マルコ14:53-65「しかし、イエスは黙ったまま」(宣愛師)

2024年9月15日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』14章53-65節


14:53 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。
54 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。
55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
56 多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
57 すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
58 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
59 しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
60 そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
64 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
65 そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。



「イエスを死刑にするため」

 まずは、14章の53節から56節までを改めてお読みします。


14:53 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。
54 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。
55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
56 多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。

 「イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとした」。なぜ、そこまでしてイエス様を殺したいのでしょうか。彼らはなぜ、殺したいほどにイエス様を憎んでいたのでしょうか。ある人たちは、「イエスという人物は、人々に良い生き方を教えた教師だった」と考えます。たしかに、イエス様は教師でした。良い生き方とは何か、幸せな人生とは何か、そのことを人々に教えた教師。しかし、それだけだとすれば、なぜイエス様はここまで憎まれなければならなかったのか。イエス様は、間違いなくそれ以上の存在だった。そのことに気づいた「祭司長たち、長老たち、律法学者たち」は、このイエスという人物を殺さずにはいられなくなったのです。しかし、なかなか良い証拠が見つからない。「すると、」57節から59節までをお読みします。


57 すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
58 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
59 しかし、この点でも、証言は一致しなかった。

 イエスは単なる教師ではない。イエスはもっと危険な人物なのだ。これが彼らの主張でした。このイエスという危険人物は、「この神殿を壊し……別の神殿を三日で建てる」などと言っていた。私たちの聖なるエルサレム神殿を壊すと。

 本当はイエス様は、「エルサレム神殿を壊す」とはっきり言ったことはありません。それに似たようなことを言ったことはありますが、はっきりとは言っていない。イエス様は、裁判の材料になる発言を掴ませないようにと、いつも注意しておられました。だから、「この点でも、証言は一致しなかった」わけです。しかし、イエス様がエルサレム神殿に替わる新しい神殿を造ろうとしていた、ということは確かです。イエス様は、新しい神殿、新しい世界を造り出そうとしておられた。古いエルサレム神殿は、権力者たちの悪の巣窟になってしまっていました。そんな神殿は壊してしまって、新しい神殿を造らなければならない。新しい世界を造らなければならない。それが、イエス様の十字架と復活によって始まろうとしていた。だからこそ、古い世界の権力者たちは、そしてその背後にいる悪魔の勢力は、イエス様を殺したいほどに憎んだのです。自分たちが支配する世界、自分たちにとって居心地の良い世界を、あいつは今にも壊そうとしている!

 皆さんは、イエス様を殺したいほど憎んだことがあるでしょうか。「イエス様を憎むですって? とんでもない! イエス様は優しくて、良い生き方と幸せな生き方を教えてくださる素晴らしいお方です。そんな方を憎むだなんて、意味が分かりません」と思われるかもしれません。しかし、もしそのように考えるのだとすれば皆さんは、イエス様を単なる素敵な教師としてしか認識していないのかもしれません。本当のイエス様は、古い神殿を壊してしまうようなお方なのです。そして、そのことの意味を本当に理解するならば、あなたは少なからず、イエス様を憎まずにはいられなくなるはずなのです。あなたにとって居心地の良い世界、あなたにとって居心地の良い生き方は、イエス様があなたに望んでおられる生き方とは異なっているかもしれないからです。イエス様は、あなたにとって居心地の良い世界、つまり、古い世界を壊そうとしておられるかもしれないのです。


「神を冒瀆することば」?

 イエス様がそれほど危険な存在であることに気づいていた大祭司は、どうにかしてイエス様を排除しようと、椅子から立ち上がります。60節から62節をお読みします。


60 そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

 ここで「大祭司」と呼ばれている人物は、大祭司カヤパのことです。カヤパは賢い人で、バランス感覚に優れた人でした。本来、大祭司という務めは、終身制、つまり死ぬまで交代することのないものでした。ところがイエス様の時代、紀元前37年から紀元70年までの約107年間で、大祭司はなんと30回以上も交代していました。死ぬまで交代しないはずの大祭司が、2-3年ごとにコロコロと交代していた。1年も経たずに交代してしまう大祭司もいた。それはなぜかというと、大祭司が誰かを決める権力を、ローマ帝国に握られてしまっていたからです。ローマ帝国の気に入らないことをすれば、すぐに交代させられてしまうのです。そんな中でも、イエス様の時代に大祭司だったカヤパという人は、18年間もの長い間、大祭司の座に座り続けた。それは、彼が賢くて、バランス感覚に優れていたからです。ローマ帝国の顔色をうかがいながら、そしてユダヤ人の民衆を怒らせないようにもしながら、うまくやっていた。「あちら立てればこちらが立たぬ」の世界を綱渡りしながら、上手に権力を握り続けていた。

 そうやって、カヤパが必死に保とうとしているバランス、ローマ人とユダヤ人の間を上手に取り持つことによって保たれている権力を、根底から覆そうとしていたのが、イエスという人物だったのです。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」「わたしが、それです。」これだけでも、イエス様の死刑は確定していたかもしれません。「キリスト」という存在は、今の世界を造り変えてしまう、カヤパにとって居心地の良い世界をぶち壊してしまう、危険な存在だったからです。

 しかしイエス様は、「わたしが、それです」ということばよりも、もっと危険なことを仰った。「あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」イエス様のこのことばの真意に気づいた時、大祭司カヤパは怒りに震えました。63節から65節まで。


63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
64 あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
65 そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。

 「お前のような田舎者が、『力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来る』だと? 調子に乗るのもいい加減にしろ!」しかし、カヤパが怒った理由はそれだけではありませんでした。「それを、『あなたがたは……見ることになります』だと?」これこそがまさに、イエス様が殺されるほど憎まれた理由でした。「まるでおまえが正しく、我々が罪人であるかのような言い方!まるでおまえがこの世界の支配者で、我々がどうしようもない悪人であるかのような言い方!」

 カヤパはイエス様の発言を、「神を冒瀆することば」として非難しました。しかし、カヤパの怒りの本当の原因は、神様が冒瀆されたと感じたことではなく、カヤパ自身のプライドが冒瀆されたかのように感じたことだったのではないでしょうか。カヤパは、「神を冒瀆することば」に対して怒っているように見えて、実は「自分を冒瀆することば」「自分の地位や立場が脅されることば」に対して怒っているだけなのではないでしょうか。

 ここに、カヤパとイエス様の違いがはっきりと現れてきます。自分の立場が脅かされたと感じて怒りをぶちまけるカヤパと、どれだけ不当な扱いを受けても怒らず黙って耐え忍ぶイエス様。自分にとって居心地の良い世界が覆されそうになって反射的に暴力を用いるカヤパと、新しい世界を造り出すためにじっと耐え忍ぶイエス様。いや、カヤパだけではないのです。イエス様を死に定めた他の祭司たち、長老たち、律法学者たち、そしてイエス様に唾をかけ、目隠しをして殴った人々も、カヤパと同じように、古い世界を守ろうとして、イエス様を排除しようとしたのです。この人々の中に、古い世界を守ろうとしてイエス様を排除しようとするこの人々の中に、私たちが含まれていないと言えるでしょうか。


「しかし、イエスは黙ったまま」

 新約聖書の『ペテロの手紙 第一』には、次のように書かれています。2章21節から24節まで。


2:21 このためにこそ、あなたがたは召されました。 

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、 
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残された。

22 キリストは罪を犯したことがなく、
その口には欺きもなかった。

23 ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、脅すことをせず、 
正しくさばかれる方にお任せになった。

24 キリストは自ら十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われた。 

それは、私たちが罪を離れ、
義のために生きるため。 

その打ち傷のゆえに、
あなたがたは癒やされた。

 先々週に参加した補教師研修会の中で、ある先輩牧師と1-2時間ほどお話をさせていただく機会がありました。その会話の中で、その先生がこんな話を分かち合ってくださいました。ある生活困窮家庭の子どもたちの面倒を見ることになった。日曜日の朝は車で迎えに行き、その子どもたちのお母さんは食事の準備もできない状態なので、朝ごはんも教会で食べさせてあげ、教会で遊ばせてあげて、また夕方には車で家まで送り届ける。時にはシャワーも浴びさせてあげる。その子どもたちというのが、実のところ、あまりかわいい子どもたちではないらしく、つまり、暴言や乱暴ばかりの子どもたちで、教会の人たちにはあまり好かれていない。そんな子どもたちだからこそ、愛情に飢えているのだ、愛情が必要だと信じて、その先生は関わり続けるのだけれども、教会の人たちからは、「◯◯先生は物好きねえ」と他人事のようなことを言われてしまう。

 ある日、その子どもたちを招いて、教会で一緒に唐揚げを作って、みんなで楽しく食べた。でも、帰りの車の中で、その兄弟のお兄ちゃんが、「あー、つまんなかった」と言う。するとその弟や妹たちが、「マジつまんなかった。唐揚げもまずかったし、最悪な一日だ」などと言い始める。子どもたちはその言葉がどれだけ酷いものかもわからず、いつも親や周りの人から言われている悪口が、ただ自然に口から出てしまうだけ。そのことは、その牧師先生にも分かる。分かるのだけれども、子どもたちを家に送り届けた後、「唐揚げ美味しいって言ってたじゃん」と思いながら、車の中で一人で泣くのだそうです。でも、それでも、その子どもたちを愛することをやめない。

 ののしられれば、すぐにののしり返してしまう私たちかもしれません。不当な扱いを受けたと思えば、すぐに相手を断罪するような私たちかもしれません。親切にしてあげたはずなのに、恩を仇で返されるようなことがあれば、愛することをやめてしまいたくなる私たちです。不当な扱いを受けても、黙って愛し続けるということは、どれほど難しいことでしょう。しかし、イエス様は、「わたしに従いなさい」と言われました。

 傷つけられたら突き放してしまうのは、私たちも傷を抱えているからです。ボロボロになった自分の心が、これ以上傷つけられて、壊れてしまわないように、自分を傷つける相手との関わりを拒絶することで、自分を守る。相手を突き放して、安全のために距離を保つ。そうやって、傷が連鎖していく。愛に飢えている子どもたちはますます飢えていく。そのような罪の悪循環を背負ってくださったのが、十字架の上のイエス様でした。じっと黙って、耐えてくださった。「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」私たちは、新しい世界の入口に立たされています。イエス様の招きを受けているのです。

 これは危険な招きです。乱暴や暴言ばかりで、決してかわいいとは言えないあの子どもたちのことも、全力で愛し続けるような生き方です。それが、イエス様が私たちのためにしてくださったことだからです。イエス様がまず、私たちのために黙って、耐え忍んでくださったからです。先輩牧師は次のようにも言っていました。「辛いことばかりだし、やめたくなることもあるけれど、でも、イエス様が見ていてくださると思うと、がんばれるんです。」新しい生き方というのは、こういう生き方だと思います。自分と気の合う人たちだけと付き合うような生き方ではない。悪口や不当な扱いに対してやり返すことをしない。イエス様がお造りになった新しい世界に生きるとは、イエス様の模範に従って生きることです。この世界に、私たちも飛び込みたいと思います。傷つけられることを恐れて、古い世界に閉じこもるような生き方を、イエス様に綺麗さっぱり壊していただいて、新しいいのちに生かしていただくのです。イエス様が耐え忍んでくださったからです。愛し続けてくださったからです。そして、今日もイエス様が、私たちを見ていてくださるからです。お祈りをいたしましょう。


祈り

 父なる神様。私たちは自分の世界を守るだけで、バランスを保つだけで、精一杯でした。自分が傷ついてまで、他の人を愛するなんて、自分とは関係のない世界だと思っていました。挑戦したこともありましたが、やはり傷ついて、やはり諦めて、また自分の世界に閉じこもりました。でも、イエス様のお姿を見る時に、この傷も癒やされていくのが分かります。もう一度挑戦してみたいと思えます。イエス様が血を流してまで造り出してくださったものを、私たちがしっかりと受け継いでいくことができますように。そのためにまず、傷の多い私たちが、あなたの十字架の癒やしをしっかりと受け取ることができますように。イエス様のお名前でお祈りいたします。アーメン。