたでしょうし、やがての十字架についてもお話しになったかもしれない。

 イエス様が私たちの中にとどまってくださり、私たちもイエス様の中にとどまる。そこに深い交わりが生まれる。その交わりの中では、どんな問いも歓迎される。そしてその問いが、さらに交わりを深めていく。私たちが問いを持って、イエス様のことをますます知りたい、イエス様のことをもっと確かめたいと願うなら、イエス様との交わりはどんどん深まっていく。毎週日曜日の礼拝で、数十分の説教を聞いて、それで十分とするか。それとも、月曜日も、火曜日も、水曜日も、イエス様と交わりたいと願うか。それだけの興味と、関心と、疑問をもってイエス様にぶつかっていくか。「自分たちのところに滞在してほしい」。そのような願いを、私たちはイエス様に対して持っているでしょうか。


「自分で聞いて…分かったのです」

 最後に、41節と42節をお読みします。


4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 サマリアの人たちは皆、最初は女性の証言を聞いて、イエス様のところにやって来ました。私たちもそうです。最初は誰かの証しの言葉を聞いて、イエス様のことを知り始める。クリスチャンホームで育った人、教会の中で育った人も同じです。幼い頃は親の言葉を通して、あるいは教会の先生の言葉を通して、イエス様のことを知る。

 しかし誰でも、どこかのタイミングで、イエス様ご自身と向き合うことになります。誰かの言葉ではない、イエス様ご自身のみことばに耳を傾ける。誰かの言葉を通してではなく、自分でイエス様のみことばに聞く。イエス様と交わり始める。そうすると、自分はこのお方とこれからも交わっていくのかどうか、このお方と一緒に生きていくのかどうか、決断を迫られるときが来ます。そのとき私たちは、イエス様がすでに自分の中にとどまってくださっていることに気づきます。イエス様がすでに自分のうちにおられるということが分かります。「イエス様が分かった!」という経験をします。だからこそ、それなら自分もまた、このお方にとどまり続けていこう、という決断に導かれていく。

 イエス様がサマリアに滞在していた間、この町にはたくさんの人々がやって来ました。イエス様の周りには色んな人たちが集まってきて、わいわいとにぎやかだったのではないかと思います。その中には、イエス様のうわさを聞いて、本当かどうか疑いを持って来る人たちもいたでしょうし、すでにイエス様と時間を過ごして、イエス様にとどまり始めている人たちもいたでしょう。元気な人ばかりではなかったかもしれません。誰かに連れられてきて、たまたま居合わせただけの人もいたかもしれません。そんな彼らの中心にイエス様がいて、みんなの話を聞いてくださる。疑問に答えてくださる。私たちもまた、イエス様の話に耳を傾ける。さらに疑問をぶつけていく。そしてその中から、信仰の応答をする者たちが起こされていく。私はこの光景を想像しながら、まさしく教会だなあと思いました。

 この盛岡みなみ教会でも、イエス様にとどまり、イエス様のことばを聞いて、「イエス様が分かった!」という経験をなさる方がますます起こされるようにと願っています。すでにクリスチャンとして歩まれている方々も、イエス様のことばをもっと聞いて、このお方のことがまた一段と「分かった!」という経験を重ねていただきたいと願います。そうしてみんなでイエス様と一緒に歩んでいく教会でありたいと願います。先週の秋山先生の説教にもありました。イエス様の弟子たちの中には、「疑う者たちもいた」。けれども、その「疑う者たち」も、教会の交わりから排除されることなく、むしろ「疑う者たち」だからこそ、弟子たちの仲間に加えられていた。疑いも問いもイエス様に差し出しながら、疑いや問いを持っている人も教会の一員として、歩んでいきたいと願います。私たちのうちにとどまってくださっているイエス様を、ますます愛し、このお方の中にとどまって生きていきましょう。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。私たちはあなたを信じていても、疑いを持ちやすい者たちです。疑いが生まれると、自分の信仰の弱さが嫌になることもあります。けれどもイエス様は、そんな私たちの中にとどまってくださいました。だから私たちもまた、イエス様のうちにとどまり、疑問もすべてイエス様の前に差し出しつつ、歩んでいきたいと願います。イエス様は必ず答えてくださるからです。盛岡みなみ教会が、イエス様のことばを聞いて、たくさんの問いをぶつけて、「イエス様が分かった!」という経験を重ねていくことができますように、これからもお導きください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。