ヨハネ4:43-54「しるしの信仰、ことばの信仰」(まなか師)

2024年9月29日 礼拝メッセージ(佐藤まなか師)
新約聖書『ヨハネの福音書』4章43-54節


4:43さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。
44イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。
45それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。

46イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。
47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。
48イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」
49王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」
50イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。
51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。
52子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。
53父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。
54イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。



ガリラヤでの“歓迎”

 この朝も、愛する兄弟姉妹の皆さんと共に、みことばに聴くことのできる幸いを覚えます。お一人お一人の上に、神様の祝福がありますように。

 43節から45節を改めてお読みします。


43さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。
44イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。
45それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。

 43節で「イエスはそこを去って」とありますが、「そこ」とはサマリアのことです。イエス様は、人々の求めに応じて、サマリアに二日間滞在された後、ガリラヤに向かわれました。

 故郷ガリラヤでは、家族や友人に会ったりして、のんびり過ごすことができるのかと思いきや、イエス様は44節で「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言われます。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」。ところが、次の45節には、「ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とあります。イエス様は「故郷では尊ばれない」と言っているのに、実際には、ガリラヤの人たちはイエス様を歓迎した。これはどういうことでしょうか。ガリラヤの人たちの歓迎とは、どのようなものだったのでしょうか。

 ここでイエス様は、ご自分のことを「預言者」と言われました。預言者というのは、神様のことばを人々に伝え、取り次ぐ働きをします。ゆえに、預言者が尊ばれるということは、預言者のことばが尊ばれるということでもあります。

 けれどもガリラヤの人たちは、イエス様のことばを歓迎しているわけではなかった。では彼らは何を歓迎していたのでしょうか。それは、イエス様が行う奇跡です。彼らは前に、イエス様がエルサレムでなされた奇跡をすべて見ていました。

 少し戻って、ヨハネ2章23節から25節をお読みします。


2:23過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。
24しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。すべての人を知っていたので、
25人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。

 エルサレムの人々は、「しるし」、つまり、驚くべき奇跡を見て、イエス様のことを信じた。けれどもイエス様は、彼らの信仰を信頼しませんでした。しるしを見て信じただけの信仰が、長続きするものではないことをご存知だったからです。しるしによる信仰は、イエス様ご自身を信じる信仰ではないからです。彼らのうちには、しるしを信じる信仰はあっても、イエス様ご自身を信じる信仰は、少なくともこのときはなかった。

 ガリラヤの人々もまた、しるしを求めていました。あの不思議な奇跡の数々を、このガリラヤでも見たい。そんな期待のまなざしをもって、イエス様を“歓迎”しました。イエス様ご自身ではなく、イエス様が行う奇跡を“歓迎”したわけです。この“歓迎”は、イエス様が本当に願っておられる歓迎とは異なるものでした。

 もちろん、イエス様は、私たちが自分の目で見て確かめることも大事にしてくださいます。イエス様は「わたしがすることをしっかりと見なさい」と招いてくださることもあります。たしかに、しるしは私たちの信仰を強めてくれるときがあります。イエス様の力あるみわざを見て、私たちは励ましや力を得ます。けれども、しるしは、信仰の核になる部分ではありません。私たちが最終的に目指すのは、目に見えるしるしに基づいた信仰ではありません。

 イエス様が二日前まで滞在していた、サマリアの人々はどうだったでしょうか。41節に、「多くの人々が、イエスのことばによって信じた」とあります。イエスのことばによる信仰。これがイエス様の願っておられる信仰です。私たちが目指したい信仰です。では、イエスのことばによる信仰、みことばによる信仰とはどのようなものか。


イエスのことばを信じる

 4章に戻って、46節から50節をお読みします。


46イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。
47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。
48イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」
49王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」
50イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。

 カペナウムという場所に、王室の役人がいました。王室というのはおそらく、この時代にこの地方を治めていた、ヘロデ王の王室だと思います。また、「役人」と訳されている言葉は、それなりの立場にある者を指すそうです。この役人は、ヘロデ王室でそれなりの権威を持っているような人物だったようです。

 けれども、息子が病気になった。いまにも死にそうになっている。どれだけ権威を持っていても、子どもの病気を治すことはできません。どうにかしてあげたいという親の気持ち、でもどうすることもできないという無力さを、彼は味わったでしょう。そんなときに、以前カナで奇跡を起こしたらしいイエスという人が、またカナにやって来るという噂を聞いた。それで彼は藁にもすがる思いでやって来た。

 彼がいたカペナウムは、イエス様がおられたカナから30キロほどの距離です。彼がイエス様に「下って来てください」とお願いしていることからも分かるように、カペナウムはカナよりもだいぶ低い位置にありました。つまり、彼がイエス様のところに行くには、カペナウムからカナまで30キロの上り坂です。ものすごく遠いわけでもありませんが、当時は車などありませんから、もし徒歩だとしたら7時間、8時間くらいはかかるでしょうか。その道のりをやって来たわけです。

 そんな彼に対するイエス様の答えは、彼にとってはよく分からないものだったかもしれませんし、冷たく感じられるものだったかもしれません。48節「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

 ここでは「あなたは」ではなく、「あなたがたは」と複数形になっています。イエス様は役人だけに対してではなく、しるしを求めるガリラヤ人全体に向けて、語られたのだと思います。「あなたがたガリラヤ人は、しるしと不思議を見ないかぎり、決してわたしを信じません」。イエス様はガリラヤ人たちの態度を悲しみ、嘆いておられました。

 そんなイエス様に対して、役人は必死に願います。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください」。

 たしかに、役人もまた、息子の癒やしを求めてやって来ました。不思議な癒やしのわざを下さいと願ったわけです。けれども彼は、興味本位で奇跡を見たがったり、イエス様の力を試そうとしたわけではなかった。息子のいのちがかかっていた。だからこそ彼は、「主よ」とへりくだって、「あなたなら私の息子を助けてくださる」と信じて、切実に、ひたすら願った。一心不乱になって願った。

 するとイエス様は言われます。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」

 「下って来てください」という求めへの答えは、「行け。あなたの息子は治る」ということばだけでした。イエス様は「よし、わたしもカペナウムに行こう」とはおっしゃいませんでした。「わたしが手を置けば、あなたの息子は治る」とも言われませんでした。ただ、「行け。あなたの息子は治る」と言われた。

 「来てほしい」という彼の求めには応じずに、イエス様は彼の信仰にチャレンジを投げかけるんです。「わたしのことばだけで信じることができるか?」「わたしのことばに従うことができるか?」

 彼は、「いやいや、ことばなんかじゃなくて、しるしがほしいんです」とは言いませんでした。イエス様が、「息子は治る」と言われた。ならば治る。イエス様が「行け」と言われた。ならば行く。そうして「イエスが語ったことばを信じて、帰って行った」んです。

 ことばを、ことばだけを信じて帰って行く、彼の気持ちはどうだったでしょうか。どんな思いで、カペナウムへの道を急いだのでしょうか。本当に息子のいのちは守られるのだろうか、と考えたかもしれません。ことばだけで大丈夫なのだろうか、と心配になることもあったかもしれません。でも、イエス様が治ると言われたから。だからきっと大丈夫だ。

 イエス様は、「病気が癒やされるなら信じます」というような信仰を退けます。「イエス様がこうしてくだされば安心です」「私の言う通りにしてくだされば安心できます」という信仰を退けます。それはしるしによる信仰だからです。病気が癒やされるかどうかということを基準にして、イエス様を信じるかどうか決めようとする信仰だからです。自分の願いが実現することが「しるし」となり、信仰を左右するからです。

 けれども、死にそうな息子を救ってほしいという役人の必死の求めを、イエス様は退けませんでした。そこに、未熟ではあるけれども、イエス様にすがる信仰をたしかに認めたからです。イエス様だけに望みを置く信仰が、彼のうちにあったからです。イエス様は彼の求めにお答えになりました。ただしそれは、彼の願っていた形ではありませんでした。与えられたのはことばだけでした。そうやってイエス様は、彼の信仰をさらに引き出そうとされたんです。「わたしのことばを与える。これを信じなさい」と、招いてくださったわけです。

 イエス様が彼の言うとおりにしたのではなく、彼がイエス様の言うとおりにした。ここに、イエス様のことばを信じる信仰が生まれました。ことばによる信仰が芽生えました。


しるしの信仰、ことばの信仰

 最後に、51節から54節をお読みします。


51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。
52子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。
53父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。
54イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。

 イエス様のことばを信じ、従った役人に与えられたのは、しるしでした。先にしるしが与えられてから、信じたのではありません。奇跡を見たから信じたのではありません。イエス様のことばを信じた上で、息子が癒やされるというしるしを見たんです。まずみことばを信じるとき、信じた者に与えられるしるしがある。

 しるしとはもちろん、息子が癒やされるという奇跡のみわざでしたが、それ以上に大事なしるしは「イエスのことばどおりになった」ということです。「息子は治る」というイエス様のことばのとおりだった。イエス様が「あなたの息子は治る」とおっしゃったまさにそのときに、遠く離れたカペナウムで、息子のいのちは救われた。イエス様のことばは必ず実現する。みことばはそのとおりになるということです。ことばの信仰によって一歩踏み出す者は、ことばがそのとおりになるという経験をします。この経験によって、私たちの信仰は深められていく。「ああ、イエス様のことばは本当なんだ。みことばは真実なんだ」という信仰が深まっていく。

 しるしによる信仰、みわざを求める信仰は、順境のときであれば問題ありません。自分は守られていて、自分は祝福されていると感じられる限りは、大丈夫です。神様の守りと祝福こそ「神様がともにおられることのしるしだ」と思えるからです。たとえば、「イエス様、試験がうまくいくように助けてください」と祈って、実際に良い点数がとれたら、「ああ、イエス様は私とともにいてくださる」と安心できるわけです。

 でも逆境のときはどうでしょうか。私たちは、イエス様が現実を奇跡的に変えてくださらないと、イエス様のことが分からなくなってしまうことがないでしょうか。それは結局のところ、イエスのことばを信じる信仰ではなく、イエスのしるしを求める信仰です。「イエス様、今日こそ、仕事が見つかりますように」と祈ったのに、今日も見つからなかったら。あるいは、「イエス様、今日も車の運転をお守りください」と祈ったのに、もし事故にあってしまったら。「ああ、イエス様は私とともにおられない」と失望してしまうんです。

 私たちはそんなふうに、しるしによる信仰を持ってしまいやすいものです。私も小さい頃、お腹が痛くなったときに、トイレの中で「この痛みを今すぐ取り去ってくださるなら、神様がおられるって信じます!」とよく祈っていました。いまでも「イエス様がこうしてくださるなら」という祈りをすることがあります。でも、こんな条件つきの信仰でいいのでしょうか。自分の思い通りにイエス様を動かそうとする信仰でいいのでしょうか。

 たとえば、役人の息子のように、家族の誰かが、いのちに関わるような病気だと分かったら、私たちは切実に祈ります。「お父さんの病気を治してくださいますように」「娘の病気を癒やしてくださいますように」。でも、もし病気が癒やされなかったとしたら。本人は絶望の中で死んでいくしかないのでしょうか。かわいい娘のいのちが取り去られるのを、神様を恨みながら見ていることしかできないのでしょうか。私たちの信仰はそこで終わりなのでしょうか。

 王室の役人の息子は癒やされました。でも、それは、肉体のいのちで言えば、寿命が伸びただけとも言えます。本当に大事なのは、息子にもまた、信仰が与えられたということです。永遠のいのちに至る信仰を持つようになったということです。息子自身は、イエス様のことばを直接聞いていません。自分が癒やされたという不思議な経験から始まった信仰でした。でも、しるしから始まる信仰は、ことばによる信仰へと成長していかなければなりません。

 逆境にあっても揺らぐことのない信仰は、ことばを信じる信仰です。「しるし」が見えなくても、みことばを頼りに生きる信仰です。役人がカペナウムに向かって歩いていったように、不安があったとしても、それでもみことばだけを握って歩いていく信仰です。そうやって歩んでいくとき、カナとカペナウムが離れていても何の問題もなかったように、みことばと、私たちが生きている現実がかけ離れていることは、何の問題にもなりません。イエス様のことばが、遠く離れたカペナウムにも生きて働いたように、みことばから遠く離れて見える私たちの現実にも、みことばが生きて働く時が来るからです。

 「ああ、みことばのとおりだったなあ」「イエス様、やっぱりあなたのことばどおりでしたね。」そんなふうに思える日が来ます。それは私たちが思い描いていた形や方法、タイミングではないかもしれません。「下って来てください」という役人の願いをはるかに超えてイエス様が働かれたように、みことばの実現の仕方は、私たちの想像を超えてきます。「イエス様、そんなふうにみことばを実現させてくださるんですか?!」と驚くことがあります。「あのとき与えられたあのみことばが、いま、こんなふうに現実になるんですか?!」とびっくりすることがあります。

 そうして私たちの信仰がまた一歩深まるんです。「イエス様ならこれくらいできるかな?」とおそるおそる確かめるような、信仰ではなく「イエス様ならこんなみわざを見させてくれますよね?」と試すような信仰でもなく、「イエス様がともにおられる」というみことばによって、安心して、大胆に歩む信仰。そんな信仰へと導かれていく。私たち盛岡みなみ教会も、そのような信仰の歩みをしたいと願います。

 クリスチャンでない人たちから見れば、危なっかしい歩みかもしれません。「聖書のことばだけを頼りに生きるなんて、心もとなくないの?」「目に見えるものよりも、ことばを頼りにするなんて、不確かじゃないの?」「信頼に値する証拠があるほうが、ずっと確実で、安心な道なんじゃないの?」「ことばを信じるなんて、現実を見ていない、ただの夢見がちなんじゃないの?」そんな声が聞こえてくることがあります。

 いや、私たち自身も、時に考えてしまいます。「みことばだけじゃ頼りない。」「みことばだけじゃ心もとない。」「みことばだけじゃ物足りない。」「みことばはこう語っているけど、そうは言っても、現実はね…。」

 でも、イエス様が私たちに求めておられる信仰では、順番が逆なのだと思います。「現実はとてもきびしいけど、みことばがあるから何とかなる。」「毎日本当にきついけど、だからこそ、みことばを頼りに生きてみる。」「何がなくても、みことばさえあれば大丈夫。」そんなシンプルな信仰が、ことばによる信仰です。しるしの信仰から一歩突き抜けた、ことばの信仰によって、私たちも歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。


祈り

 父なる神様。私たちは、しるしがあるほうが確実で安心できるのではないかと思ってしまいます。しるしを見せてくだされば信じます、と祈ってしまうこともあります。けれども本当は、イエス様のことばさえあれば、大丈夫なはずです。臆病な私たちを、みことばによって強め、励ましてください。イエス様のことばこそ、そのとおりになるという信仰を、私たちの現実においてもますます深めさせてください。しるしの信仰から、ことばの信仰へと、成長させ、進ませてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。