マルコ14:66-72「そして彼は泣き崩れた」(宣愛師)

2024年10月13日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』14章66-72節


14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。
67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」
68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
71 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。



「そして彼は泣き崩れた」

 ペテロ。イエス様の弟子たちの中で“一番弟子”であり、二千年前に始まった初代教会の中で最も有力な指導者で、カトリック教会では最初のローマ教皇として尊敬され、正教会の一部では最初のアンティオキア総主教とされ、プロテスタント教会でももちろん愛され、尊敬されている人物。英語ではピーター、ドイツ語ではペーター、ロシア語ではピョートル、フランス語ではピエール、中国語では彼得(ピイダア)、そして日本語ではペトル、ペトロ、もしくはペテロ。

 十二弟子と呼ばれる特別な弟子たちの中でも、ペテロはやっぱり一番でした。いつもリーダー的な存在でした。マルコの福音書14章20節を見てみると、「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」と豪語するペテロの姿が記録されています。そのすぐ後の14章31節では、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」とも言い張ります。そして、そのペテロの言葉に引っ張られるかのように、他の弟子たちも次々と同じようなことを言うわけです。まさに“一番弟子”という感じです。

 ペテロは口先だけの人間ではありませんでした。彼は勇敢な人間でした。今日の聖書箇所は、「ペテロが下の中庭にいると」という言葉から始まります。「下の中庭」というのは、大祭司の家の中庭のことです。では、その大祭司の家では一体何が起こっているかというと、イエス様が裁判にかけられている。イエス様を邪魔者だと思っている権力者たち、大祭司や長老たちが、イエス様をなんとかして死刑にしてやろうと、一方的で不当な裁判を行っている。

 そのような危険な状況で、ペテロは「下の中庭」にまで来ていたんです。もちろんペテロには、大祭司の家の中に乗り込んで、裁判を中止させてイエス様を助けることまではできなかった。けれども、せめてイエス様の近くにいようとして、イエス様のおそばを離れまいとして、もしかすれば、上手い具合にイエス様を連れ出せるチャンスを伺ったりもしながら、大祭司の家の外にある庭で待機していたんです。私たちはまず、ペテロのこの勇気ある行動に敬意を表する必要があると思います。

 しかし、そんなペテロの心の中には、純粋な勇気とか、イエス様への愛情だけではない、もっと別の何かが混ざっていたかもしれません。ペテロの中にはいつも、他の弟子たちに対する競争心がありました。「自分こそが一番弟子だ。他の奴らがイエス様を見捨てても、自分だけはイエス様を見捨てない。」そういうプライドのようなものが、ペテロの中にはあったのかもしれません。しかし、もしもペテロがそのような競争心を持っていたとしても、やはり私たちは、ペテロを見下したり馬鹿にすることはできないと思います。なぜなら、私たちの心の中にも、そのような競争心があるからです。自分は他の人よりも誠実な人間だ。自分はあの人たちよりも優れている。ニュースを見てご覧なさい、おかしな人たちばかりじゃないか。それに比べて自分はちゃんとした人間だ。そういうプライドが心のどこかにないでしょうか。クリスチャンだって同じです。毎日聖書を読んで、祈って、教会の奉仕もしっかりやって、あの人よりも自分のほうがイエス様の近くにいる、と思ってしまうような競争心が、信仰心の裏側に隠れていたりするものです。

 改めて、14章66節から72節までをお読みしたいと思います。


14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。

67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」
68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
71 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。

 「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」と言われた時、ペテロは動揺して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と答えてしまいます。身の危険を察したペテロは、「前庭の方に出て行った。」しかし、まだ庭の中にはとどまっていました。イエス様を見捨てたくはない、せめて前庭にはとどまっていたいと思ったのでしょう。そうこうしていると、さっきの女性が追いかけて来て、「この人はあの人たちの仲間です」ともう一度言い始めた。ペテロは再び否定します。さすがにここで逃げるかと思いきや、「しばらくすると」と書かれているので、ペテロはここでもまだ庭の中にとどまっていたようです。ペテロの中には、自分の身を守りたい思いと、イエス様の近くにいたい思いの間で葛藤があったのでしょう。しかし三度目に、「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから」と言われて追い詰められた時、〈ペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。〉

 ジャン・カルヴァンというプロテスタントの宗教改革者は、次のように言いました。「ここで物語られるペトロの過ちは、私たちの弱さを映し出す鏡である。」私たちもまず、一度目の罪を犯します。その時はまだ、イエス様を完全に否定するような罪ではないことが多い。嘘をつくとしても、大した嘘はつきません。お金に関する罪も、性的なことに関する罪も、最初は小さなことかもしれません。ペテロが一度目にイエス様を否定した時、「すると鶏が鳴いた」とあります。これは、「これ以上罪を犯してはならない」という、神様からの警告だったのかもしれません。しかし、そこで踏みとどまることができないのが、私たち罪人の現実です。二度目の罪を犯します。ここでもまだ、罪を選ぶか、イエス様を選ぶか、私たちの中には葛藤があります。しかし、それでも三度目に進んでしまうのです。罪の深みにはまっていくのです。

 「そして彼は泣き崩れた。」自分はどうしようもない罪人であるという現実の前に、絶望するしかなくなってしまう。ペテロにとっては、自分がこだわり続けてきた競争心やプライドが粉々に砕かれていく痛みだったかもしれません。そして、愛するイエス様を裏切ってしまったことへの申し訳なさ、悔しさ、恥ずかしさ。ペテロは、自分は結構良い人間だと思っていたのでしょう。自分はイエス様の忠実な弟子なのだ。周りの人とは違うのだと、心のどこかで思っていたのでしょう。私たちもそうです。周りにいるちょっと悪い人たち、ちょっと変な人たちを見下してみたり、自分は真っ当な人間だけれども、世の中にはおかしな人たちがたくさんいるなどと思っていた最中に、実はこの自分こそが大罪人であり、イエス様から見れば全く持っておかしな人間だということを思い知る経験をする。何が一番弟子だ、何が一番イエス様に近い存在だ、自分なんてのは、誰かと比べる資格さえないような罪人じゃないかと、泣き崩れるしかないような経験です。


「ペテロに伝えなさい」

 ここでペテロは姿を消してしまいます。イエス様がゴルゴタの丘に連れて行かれて、十字架にかけられたその時、ペテロがどこにいたのか、聖書には書かれていません。ペテロはどこに行ってしまったのか。その後どうなってしまったのか。誰にもわからないのだけれども、マルコの福音書ではもう一度だけ、「ペテロ」という名前が出て来る場面があります。ずっと姿を消していたペテロの名前が、一度だけ、福音書の最後に登場するのです。それは、イエス様が十字架で殺されてから、三日目の朝の出来事でした。16章の5節から7節までをお読みします。


16:5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」

 「弟子たちとペテロに伝えなさい。」まるで、ペテロだけが特別扱いです。でもその特別扱いは、ペテロが一番弟子だったからとか、ペテロが優秀で誠実な弟子だったからではありません。ペテロが特別な罪人だったからです。特別な罪人だったからこそ、特別に赦され、特別に愛されたのです。「あの方はよみがえられました。弟子たちに伝えなさい。特に、ペテロには伝えなさい。イエスはガリラヤへ行かれます。そこでお会いできます。イエスはあなたがたにもう一度会いたいと願っておられます。ペテロにも会いたいと願っておられるのです。」

 ペテロは、もう二度とイエス様にお会いできないと思っていました。まず第一に、イエス様は死んでしまったのです。なんとかして助けに行こうと思っても、結局何もすることができず、それどころか自分の身を守るためにイエス様を何度も否定した。そしてイエス様は死んでしまった。もう二度と会うことができない。しかも、万が一イエス様が死ななかったとしても、別の意味で、もう二度とイエス様にお会いすることはできないと思っていた。いや、こんな自分のことを、イエス様は憎んでおられるに違いない。イエス様はこんな自分の顔を見たいとも思わないはずだ。イエス様にだけは顔向けできない。そう思っていたのに、諦めていたのに、イエス様と「お会いできます」と言われている。

 英語ではピーター、ドイツ語ではペーター、ロシア語ではピョートル、フランス語ではピエール、中国語では彼得。世界中のクリスチャンたちが彼の大失敗を知っているにもかかわらず、それでも尊敬され、愛されているペテロ。なぜペテロは、あの涙から立ち直ることができたのでしょうか。あの絶望的な状況から立ち直ることができたのでしょうか。やっぱり彼が優秀な弟子だったからでしょうか。彼が根本的に正しい人間だったからでしょうか。失敗から立ち上がることのできる特別な力を、ペテロがどこかに隠し持っていたからでしょうか。どれも違うと思います。ペテロが立ち直ることのできた理由。それはただ、イエス様がペテロを愛し続けてくださった、ということだけです。死の力を打ち破って、よみがえられたイエス様が、ペテロのことをお嫌いになっても全くおかしくないはずなのに、もう一度ペテロに会いたい、ペテロともう一度一緒に生きていきたいと願ってくださったからです。そこには理由はありません。イエス様がペテロを愛し続けたことに、理由などないのです。少なくとも、ペテロの側には、何も無いのです。

 そう、ペテロの内側には何もなかったのです。ペテロの内側には、もう一度立ち上がるための気力も、体力も、自信も、勇気も、何一つ残っていなかったのです。ただペテロは、イエス様に立ち上がらせてもらったのです。だからこそ、ペテロは私たちの“一番弟子”なんです。人生が順調に進んでいる時は問題を感じないかもしれません。しかし、誰の人生にも、立ち直れなくなる時が来ます。大失敗を犯し、自分の罪に絶望し、恥と惨めさの中で生きていくしかないような時が来る。もちろん、それでも本当の自分を隠して、何も問題がないかのように振る舞って、なんとか日常生活を送ろうとします。でも、心はとっくに折れてしまっていて、立ち上がろうとしても、力が湧いて来ない。反省しようとしても、すぐに同じ罪を犯してしまう。自分を責めてばかりいるのはやめよう、自分を赦してあげよう、そう思っても、自分で自分を赦しても良いと思える十分な根拠が見つからない。再び立ち上がることのできる理由が、私たちの内側には何一つ残っていないということに気づくのです。自分では自分を救うことができないということに気づくのです。そしてその時初めて私たちは、救いは私たちの外側からやって来るのだ、ということを知るのです。

 イエス様が十字架にかけられる前、ペテロに語っておられた、二つのみことばをお読みします。ルカの福音書22章32節と、マタイの福音書16章18節です。


【ルカ22:32】しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

【マタイ16:18】そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ〔岩男〕です。わたしはこの岩〔ペトラ〕の上に、わたしの教会を建てます。」

 イエス様は、ペテロがご自分を裏切ることを知っていました。それでもイエス様は、ペテロがどんなに罪の深みにはまっていっても、ペテロを愛し続けるという覚悟を決めておられて、ペテロの信仰がなくならないように祈ってくださいました。それどころかイエス様は、とんでもない失敗をやらかすことになるペテロに向かって、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と仰った。イエス様は教会を、失敗者の上に建ててしまったのです。罪を犯したことのないキラキラした成功者たちの集まりとしてではなく、「立ち直った」人たちの集まりとしてお作りになったのです。互いに見下し合ったり、競争し合うような集まりではなく、それぞれが自分の罪を認め、それゆえに励まし合うことのできる集まりとして、イエス様は教会をお作りになったのです。

 外からどう見えているかは分かりませんけれども、この盛岡みなみ教会もまさに、“ペテロ”の集まりだなあと思います。何事も順調で、何もかもうまく行っている人なんて、この教会には一人もいないと思います。私たちは皆、イエス様の赦しと救いを必要とする罪人です。そしてそれこそがまさに、イエス様ご自身がお建てになり、イエス様ご自身が喜んでお選びになってくださった、「わたしの教会」なのです。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。過ちを犯し、自らの罪を思い知り、恥と惨めさの中に打ちひしがれて、もう二度と立ち上がることができないと思うことがあります。しかし、立ち直るために必要なすべてのものは、あなたが与えてくださいます。もしも私たちの中に未だに、自分の力で立っていると勘違いするような高慢さや、自分の罪を棚に上げて誰かを見下すような思いが残っているのでしたら、どうかそれを粉々に打ち砕いてください。そしてこの盛岡みなみ教会をもう一度、あなたの恵みのみによって生きる教会、隠れた競争心やプライドを抱き続けるのではなく、赦された罪人としてお互いに励まし合えるような、愛と赦しに満ち溢れた教会として造り変えてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。