創世記1:26-28「神のかたち」(宣愛師)
2024年9月22日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
旧約聖書『創世記』1章26-28節
1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
「支配」=「無理やり従わせること」?
本日のみことばには、「支配」という言葉が二回出てきますけれども、「支配」という日本語は、ちょっと不思議な言葉だなあと、前々から思っていました。「支配」と聞けば、力ずくでコントロールするとか、無理やり従わせるとか、そんな印象を持つわけですが、少なくとも漢字に分解して考えてみれば、「支配」の「支」という漢字も、「配」という漢字も、そんなニュアンスではない。気になって調べてみましたら、「支配」という言葉はもともと、「量って配る」という意味だったのだそうです。広辞苑で「支配」という言葉を引いてみても、最初に出てくる説明は、「① 仕事を配分し、指図し、とりしまること」で、次に出てくるのは、「② 物を分け与えること。分配すること」でした。本来は「量って配る」という意味だったはずの「支配」という言葉が、「力ずくでコントロールする」「無理やり従わせる」みたいな意味に、段々と変わってしまった。これは日本語だけの話でもないのかもしれません。
本日の聖書箇所を改めてお読みします。創世記1章26節から28節。
1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
「海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」ここで「支配」と翻訳されているヘブライ語は「ラダー」と言いますが、この「ラダー」という言葉も本来は、「力ずくで」とか、「無理やり」という意味ではないようです。ところが、「生き物を支配せよ」などと言われると、なんだか人間がこの世界を好き勝手にしていいかのような、動物を好き勝手に使ったり痛めつけたり殺したりしていいかのような、そんな印象をどうしても受けてしまう。それはやはり、「支配」という言葉についての私たちの認識が変わってしまっているからなのかもしれません。
神様が人間に命じたのは、「この世界の生き物たちを力ずくで支配せよ」ということではなかったはずです。むしろ神様がお命じになったのは、「量って配る」とか、「物を分け与える」ということに近かったのではないかと思います。この世界の動物たちが、幸せに生きていけるように、配るべきところに配る。動物だけではありません。人間同士の間でも、食べ物や資源が十分に行き渡るように配慮し合う。それができるだけで、食糧問題のほとんどは解決されるはずなのです。その証拠に、続く29節と30節を見てみると、すべての生き物のために食べ物を与えてくださる神様のご配慮が見て取れます。神様の「支配」とは、必要なものを配り、分け与えることなのです。
ところが、「支配」という言葉を勘違いしてしまった人間は、神様のみことばも読み違えてしまいます。ほら、支配せよ、と聖書に書いてあるではないか。この世界のものはすべて、私たち人間のために造られたのだ。動物たちをどのように扱っても、海や空をどのように扱っても、私たち人間の自由ではないか。環境破壊も、動物たちの絶滅も、私たちの知ったことではない、と。
“神様イメージ”の歪み
そこで私たち人間は、さらに深刻な勘違いへと進んでしまいます。「神は人をご自身のかたちとして創造された」と書かれている。人間は神に似ているということだ。ということは、神もまた人間のように「支配」する存在だということに違いない。神も力ずくでこの世界を支配しているに違いない。実際に、聖書には神の命令ばかりが書かれているではないか。神は私たちを無理やり支配しようとするではないか。神がそんな存在なのだから、「神のかたち」である私たち人間が同じようなことをするのは当然ではないか。
古代バビロンには、「エヌマ・エリシュ」という神話がありました。神々が戦争をした。戦争に勝利したマルドゥクという神が、負けた神々に対して、世界を管理するために働くという義務を与えた。その労働を心から忌み嫌った神々は、自分たちの代わりに働いてくれる便利な奴隷を造ってくれとマルドゥクにお願いした。そこでマルドゥクは仕方なく、「人間」と呼ばれる存在を造り、彼らを奴隷として働かせることにした。古代バビロンの人々にとっては、「神」とは戦争ばかりの野蛮な存在であり、「人間」とはそんな野蛮な神々のために造られた奴隷に過ぎなかったのです。そして、それゆえにバビロンの人々は、人間同士で戦争をすることにも、人間が人間を奴隷としてこき使うことにも、何の問題も感じなかったのです。今の時代に、「エヌマ・エリシュ」の神話を本気で信じている人はいないでしょう。しかし、「神」とは所詮そんな存在であり、「人間」もまたそんな存在である、と考えてしまっている人たちは、今も世界中にいるのです。
人間が「神のかたち」であるということは、神様がどんなお方かを知るためには、人間を見ればよい、ということでもあります。人間を見れば、神様のことがだいたい分かる。たとえば聖書では、神様のことを「父なる神」と呼びます。ですから私たちは、自分の父親の姿を見て、神様の姿をイメージする。自分の父親が優しい人だったなら、神様も優しい方なのだろう、と考える。父親が冷たい人だったなら、神様もそんな風に自分のことを見ているのだろう、と思ってしまう。父親が暴力を振るう人だったら、神様も暴力的な方なのだろうと思ってしまう。父親が、良い子の自分しか認めてくれないような人だったら、神様も良い子の自分しか愛してくれないのだろうと思ってしまう。父親がいない人にとっては、「父なる神様」と言われても、何もイメージすることができない。神様がどんなお方なのか分からない。いや、私の父親もいなかったのだから、たぶん神様だって本当はいないのだろう、と考える人もいるかもしれません。ましてや、私のことを本気で愛してくれている、「父なる神様」がいるなどという話を信じられるはずもない。
神様を見たことがない私たちが、神様をイメージするためには、「神のかたち」である人間を見るのが一番のはずです。しかし、誰を見れば良いのでしょうか。父親や母親を見れば良いのでしょうか。「神様がこんな人だったらいいな」と子どもに思ってもらえるような父親や母親がいるとすれば、それは素晴らしいことでしょう。でも大抵の場合は、大きくなるにつれて、子どもたちは自分の親の欠点に気づいていくものです。では、牧師や伝道師を見れば良いのでしょうか。あまり良い結果にはならないかもしれません。人間を見て、神様を正しくイメージすることは不可能なのです。私たちはみな、「神のかたち」として生きることができていないからです。歪んでしまっているからです。「支配せよ」という言葉の、本来の意味さえも分からなくなってしまうような、根本的な歪み方をしているからです。
逆に言えば、神様を正しくイメージすることさえできるようになれば、神様がどんなお方なのかさえ分かるようになれば、私たち人間は、この歪んだ生き方を変えていくことができるのかもしれない。力ずくでこの世界を支配しようとしたり、互いのことを傷つけ合うような生き方ではなく、本来あるべき「支配」、つまり、必要のあるところに物を分け与え、互いに気を配り合う、そんな生き方ができるようになる。私たち人間が抱えている最も深刻な問題は、神様を知らないということです。神様を知らないから、もしくは、神様が本当はどんなお方であるのか、勘違いをしてしまっているから、この世界からは争いが止まず、貧困や孤独がなくならないのです。問題は神様を知らないことです。「神のかたち」として生きていないことです。どこを見ても、「神のかたち」として生きている人が見当たらないのです。これが私たちの罪であり、この世界が抱えている最大の問題です。
「この人を見よ」
どうすれば私たちは救われるのでしょうか。どうすれば本来あるべき生き方を取り戻すことができるようになるのでしょうか。どうすればこの世界は、正しく「支配」されるようになるのでしょうか。聖書にはその答えが書かれています。ヨハネの福音書14章8節と9節をお読みします。
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。……」
ピリポはさぞかし戸惑ったことでしょう。「えっ、ちょっとイメージと違うんですけど」と思ったことでしょう。ピリポがイメージしていた「父」、つまり「父なる神様」は、天の御座に鎮座して、地上にいるアリンコみたいに小さな人間たちを遠くから見下ろして、悪いことをしている人間を見つけたらしっかりと天罰を与えるみたいな、そんな神様だったはずです。いま自分の目の前で一緒に食事をしているこのイエス様は、ピリポの“神様イメージ”とはぜんぜん違ったのです。
私たちが抱いている“神様イメージ”も、ピリポと同じように、もしくはそれ以上に、歪んでしまっているかもしれません。そして、神様イメージが歪むと、他のあらゆるものも歪んでいきます。神様が本当はどんなお方なのかを勘違いして、自分勝手な“神様イメージ”を作り上げてしまうと、たとえば、本当は神様から愛されているはずなのに、「こんな私を神様が愛しているはずがない」と決めつけるようになります。「こんな自分のことを神様が愛しているはずがない。ろくに聖書も読まず、毎日お祈りもせず、人を妬んだり憎んだり、見下したり嫌ったりしてばかりいる、こんな自分のことを神様は嫌っているに違いない」と勝手に決めつけてしまう。「神様は今も、アリンコみたいな私のことを天から見下ろして、冷たい視線で睨みつけているに違いない」とか、「いや、神様はこんな私のことなんてどうでもいいんだ。きっと私のことなんて何にも考えてくださらない」などと勝手に考えてしまうようになる。
でも本当は神様は、遥か遠くの天から私たちを見下ろしておられたのではなかった。「こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに」と言われたのです。神様は実は、いつも隣におられて、私たちと一緒に生活してくださって、いつも私たちのことを気にかけてくださっていた。本当の意味で神様は、私たちを「支配」してくださり、必要なものを分け与え、心を配ってくださっていた。
ピリピ人への手紙2章には、次のように書かれています。ピリピ2章3節から8節まで。
2:3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。6 キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、
それも十字架の死にまで従われました。
「人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」いや、それができない私たちです。「自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」分かっているけど、どうしても、「自分が、自分が」となってしまう。「自分のこと」ばかりになってしまう。だから、私たちは「キリスト」を見なければならない。神様は本当はどのようなお方だったのか、「神のかたち」として生きるとはどういうことだったのか、神様に似せて造られたとはどういうことだったのか、そして、「支配せよ」とはどういう意味だったのか、その答えのすべてが、ただキリストにあるのです。
このあと皆さんとご一緒に歌う讃美歌『馬槽のなかに』は、このキリストの素晴らしさを最も的確に歌い表している讃美歌の一つだと思います。
馬槽のなかに 産声あげ 木工の家に ひととなりて
貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ食する暇も うち忘れて しいたげられし ひとを訪ね
友なき者の 友となりて こころ砕きし この人を見よすべてのものを 与えし末 死のほか何も 報いられで
十字架の上に 上げられつつ 敵を赦しし この人を見よこの人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ
この歌のすばらしい点はいくつもありますが、その中でも特に注目すべきことは、イエス様が「神」だということを隠し続けるところです。イエス様が神だということを言わず、ある意味ではただの「人」として生きられたその姿を語り続ける中で、「実は、神とはこのようなお方なのだ」ということに気づかせようとしている。私たちの“神様イメージ”を180度覆すために、人としてのイエス様を語り続け、人としてのあるべき姿を示し続け、そして最後の最後で、「この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ」と歌い上げる。
「この人を見よ」。これが唯一の救いの道です。この人を見ましょう。人生に迷い、正しい道が分からなくなったら、とにかくこの人を見ましょう。“神様イメージ”がおかしくなってしまって、自分なんか愛されているはずがないと思い始めてしまったら、自分ひとりで悩むのはやめにして、この人を見ましょう。自分が何者なのか分からなくなってしまったら、自分という存在の価値を見失ってしまったら、「神の御姿」であるお方を見ましょう。この方は、遠くからあなたを見下すような方ではなく、いつもあなたのそばにいてくださるお方です。いつでもあなたを、その優しい御手で「支配」してくださっているお方です。そして私たちも、この方を信じることによって、この方にしたがうことによって、この方のように生きていくことができるようになるのです。「神のかたち」が回復していくのです。「自分が、自分が」という思いから解き放たれ、隣人を心から愛することができるようになるのです。救いはイエス様だけにあります。この世界の希望はイエス様だけにあります。お祈りをいたします。
祈り
私たちの父なる神様。ときどき、あなたのことが分からなくなります。あなたが私のことを愛しているということを、信じられなくなります。罪人の私を冷たく見放すあなたの姿しか想像できなくなるときがあります。でもそれは、私たちが人から愛されず、人から見放されたことがあるからです。私たちの周りにいる「神のかたち」たちから、そんな仕打ちを受けてきたからです。でも本当は、あなただけは私を見捨てないのだということを、イエス様を通して教えてくださいました。どうか私たちも少しずつ、イエス様のように生き、「神のかたち」として生きることができますように。そして周りの人たちに、本当の神様の素晴らしさを少しでもお伝えすることができますように。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。