マルコ15:1-15「バラバか、イエスか」(宣愛師)

2024年10月27日 礼拝メッセージ(佐藤宣愛師)
新約聖書『マルコの福音書』15章1-15節


15:1 夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
3 そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。
4 ピラトは再びイエスに尋ねた。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。」
5 しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。

6 ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。
7 そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。
8 群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
9 そこでピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」
10 ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。
11 しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。
12 そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
13 すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
14 ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
15 それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。



「あなたはユダヤ人の王なのか」

 今日は衆議院選挙の開票日であり、岩手では参議院補欠選挙の開票日でもあります。この選挙期間、テレビを見ていても、道を歩いていても、政治家たちによる訴えが絶えずなされていました。「演説」というものは、それを聴いている人々の感情に訴えかけるものでなければなりませんが、その中でも特に、政治家たちが熱心に訴えかける感情があります。それは、怒りの感情です。「どこどこの党の政治家たちは、裏金によって私たち国民の税金を無駄遣いしていました。決してあってはならないことです」と、他の政党に対する怒りの感情に訴える。「どこどこの国が、我が国に対して不当な圧力をかけています。決して許されることではありません」と、外国に対する怒りの感情に訴えかけることもあります。それらの訴えの内容が正しいかどうかはともかくとして、怒りに訴えかける、という方法が、人々を動かすためには最も有効で、最も簡単な方法なのです。

 ナチス・ドイツの指導者として、ホロコーストを始めとする大量虐殺を行ったアドルフ・ヒトラーも、ドイツ国民の怒りを煽るという点において、天才的な才能を持っていました。第一次世界大戦に敗れ、多額の賠償金に苦しんでいたドイツ国民は、自分たちの生活の苦しさを、怒りという形で誰かにぶつけたかった。そこでヒトラーは、「我々ドイツが戦争に負け、こんなにも苦しい生活をしているのは、ユダヤ人のせいだ。この国から、いや、この世界からユダヤ人を抹殺しなければならない」と訴えかけ、怒りの矛先を示すことによって、国民の感情を揺さぶっていきました。

 第二次世界大戦が終わり、ヒトラーによる大量虐殺が終わり、生き残ったユダヤ人たちはイスラエルという国を作ることになりましたが、それを許さなかった周りのアラブ諸国との間では、今でも激しい戦争が続いています。中東地域には絶えず怒りの感情が渦巻いています。「あいつらが後からやって来て、私たちの土地に侵入してきたのだ」「いいや、私たちも昔からこの土地に住んでいたのだ」「あいつらが先に攻撃してきたから、私たちは反撃しているのだ」「いいや、あいつらのほうが犯罪者だ」という水掛け論には終わりが見えません。イスラエルの指導者たちも、アラブ諸国の指導者たちも、国民の怒りを煽り続けています。やられっぱなしになってはいけない。やり返さなければ、またあいつらが調子に乗ってしまう。

 15章の1節から5節までをお読みします。


15:1 夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。

2 ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
3 そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。
4 ピラトは再びイエスに尋ねた。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。」
5 しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。

 なんとかして、あのイエスという男を殺さなければならない。怒りと妬みの感情に突き動かされていた「祭司長たち」「長老たち」「律法学者たち」は、イエス様をピラトに引き渡します。ピラトはローマ帝国からユダヤ地方に派遣された総督だったので、ユダヤ地方での重要案件はピラトに判断してもらう必要がありました。「ピラト様、このイエスという男は、ローマ帝国に逆らう存在なのです。このイエスという男は、ローマに税金を収めることを禁止したのです。このイエスという男は、ローマの命令に背いて、自らをユダヤ人の王だと主張する危険人物なのです。」

 ピラトはイエス様に尋ねます。「あなたはユダヤ人の王なのか。」それに対するイエス様の答えは、ちょっとよく分からない言葉です。「あなたがそう言っています。」これはどういう意味でしょうか。「あなたはそう言っているけれど、わたしはユダヤ人の王ではありません」という意味でしょうか。それとも、「あなたが言っているとおり、わたしはユダヤ人の王です」という意味なのでしょうか。これはおそらく、「あなたが言っているとおり、わたしはたしかにユダヤ人の王だけれども、あなたが思っているような王ではない」ということなのでしょう。イエス様は確かにユダヤ人の王であり、全世界の王です。しかし、私たち人間が想像するような、普通の王様たちとは、ちょっと違う王様なのです。

 「あなたがそう言っています」と答えた後、イエス様は「もはや何も答えようとされなかった」とあります。なぜ「何も答えようとされなかった」のでしょうか。もしイエス様が口を開いたとすれば、イエス様は何を話されたでしょうか。「わたしは裁かれるようなことは何もしていない。ローマ帝国に逆らったこともないし、税金を収めることを禁止したこともないし、自らをユダヤ人の王だと言ったこともない」と言って自己弁護することもできたはずです。

 いや、自己弁護をするどころか、イエス様にはもっと主張すべきことがあったはずです。「あそこでわたしを訴えている祭司長たちは、不当な裁判を行っている。何の罪も犯していないわたしを縛り、唾をかけ、拳で殴った。彼らこそ裁かれるべき罪人だ。彼らこそ滅ぼされなければならない」と主張することもできたはずです。しかし、イエス様はただ黙っておられた。

 私は最近、不思議に思って考えていることがあります。私たち人間が罪を犯した時、どうして神様は、すぐに私たちに罰を与えないのだろうか、ということです。そうしてくだされば分かりやすいのに、そうしてくだされば、みんな悪いことはやめて、もっと平和な世界になるかもしれないのに、とも思うわけです。皆さんはどうでしょうか。皆さんが何かこっそりと悪いことをしたとき、突然お腹が痛くなったり、たんすの角に小指をぶつけたりするでしょうか。そういう偶然も時々あるかもしれませんけれど、基本的には、私たちが何か悪いことをした時、天から炎が降ってくるようなことはないのです。神様は黙っておられる。

 むしろ私たち人間のほうは、誰かが自分に対して悪を行った時、すぐにでも報復してやりたい、と思うものです。今すぐやり返さなければ、やられっぱなしになってしまう。ここで黙っていたら、まるでこちらが悪かったかのように思われてしまう。相手が調子に乗ってしまう。そうやってミサイルが飛び交うのです。それが私たち人間の、普通の姿だと思います。

 だから私たちは、「もはや何も答えようとされなかった」イエス様の姿を見て、驚いてしまうのです。驚くしかないのです。どうしてやられっぱなしなのだろうか。どうして言い返さないのだろうか。どうして自分の正しさを主張しないのだろうか。そのような疑問を持ちながら私たちは、イエス様は確かにユダヤ人の王であるけれども、しかし私たちが想像するような王ではない、ということの意味を、少しずつ理解することになるのです。


バラバか、イエスか

 6節から11節までをお読みします。


6 ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。

7 そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。
8 群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
9 そこでピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」
10 ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。11 しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。

 「バラバ」という人がいました。この人は「暴動で人殺しをした暴徒たち」の仲間であり、おそらくそのグループのリーダー的な存在でした。「暴動で人殺しをした暴徒たち」というのは、単なる殺人犯ではありません。現代風に言えば、彼らは政治的な「テロリスト」でした。おそらくバラバは、ローマ帝国に支配されているユダヤ人を、武力と暴力によって救い出そうとしたのでしょう。ヨハネの福音書18章40節には、「バラバは強盗であった」と書かれていますが、ここで「強盗」と訳されているギリシャ語も、単なる「強盗」というよりも、「暴力的な革命家」という意味で使われる言葉です。

 祭司長たちは、イエス様ではなくバラバを釈放してもらうようにと、群衆たちを扇動しました。もしもバラバが単なる人殺しや強盗だったなら、群衆がバラバを釈放してほしいと願うはずはありません。この群衆たちにとって、バラバはある種のヒーローでした。ローマ帝国の支配に対して勇敢にも立ち向かったヒーロー。ここにもまた、怒りという感情に支配される人間の現実が描かれています。やられっぱなしの男よりも、暴動を起こした男のほうが、人気者になるのです。ミサイルを打ち返してくれる政府のほうが頼もしいと思ってしまうのです。

 群衆たちの声が、次第に大きくなっていきます。12節から15節までをお読みします。


12 そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
13 すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
14 ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
15 それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した

 1981年に、エジプトの大統領だったサダトという人が、演説中に暗殺されました。サダト大統領は、元々はイスラエルに対して強硬な姿勢を取っており、イスラエルに対して第四次中東戦争を引き起こし、イスラエルに大打撃を与えたということで、エジプトの国民的英雄とされていました。ところがそれから数年後、サダト大統領はイスラエルを和解する方向に転換していき、長年対立していたエジプトとイスラエルとの間に平和条約を結び、1978年にノーベル平和賞も受賞しました。そしてその3年後、サダト大統領は、イスラエルとの平和を望まない過激派によって暗殺されたのです。敵国イスラエルに対して戦争を仕掛けていたときには国民的英雄として称賛されたのに、和平条約を結んだ途端、裏切り者として国民の怒りを買って殺されてしまったのです。

 ピラトがイエス様に有罪判決を下したのは、「群衆を満足させようと」してのことでした。群衆たちからすれば、イエスもバラバも両方ともユダヤ人を率いる指導者という意味では同じでした。では、イエス様とバラバのどちらかを選べと言われた時、「あなたの敵を愛しなさい」などと教えるようなヤワな指導者では、群衆は満足しなかったのです。怒りに突き動かされているからです。やられっぱなしにはなりたくないからです。

 昨年10月にイスラエルを攻撃したハマスが、暴力的なテロリスト集団であることは間違いないでしょう。ハマスの指導者たちが、パレスチナへの寄付金を懐に入れているということも、おそらく事実でしょう。人質を取ったことも、決して許せないことです。イスラエルの人々が怒りに震えることも仕方のないことです。今の中東地域で、「あなたの敵を愛しなさい」などと言う人がいるとすれば、平和ボケした馬鹿者だと思われるか、非国民として排除されてしまうことでしょう。人々はバラバを求めてしまうのです。そしてそれは、イスラエル人の中にだけあるものではなく、私たちのうちにも絶えず潜んでいる、怒りという罪のゆえです。

 ヤコブ書の1章19節から21節は、次のように語っています。


1:19 私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
20 人の怒りは神の義を実現しないのです。
21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 イスラエルは、テロリストであるハマスを壊滅させるという目標を掲げて、攻撃を続けています。たしかに、パレスチナの各地にあるハマスの軍事拠点は壊滅的な打撃を受けています。しかし、ある研究によれば、テロリストを減らすために最も有効な方法は、攻撃をすることではなく、経済的な支援を続けることだそうです。経済的な支援によって、貧しい人が少しでも減っていくことによって、怒りのエネルギーが削ぎ落とされていくのです。「あなたの敵を愛しなさい」というイエス様の教えは、人々から歓迎される方法ではありませんが、実は最も現実的な方法だとも言えるのです。神の義を実現するのは、人間の怒りではなく、イエス様のみことばだけです。

 バラバか、イエスか。私たちは日々、この選択の間に置かれています。投票先を選ぶ時にも、日常生活の中でも、怒りに身を任せるのか、それとも、「敵を愛しなさい」というみことばを中心に据えるのか。人から傷つけられることがあったとしても、やり返すことに解決を見出そうとするのか、それとも、何も答えない、ということを正しい道として選び取るのか。イエス様が私たちの罪を何度も何度も見逃して、黙って、忍耐して、その罪を背負って十字架にかかってくださったのに、私たちは人の罪を見逃すことなく、やられたらやられただけミサイルを打ち返すのか。

 私たちが罪を犯した時、天を見上げても、私たちを滅ぼす神の炎が降ってくることはありませんでした。その代わりに私たちが目にしたのは、天の御座に座っておられるイエス様の両手と両足にある十字架の釘の跡です。私たちが罪を犯した時、「この汚れた罪人!お前なんか地獄行きだ!」という声が天から聞こえることはありませんでした。その代わりに私たちが耳にしたのは、「父よ、彼らをお赦しください」というイエス様の祈りの言葉でした。このイエス様の赦しのみことばのゆえに、私たち罪人に報復することよりも、愛し続けることを選んでくださったイエス様のゆえに、私たちの心の奥底に潜む怒りを捨て去り、悔い改めることができるのです。私たちのたましいが、怒りと報復の連鎖から解き放たれ、罪の泥沼の中から救い出されていくのです。バラバを選ばせる誘惑に屈してはなりません。人間の感情やエゴに振り回されるような正義ではなく、イエス様の忍耐と赦しの十字架によって打ち立てられた神の義を求め、この方をこの世界の真の王と崇めてお従いする私たちでありたいと願います。お祈りをいたします。


祈り

 私たちの父なる神様。怒りを煽る言葉がそこかしこに溢れており、私たちも時に、そのような言葉に身を任せ、一緒になって怒りをぶつけることによって、あたかも自分が正しい人間であるかのような錯覚をし、満足するようなことがあるかもしれません。しかし、イエス様の十字架を見る時、そして、私たちが日々犯している罪をイエス様が忍耐してくださっていることを思い出す時に、自分にはそもそも怒る資格などないのだということに気づかされます。神の義を実現するために、バラバではなくイエス様を求めることができるように、私たちを平和の道に導いてください。全世界の真の王であられる、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。