No.125【論より証拠】
◆今年4月に始めた“キリスト教弁証論”の連載では、これまで11個の問いを取り上げました。自分の能力の限界やスペースの限界(40文字×12行?)と格闘しつつ、「だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(第一ペテロ3章15節)という御言葉の実践に挑戦しました。
◆ 「①神は存在するのか?」「②奇跡は起こったのか?」「③なぜ神は聖絶を命じたのか?」「④献金は牧師の営利事業か?」「⑤イエスは実在したのか?」「⑥“父なる神”は男尊女卑か?」「⑦一神教は不寛容か?」「⑧なぜ神は悪を許容するのか?」「⑨なぜ人は罪を犯せるのか?」「⑩異教徒のほうが道徳的では?」「⑪“みんな罪人”は事実か?」―――皆さんの疑問の解決やヒントになった記事があれば嬉しいです。(新しい疑問も募集してます!正直ネタ切れです!)
◆ペテロの言葉には続きがあります。「ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう」(3章16節)。弁証“論”も大切ですが、最終的な問題は「良心」であり「生き方」でしょう。結局のところ、“論より証拠”なのです。